第23話 あたらしい木型
看板を下ろしたのは、春のよく晴れた日だった。塗り直すためだ。三月ぶん、雪と風に当たった。字の溝に泥が入っている。掻き出す。油を引く。乾かす。半日で済む。庇の下に立てかけて、ノラと二人で眺めた。
「奥様」
「はい」
「これ、下手ですよね」
「下手でございます」
「二画目、太いです」
「太うございます」
「直さないんですか」
「直しません」
「なんでですか」
「父のも、同じでしたので」
「じゃあ、なんで下手なままなんですか」
「彫るのが下手だからです」
「そこは直しましょうよ」
「直すと、父のと違うものになります」
ノラは、看板をしばらく見ていた。
「……じゃあ、あたしのも太くていいですね」
「構いません」
◇
この三月で、店は少し変わった。棚が二列から三列になった。三列目は、二十二人ぶんだ。まだ半分しか埋まっていない。埋まるのは夏になる。
籠は四つに増えた。土間の隅では足りなくなって、奥に棚を作った。作ったのは宿の主人だ。頼んでいない。頼んでいないのに来て、半日で組んで帰った。ヘルマン様は、毎朝来る。雪はもう無いので、今は表を掃いていく。
ノラは、木型を三組彫った。三組目は、荒落としから仕上げまで一人でやった。まだ甘い。甘いが、履ける。わたくしは、五十七足を八十四足まで直した。
「奥様。八十四足って、多いんですか」
「多うございます」
「王都だと、どのくらいですか」
「父の店で、年に二百ほどでした」
「じゃあ、三月で八十四なら」
「年に三百を越えます」
「勝ってますね」
「直しの数でございます。新しく作った靴は、まだ六足です」
「六足」
「はい。アーベル様が三足、あなたが二足、それと」
わたくしは、そこで少し言い方を探した。
「雪かきのヘルマン様が、一足」
「あれ、直しじゃないんですか」
「途中から、全部作り替えました」
「じゃあ、銅貨四枚で新品を渡したってことですか」
「そうなります」
ノラは、しばらく黙った。
「奥様、やっぱり商売下手です」
◇
その日の夕方、アーベル様が来た。三足目を履いていらした。一月半ほど履いている。底の減り方を見せていただくと、左右がほとんど同じだった。
「アーベル様」
「なんだ」
「揃っております」
「揃っている」
「はい。左右の減り方が。……予定より早うございます」
その方は、上がり框に座った。座り方が、もう普通の人と同じだった。
「一年と言っていたな」
「はい。三月で、ここまで来るとは思いませんでした」
「歩いたからな」
「どのくらい」
「毎日、坂を三度」
わたくしは巻き尺を置いた。
「三度」
「上って、下りて、三度だ」
「……よく続きました」
「続く理由があった」
その方は、そこで言葉を切った。
「アルンド」
「はい」
「あんたに、頼みたいことがある」
「靴でございますか」
「靴だ」
「承ります」
「まだ何も言っていない」
「靴でしたら、たいてい承ります」
その方は、少し笑った。それから、上がり框から立ち上がった。立って、しばらく黙っていた。
「……四足目を、頼みたい」
「どういうものを」
「式のものだ」
わたくしは、糸車の縁に手を置いた。
「どなたの式でしょう」
「俺のだ」
土間は静かだった。外で、ノラが表を掃いている音がした。掃く音が、途中で止まった。止まって、また始まった。わざとらしく大きく掃いている。
「アーベル様」
「言っておくが、俺は、こういうことが下手だ」
「存じております」
「十年、人と話していない」
「はい」
「だから、うまく言えん」
その方は、そこで一度、息を吸った。
「あんたの作った靴で、俺は階段を降りた。十年ぶりだった」
「はい」
「あのとき、俺は、これから先も階段があると思った」
わたくしは、手を置いたまま動かなかった。
「一段ずつでいい。降りるほうを、一緒に見てくれないか」
わたくしは、しばらく答えなかった。答えなかったのは、迷ったからではない。答えを口にする言い方を、持っていなかったからだ。十年、この手のことは言われたことがない。言われたことがなければ、返し方も覚えない。
「アーベル様」
「ああ」
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「わたくしは、工房をたたみません」
「たためと言っていない」
「ノルデンに置いたままにいたします」
「置いておけばいい」
「三月に一度、王都から靴が届きます。あの方のものです」
その方の眉が、少し動いた。動いたが、何も言わなかった。
「それも、続けます」
「……止めろとは言わん」
「よろしいのですか」
「あんたの仕事だ」
わたくしは、糸車から手を離した。
「では、お受けいたします」
「靴の話か」
「両方でございます」
その方は、しばらく黙っていた。それから、両手で顔を一度こすった。安心したときの手つきだった。
「……足の話でしか言えんかった」
「よく分かりました」
「分かったのか」
「はい。足の話でしたので」
外で、掃く音が完全に止まった。それから、箒が倒れる音がした。
◇
その夜、わたくしは棚の整理をした。三列になった棚を、端から確かめる。名札を読み直して、彫った年を確かめる。減っているものは、彫り直しの印をつける。一番奥の段は、婚家の型だ。布をかけたままにしてある。
布を取って、並びを直そうとした。そのときに、気づいた。
一番奥に、一本ある。
名札が、無かった。
いや、名札はあった。ただ、名前が彫られていない。板だけが、紐で下がっている。わたくしは、それを手に取った。軽い。ほかの型より軽い。彫り込みが深いからだ。深く彫れば軽くなる。軽い型は、握りやすい。
楢だ。左足のもの。彫りは、途中で止まっている。踵から先は形になっているが、指の付け根から爪先までが荒いままだ。この彫り方を、わたくしは知っている。指の付け根の傾きから彫っている。父の順だ。
わたくしの手ではない。
覚えがなかった。十年、この棚に並べたものは全部わたくしが彫った。数も覚えている。婚家の型は五十四本。今日、数え直した。
五十五本あった。
名札の裏を見た。鉛筆で、二字だけ書いてあった。父の字だ。震えている。
――返す。
わたくしは、灯りをそこへ寄せた。誰の足か、分からない。小さい。女のものだ。あるいは、子どものものかもしれない。踵が細い。甲が低い。それ以上のことは、荒いままの部分に隠れている。
寸法は取れる。取れば、この型が誰のものかは分かるかもしれない。ただ、今夜は測る気になれなかった。父が彫れなくなったのは、十年前の春だ。この型は、その頃のものだ。荒いのは、途中で手が止まったからだろう。
父は、これを彫りかけたまま、木型棚に混ぜた。混ぜて、名札に「返す」とだけ書いた。誰に返すのかは、書いていない。わたくしは、その型を棚に戻した。戻して、布をかけた。
明日、二十二人のうちの三人が来る。夕方に測る約束をしている。夕方でないと、正しい寸法が出ない。窓を開けた。
雪はもう無い。坂の下のほうに、灯りがいくつか点いている。三月前は、この時刻に灯りは点いていなかった。夜に外を歩く人がいなかったからだ。
今は、歩いている。
ヘルマン様の家の灯りが見えた。その二軒隣は、育ちすぎた足の子の家だ。もっと下に、宿の帳場の灯り。どの家の人の足も、測った。測った足は、覚えている。顔は、半分ほどしか覚えていない。
それでも、この街のことは、たぶん、少しは分かるようになった。
第1部、完結でございます。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
この物語は、怒鳴る人も、殴る人も、復讐する人も出てまいりませんでした。ただ、合わない靴を履き続けた人が歩けなくなり、合う靴を作れる人が北で店を開けた。それだけのお話です。
棚の奥の木型のことは、書いておりません。書けるようになりましたら、また書きます。
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