【おまけ/小説家になろう版】新聞記者の選択
★本編完成を記念した追加エピソードです。
投稿サイトごとに内容を変えておりますので、よろしければ他のサイトもぜひご覧ください。
・小説家になろう版:『新聞記者の選択』※ニール視点
・カクヨム版:『シトラス・リーフウッド』※シトラス視点
俺は走っていた。
石畳の街を、喘ぐように息を切らして疾走していた。
視線はただ一点のみにそそがれる。やや顔を上げて、遠くにぽつんと見える小さな人影の動向を見守った。
教会の鐘楼──そこに、二人の人間が対峙している。
ぜぇはぁと呼吸の音がうるさい。
ひどく息苦しく、喉の管がきゅっと締めつけられているようだ。走っても走っても、目的地との距離が縮まらないのがまたじれったかった。
早く、早く、早く……早く現場へ、教会へ急がねば──。
……あっ!
瞬間、俺は音にならない悲鳴を上げた。
高くそびえる鐘楼から人が一人、落ちたのだ。
すぐさまもう一人が腕を伸ばして、その落下を食い止める。しかし、遠目から見たって、無茶なあがきであることは明白であった。
走りをゆるめて、俺は立ち止まる。
見てはいけないと頭が警鐘を鳴らすなか、両目は構わず釘づけになっていた。
やがて命の繋ぎがほどける。
救いの手からすり抜けて、一人が宙へ落ちていった。
その瞬間、唐突に俺の足元も崩れだした。
まるで地面の底が抜けたようだ。砕けた石畳の破片に巻きこまれながら……俺自身も、果てのない闇へと落ちていくのであった。
* * *
ダーンッ!
「──んがっ!」
激しい音が耳をつんざいたと同時に、衝撃が俺を襲った。
脳天をゆさぶられるとは、このことか。
突然、冷や水をぶっかけられたかのように、全神経がびっくり跳ね起きる。やや遅れて、じんじん痛みが広がるも……いったいなにが起こったのか理解が追いつかず、俺は目をまばたかせた。
「なに引っくり返っとるんだ、ニール」
聞き慣れた声だった。
俺こと、新聞記者のニール・ブリッジは声のほうへ頭の角度を少し動かした。するとニュッと、顔面に影をたたえながら視界に現れたのは編集長の頭だった……なぜだか、頭の向きが逆さまであったが。
逆さまの編集長は、いぶかしげに太眉を寄せている。さらに続々と、俺を覗きこむ顔の数が増えていった。
「あっ……」
ようやく俺は、自分が床の上に倒れていることを理解した。
椅子ごと、きれいにひっくり返っている。そうだ、ここはスパロウ新聞社ウォルタ支部の三階、職場のなかだ。どうやら俺は仕事中についつい舟を漕いでしまい……やらかしてしまったらしい。
理解が進むと、鈍かった感覚が徐々に刺すような痛みに変わる。俺は「いてて……」とうめき、そばにいた同僚の手を借りて床から立ち上がった。
「お騒がせしてすみません、編集長。へへっ、ご期待に応えようと熱を入れすぎてしまったんですかね、ちょっと頭のほうがくらくらーっときちまったようで……」
ごまかすようにヘラリと笑えば、編集長を含め、周りからあきれた吐息が返ってきた。集まってきた同僚たちは、各自、微妙な顔つきをしたまま自身の持ち場へと戻っていった。
「根を詰めるなと言いたいところだが、明日に発行する新聞記事の原稿はおまえので最後なんだ。印刷班も首を長くして待っておる。早々に仕上げてくれよ、いいな?」
言いながら、編集長の目がちらっと仕事机の上に向かう。そこには書きかけの原稿と、俺の愛用のペンが転がっていた。
「……とにかく、頼んだぞ」
それだけを言い残すと、編集長は踵を返してこの場から離れていった。恰幅のある広い背中に向けて俺は頭を下げつつ、「はい、了解しやした!」と無駄に威勢のよい声を張り上げるのであった。
快活な返事に嘘はない。
じっさい、俺はとんでもない大役を任されたのだ。驚くことなかれ、明日に街に売りだされる新聞の──その表紙を飾る大記事を、なんとこのニール・ブリッジさまが書くことになったのである。
ずっと夢に見ていた大仕事だ。
やる気が出ないはすがない。
そう何度も心のなかでくり返して、俺は自分に活を入れた。寝転がっていた椅子をわざと荒っぽく起こすと、その上にどかりと勇ましく座り直す。
「やるぞッ!」
気合いを口にし、転がっていたペンを手に取る。
いざ構えて、原稿の白い空白へペン先を下ろす。続きをしたためる黒いインクを垂らそうとして──。
「…………」
先端が紙にふれるか、ふれないかの絶妙な合間。
悲しいかな、俺は完全に硬直していた。
……やはりか。意気込みとは裏腹に、どういうわけか俺の指はそこから先へと動かすことができなかったのだった。
ちなみに原稿自体はおおかた仕上がってはいる。書く記事の内容だって、ばっちり頭のなかで整理されているもんだから、引きだす言葉につまずいているわけでもない。
(それでも、この手が止まっちまう理由は一つ……)
理由は明白だった。
俺はいま、とてつもなく迷っている。
いったんその感情を認めてしまうと、さっきの威勢のよさがとたんに虚しい張りぼてと化した。秒も保たなかったその役立たなさに、辟易した俺は、またしても愛用のペンを机の端に置いてしまうのであった。
出したくもないため息ばかりが口からこぼれてくる。
いら立ちも込めて、自身の黒髪をガシガシと手で強く乱す。逃げ場を求めるように顔を上げてみれば、窓からはすでに薄い西日が差しこみはじめていた。
反射した窓ガラスは、室内の景色を写し取る。
ふと気づけば、いつの間にか周囲には俺以外の人間の姿が見当たらなくなっていた。慌てて振り返って、直に辺りを見まわしてみても……本当に誰もいなかった。
これから夜の大仕事を前に、早めの食事を取りに出かけていってしまったのだろうか。薄情なやつらだ、声くらいかけていってくれてもよかったのに……。
ひとり残された空間に、俺は自嘲気味に鼻を鳴らした。
俺にまかされた大記事──内容は言わずもがな、今回の名探偵殺人事件及び連続殺人事件の真実と結末を書くつもりである。
連日、騒ぎになっている事件とあって、街の住人たちの食いつきっぷりは容易く目に浮かぶ。さらに、一転した事件の真相を前にすれば、人々は愕然と驚くことだろう。
眼前の原稿を見下ろしながら、俺は想像する。
新聞売りに群がる大勢の人々の姿を。真実を知って誰もがおののき、恐怖に顔をゆがませるその光景を──。
「ハァ……」
情けなく眉を寄せて、小さな吐息をつく。おもむろに書きかけの原稿を手に取って、それを西日に透かすように掲げた。
俺は迷っている。
こんなものを世に出して、本当に正しいのだろうか。
「んまっ、なんてしまりのない顔だこと」
突然のハスキーボイスが、俺の感傷を邪魔した。
誰がお出ましなのかはわかっている。気だるげな視線を投げれば、すぐ近くの壁にもたれかかる細木──もとい、アラン・クレスの野郎がそこにいた。
「なんだよ、おまえかよ……」
あからさまに、不機嫌なうなり声を立ててみる。
いまの俺が最高にかっこ悪いことくらいわかっている。でも、少なくともこいつの前でそれをさらすほど、プライドはへし折れちゃいない。しゃんと背筋を伸ばして、俺は再び……そう、形だけでも原稿と向かい合う姿勢を取ろうとした。
だのに……やつは急に靴音を鳴らしてこっちに近づくと、俺が手にしていた原稿をさっと横からかっさらっていきやがった。驚いた俺がすぐに「なにすんだよ!」と噛みつくも、向こうは素知らぬ態度を貫いてしげしげ紙面を見つめている。
「ふぅーん、『恐怖の真実! ウォルタの街を震撼させた連続殺人事件の真相とその結末。恐るべき、探偵事務所の所長の正体は──』ねぇ……」
わざとらしく表題を読み上げたあげく、やつはそれをふっと鼻で笑った。
「滑稽な見出しね。いかにも三流にふさわしいお粗末なタイトルだわ。……でも、これが今回の事件の真実っていうんだから、現実というものは、ほとほとよくわからないものね」
「冷やかしならまた今度にしちゃくれねぇか。俺はいま急いでんだよ。さっさとその原稿を仕上げて、チェックを入れて、明日の印刷までには間に合わせないといけねぇからな……」
奪い返そうと腕を伸ばすが、優雅にかわされてしまった。
そのまま見せつけるように紙をひらひらゆらしながら、「ワタシもさっき廊下で編集長に泣きつかれたわよ。アンタにハッパかけてくれって」と不敵な態度でアランは話を続ける。
「もうほとんど完成しているじゃないの」
「…………」
「どうしたの? あとはさっさと仕上げるだけで終わりよ?」
「……言われなくともわかってらぁ」
いつものように強気に言い返したかった。だが、鉛のように重たくなった感情に引っぱられ、暗い声しか出ない。
そんな拍子に、突然アランがこんなことを言いだした。
「ねぇ、勝負のこと覚えてる?」
相手にするのもかったるかった。俺は「勝負? さぁね、覚えちゃいねぇな」などとうそぶく。しあさっての方角へ顔を向けていると、アランの声が続いた。
「アンタはたしかに三流の記者よ。でも、ワタシが捕まえられなかった真実にはたどり着けた」
「…………」
「気に食わないけれど……いいわ、今回は潔く負けを認めてあげる。これはその──心祝いってことで」
紙のちぎれる音がした。
はっと、俺は視線をアランへと戻す。次の瞬間には、大記事の原稿は真っ二つに引き裂かれていた。
引き裂かれた原稿はさらに細かくちぎられ、くしゃくしゃにつぶされ……丸い塊へと化し、宙に弧を描くように放り投げられる。
数秒後、小気味よい音が遠くのゴミ箱から響いた。
「……あ」
「なによ、そのマヌケ面は。アンタが本当に望んでいたのはこういうことでしょう?」
「いや、ああ……まぁ……」
「おまけにもう一つ、つけておいてあげる。今回の仕事、三流のアンタじゃあ手に負えないわよ。この平凡極まりない土地で、これからも穏やかに暮らしていきたいのなら……野暮なことに首を突っこまないことね」
事件のことはきっぱり忘れなさい。
と、アランは言った。
そのときに見せたこの男の表情を、俺は生涯忘れないだろう。ぶるっとだけ震えて、見て見ぬふりをした。
それからごまかすように、くしゃりと自身の黒髪をかく。「……あー、どうすんだよ」と、これまたわざとらしく苦々しい声を上げた。
「こりゃ、明日の発行には間に合わねぇな。ハハッ、せっかくつかんだ特ダネがパァときたか。編集長、卒倒するぜぇ?」
泡を吹いて、ひっくり返る中年親父の姿を想像してみた。ふくれた腹がカエルのように見えて、つい含み笑いをしてしまう。
一方のアランは「あら、もうネタ切れなの?」と、また声を弾ませた。
「あるじゃない、とびきり最高のネタが」
咳払いして笑いをごまかしたあと、俺はけげんな目でアランを見つめた。やつはずいっと俺の仕事机へと身を乗りだすと、机の端にあった俺のペンを手で拾った。そして、適当な紙の上にペン先を走らせるのであった。
「ワタシだったら……こう書くわ」
「!」
さらっと書き記したその題を目にして、俺が固まったのは言うまでもない。
身も心も硬直したが──薄情なことに、同時に頭のなかでぶわっと大量の言葉が湧きだした。俺はすぐさまアランの手からペンを奪い返すと、仕事机にかじりつく。この最低なアイデアが消えぬうちに、俺は新しい原稿を書きはじめるのであった。
ちなみに書き上げるまで、およそ十分もかからなかった。
* * *
かくして、名探偵ハロウ・オーリンの大記事は大好評に終わった。
連日、その名を街で聞かない日はなかった。だが、当人がウォルタから去ったことも重なり、話題と熱気はその後一週間も持たなかったと思う。
ハロウと同時に、アランのやつもスパロウ社からいなくなった。もうこの街に用はないと、自らどこか別の地域に移っていったのだと、後に編集長から聞かされた。
張り合いはなくしたが、うじうじしている暇はない。
運河の水の流れが途絶えないのとおなじように、今日も今日とて、新聞記者のニール・ブリッジは特ダネを追うのであった。
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