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第25話 再起動

 夜と朝のあいだにある薄い層を、手でそっとめくったみたいに、世界が一枚きれいになっていた。石畳の目地は細い鉛筆で書き直されたみたいにまっすぐで、広場のベンチには、昨日までの座りぐせが消えた分、木目の線が一本よけいに見える。空気は洗い立てのさらしみたいに軽い。けれど、懐の内側だけは変わっていなかった。胸の奥にひとつ、温度の残る石を入れて歩いているような重み。それはたぶん、わたしたちが毎朝数えてきた「いつも」のつぶの重さだ。


「おはよう。新品の空気、似合ってる?」


 灰原アキが、いつものバッグを肩で押し上げて笑う。新しく磨かれた世界と、使い込んだ布の角が並ぶと、なぜか安心する。バッグの角には小さな擦り傷がいくつもあって、指でなぞると微妙に引っかかる。その引っかかりが、今日が続きの先にあると教えてくれる。


『ミカです。広場の木、葉っぱがやる気。パン屋さんの釜、音が澄んでいます。駅の階段、段差が機嫌よし。猫、まだ寝ています』


 端末の声が耳をくすぐる。画面の隅には、見慣れた印がひとつ戻っていた。外に帰るための扉のかけらみたいな印。昔、迷子になった子が握っていた鈴の音を思い出す。鳴らせば誰かが来る合図。今日は、戻ってきた合図だ。


「戻ったな」


 アキが空に顎をしゃくって、短く言う。わたしは胸ポケットの紙を確かめる。角がやわらかく丸くなって、触るだけで落ち着く。紙には、昨日の粉と香りが薄く残っている。端のほうには子ども記者が書いた落書き。へたくそな猫。どう見てもハムに見えるのに、本人いわく猫。猫に謝れ、と小声で言い、紙をしまった。


「合図が増えたぶん、今日の段取りはやさしめでいこう。無理な背伸びはしない。笑いで届くところまで」


「了解。笑いは風より届く」


『あの、ひとつ、お知らせ。外へ戻る道が開きました。今日は行き来ができます。行く人も、残る人も、自分の速さでいいと、わたしは思います』


 ミカの声はいつもより低く、やわらかい。胸の内側で鈴が鳴った気がする。戻る道。ここに来る前の自分へ通じる細い小道。そこに並ぶ足跡は、それぞれ違う深さで、でも全部ほんのり温かい。


     ◇


 広場に集まった顔ぶれは、いつもの顔と、少し緊張した顔。パン屋の老夫婦は、釜に手を当てて温度を確かめ、保育所の先生は子どもの背丈に合わせて歌の高さを決める。清掃員の青年は、新しい箒の先を手でほぐしてやわらかくしている。独り暮らしのおばあさんは、ガラス瓶のふたを並べて、どれが頑固か見極め中。子ども記者団は、黒板のまえで、色の短いチョークを石ころみたいに集めては分け合っている。


「おはようございます。あの、外に戻る道って、ほんとうに……?」


 駅員が手袋の口をきゅっと引き上げながら、こちらを見る。目の奥で、時計の針が一度だけためらう。


「あるよ。今日は風の向きが二つあって、そのどちらも正しい。どっちへ行っても、朝はちゃんとある」


 アキが言う。うしろで、子ども記者のひとりが黒板に『外の朝・中の朝』と書いて、大きな丸で二つをつないだ。丸の交わるところに「パン」と一文字。やたら堂々とした「パン」。たぶん今日の主役はパンだ。


「戻る人の段取りは、こっちに書いていこう」


 わたしは紙を取り出し、黒板の隅に貼った。そこに「挨拶」「深呼吸」「思い出の持ち方」を書き込む。せかす言葉はひとつも使わない。背中を押す手はひとつだけ。押しすぎると転ぶから、置いておくだけの手。


『ミカから追記。戻る扉は、一度にたくさん通ると恥ずかしがります。落ち着いて、順番で。戻らない選択も、今日のごちそうです』


「ごちそう」


「うん、食べすぎると眠くなるけど、みんなで分ければちょうどいい」


 子どもたちがくすっと笑う。笑いは、揮発性で、でも服の繊維に少し残る。残った笑いが後で役に立つ。緊張の角を丸くする。


 扉のほうへ、最初に歩いたのは保育所の先生だった。門の向こうに、たぶん家族の影。先生は一度振り返って、子どもたちに手を振る。子どもたちはにぎやかすぎるほどの手のひらで応える。先生は笑って、二歩、三歩。扉の前で深呼吸をして、肩の力をそっと下ろす。扉は、ため息をひとつもらして開いた。先生は振り返らない。いい背中だ。背中はいつも、言葉より信頼できる。


 次に歩いたのは、清掃員の青年の見習いだった。箒を師匠に預け、ほんの少しだけうつむいてから顔を上げる。目が合うと、少年のまぶたがぱちりと閉じた。深く礼をして、走らない速さで歩いていく。箒の先から、混ざりもののない砂の匂いがした。見習いは、その匂いを胸に入れていく。


『パン屋さんのところにも、ひとつの決めごと。奥さんは残って、主人は行く、ですって。交代で、ちゃんと眠るために』


「交代制、導入」


「交代制って言うと難しくなるから、『順番っこ』で」


「順番っこ、了解」


 猫があくびをした。扉へ向かう列のすぐ脇を、わざとゆっくり横切り、みんなの足首を一人ずつ点検する。猫の点検は合格判定しかない。それでも人は安心する。猫はえらい。


     ◇


 戻る人が増えるほど、残る人の顔つきが落ち着いていく。パン屋の奥さんは、釜の中の火をじっと見つめてから、ほほ笑む。保育所の門の前では、別の先生が歌の出だしを少し低くして、声の幅を広げた。駅ののんびり通路では、旗を持つ駅員が手首の角度を変えて、歩幅の合図をやわらげた。おばあさんの瓶は、今日も頑固だったけれど、湯気をあててから説得すると、ふたが小さく頷くみたいに回った。


『子ども記者団から速報。戻る人、残る人、どちらも涙あり。でも涙に味がない。きれいな水』


「味がない涙、いいね。塩気に頼らない」


「泣き顔は撮影禁止。心のカメラだけで」


 黒板には、「ただいま」と「いってらっしゃい」が交互に増えていく。字の上に、チョークの粉が雪みたいに積もる。粉を指でこすって、鼻の頭に白い線をつけた子がいる。本人はまるで気づかない。まわりは、気づいていて、でも言わない。帰ってきた誰かがきっと指摘するから。


『ミカから、もうひとつ。戻る道の先で、向こうの朝が待ってるそうです。匂いは牛乳。音はフライパン。おひさまは、こっちとあっちで半分こ』


「半分こ、いい響き」


「半分こにすると、残りの半分がより大事になる。両方とも本物」


 アキは木箱の上にのり、広場全体を見渡す。目で合図を送り、頷きだけで約束を交わす。お願いの言い方は短く、やわらかく。命令は今日、ぜんぶお休み。お休みをあげると、命令はふとんをかぶって素直に眠る。


「戻る扉の前、ちょっと寒いらしい。パンの端っこ、少し多めで」


「了解。焼き色、今日の太陽くらい」


 パン屋の奥さんが返事をして、端っこを切り分ける。端は、いつもより角がやわらかい。噛むと、口の中で音が鳴らない種類のサクサク。静かなサクサクは、緊張に効く。ベビーカーの持ち手に結ばれた鈴が、ひとつ鳴るたび、扉の前の人たちが、肩を一段分下げる。下がった肩は、そのまま呼吸を通す。呼吸は、戻る勇気と残る勇気の、両方の味をしている。


     ◇


 昼前、ちょっとした事件があった。黒板にいた子ども記者のひとり、いちばん字の丸がきれいな子が、戻る扉の前で立ち止まってしまった。手には、小さな紙の束。取材メモ。丸で囲んだ言葉が、何枚も何枚も。握りしめると角が痛い。痛いのに離せない。


「どうする?」


 アキが目で尋ねる。わたしはうなずいて、扉の前へ歩いた。


「その紙、重い?」


 子は小さくうなずく。


「重い紙は、持ち方を工夫すれば軽くなる。こうやって」


 わたしは胸ポケットの紙を見せた。角の丸い紙。粉で白く汚れて、猫の落書き。子が笑いそうになる。笑いそうを、笑いに変えてもらう。


「ここに一枚、ちょうだい」


 子が迷って、いちばん丸がいびつな紙を選んだ。よく見れば「ありがとう」と書いてある。丸がいびつなのは、急いで書いたからだ。急いで書いた「ありがとう」は、だいたい本物。


「これはわたしが預かる。代わりに、こっちの猫をあげよう」


「これ、猫?」


「猫。見れば見るほど猫」


 子はしばらく紙をじっと見て、とうとう笑った。笑いは、背中の結び目をひとつ解く。結び目がひとつ解けると、歩ける。子はメモの束を胸に抱え直し、扉へ向かって歩いた。扉は風に押されるみたいに、ほのかに開いた。子は一歩、二歩。振り返らない。いい背中だ。背中はやっぱり、言葉より信頼できる。


『扉のまわり、鳥が旋回を始めました。鳩です。配分係を兼ねて、見送り隊も担当』


「鳩、働きすぎ問題」


『でも胸は大きい』


「胸が大きいのは仕事ができる証拠」


 そんな会話をしていたら、猫が横からすり抜けて、扉の縁をくんくん嗅いだ。くんくんのあと、猫はしっぽをふわりと立てて、扉の向こうへ歩きかけ、やめた。そこで寝る、と丸くなった。寝るのかよ。みんながちょっと笑って、緊張の角がさらに丸くなる。


     ◇


 昼すぎ、戻る人の列はいったん途切れた。広場には、残る人の笑顔が増え、戻った人の面影が風の中に混ざる。匂いはパンと土と、少しだけ石鹸。音は歌と鈴と、箒のやさしいさすり音。黒板の「ただいま」と「いってらっしゃい」は、もうどちらが先だったか分からないくらいに並んでいた。


『ミカから報告。外へ戻った人、向こうで朝の続きに参加中。こっちの朝と似ているところ多数。ちがうところも多数。どちらも、ちゃんと朝』


「ちゃんと朝」


 アキがその言葉を口の中で転がす。転がした言葉は舌の上で甘くなる。甘い言葉は、長持ちする。わたしは胸ポケットの紙を取り出し、黒板の下に貼った。紙に、今日の「いつも」を書いていく。「湯気の角度」「歌の入り口」「のんびり通路の旗」「瓶の負け方」「鳩の胸の張り具合」「猫の横着」。紙はすぐに文字でいっぱいになり、どれもまっすぐじゃない線でつながる。まっすぐじゃない線は、地図の道に似ている。


「トワ、そろそろ、あれ、やる?」


「やろう」


 わたしたちは木箱を黒板の前に並べ、鍵の絵を立てかけた。子ども記者が描いた鍵は、朝より歯が整って、でも完璧じゃない。わざとだ。完璧な鍵はすぐ合わなくなる。ちょっとズレてるから、長く使える。


「回します」


 アキが小さく宣言して、絵の鍵の歯に指を添える。わたしもそっと力を足す。音はしない。しないのに、胸の中で、かちりと鳴る。それはたぶん、戻る人が手に握った「ただいま」と、残る人が胸に貼った「いってらっしゃい」が、鍵穴の奥で軽く触れた音だ。


『針が、またちょっと考えた』


「うん、今日の針は思慮深い」


『それと、もうひとつ。外に戻った人のなかに、手紙を置いていったひとがいます。小さな紙。折り目がやさしい』


「読んで平気?」


『うん。読む人を選ぶタイプじゃない。みんなに向けた言葉。「ありがとう。続けて。わたしも続ける」』


 黒板の端に、その言葉が写される。チョークの白が、ひかりを跳ね返す。跳ね返したひかりが、広場の隅へ飛んで、瓶の列を照らす。おばあさんはふたをひとつなでてから、並び順を変えた。頑固なやつを真ん中に。真ん中が安心すると、両端がのびやかになる。


     ◇


 日が傾きはじめるころ、戻る扉は少しだけ眠そうに見えた。扉にもきっと、体力がある。たくさんの「いってらっしゃい」と「ただいま」を受け止めて、丁寧に返して、今日はよく働いた。


「扉くん、おつかれ」


 アキが扉の脇をとんとんと叩く。木ではないのに、木にとんとんするみたいに。扉は小さく揺れて、ふりかえるみたいに光を返した。


『今日の『戻る』はここまで。あしたも開く予感。でも、予感は予告じゃない。期待は育てるもの』


「ふむ、詩的」


『今日は詩的な日』


 ミカの声は、最初よりさらにやわらかい。数字の代わりに、匂いや手ざわりや、胸の中の小さな音で話してくれる。わたしはその声に、心の中の鈴を合わせた。二つの鈴が同じ高さで鳴ると、遠くの猫の耳がぴくりと動く。猫はすかさず大あくびをして、会議を締めた。


「締めるの早いな」


「仕事が早いのはいいこと」


 笑って、広場に落ちていたチョークの欠片を拾う。指先が白くなる。その粉で、頬の汗が少しだけ目立たなくなる。こういう小さな誤魔化しは、堂々とやるとかわいい。


「数えようか」


 アキが言う。ハイタッチはしない。並んで立ち、目線だけで合図する。


「パンの端っこが、うまく割れた」


「歌の出だしが、角を丸くした」


「旗が、歩く速度をやさしく決めた」


「箒が、地面の気持ちをなだめた」


「瓶のふたが、意地をやめた」


「鳩が、見送りの胸を張った」


「猫が、会議をしめた」


「『ありがとう』が、小声であちこちに落ちた」


「扉が、恥ずかしがりながらも、がんばった」


「針が、よく考えた」


「手紙が、残していった」


「そして、今日も間に合った」


 言いながら、広場の匂いが少し変わっていくのを感じる。朝の粉の匂いから、夕方の湯気の匂いへ。湯気は色がないのに、目に優しい色をしている。鼻に優しい色、と言ったほうが正しいかもしれない。


『わたしからも、ひとつ。沈黙が怖がらなくなった』


「すてき」


『それから……戻る道を選んだ人のなかに、また来ると言った人がいます。約束の言い方が、ちゃんとやわらかかった』


「やわらかい約束は破れにくい」


「固い約束は、角で指を切る」


 黒板の下に、新しい紙を一枚貼る。今日の「いつも」のログは、次の鍵になる。鍵はもう、半分回っている気がする。残りの半分は、きっと明日の朝の湯気が押す。


「明日も、同じ時間に」


「また会うために」


 その言葉を交わして、わたしたちは肩を並べ、広場を離れた。ハイタッチはしない。しないかわりに、指先をそっと開いて風を受ける。風が指のすきまを通る。通り抜ける風は、今日の音を連れていく。歌と、鈴と、箒と、笑いと。「ただいま」と「いってらっしゃい」も、ちゃんと混ざっている。


 帰り道、アキがふいに立ち止まって空を見上げた。わたしも同じ空を見上げる。空は、洗いたての布団みたいに膨らんで、端のほうが少しだけ夕焼けの色。そこに、猫の背中の線とよく似た雲が一本、のびていた。


「なあ、トワ」


「ん?」


「もし、全部が新しくなって、何もかも真っ白になっても」


「うん」


「パンの端っこだけは、最初に焼こうぜ」


「もちろん」


 笑いが、胸の中でやわらかく揺れる。揺れた笑いは、紙の角をもう一度丸くする。丸くなった角を指でなでて、ポケットに戻した。粉の手ざわりが残る。残る粉は、明日の朝の手すりみたいに、心を支える。


 家の方角に一歩踏みだす。背中に、広場の気配。扉の気配。黒板の粉の匂い。猫のあくび。鳩の胸。どれもほんの少しずつ、こちらの背中を押す。押す手はやさしい。やさしい手に押されると、人は前を向く。前を向くと、同じ時間にまた会える。


 ミカは何も言わなかった。何も言わないことが、今日いちばんの言葉だったから。わたしたちは、静かにうなずいて別れた。うなずきは短い。短いのに、ちゃんと重い。明日の鍵の歯の一本に、たしかに触れた感触があった。


 明日も、同じ時間に。街の朝を、もう一度。

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