梅雨は好きになれない。
梅雨は好きになれない。
放課後。
水平彗は、いつものように旧校舎へ呼び出された。
いつからだっただろう。
彼らは彗に飽きるまで拳を振るい、喉が渇くまで罵声を浴びせる。
そして何事もなかったように帰っていく。
──それが日常だった。
帰り道。
制服は泥で汚れ、頬から流れた血は雨に薄められていく。
背後から、小さな声が聞こえた。
「あ、あの……」
彗は振り返らずに歩き続ける。
雨音にかき消されそうなその声は、追いかけるたびに少しずつ大きくなり、それとは反対に自信だけが失われていった。
「水平君……だよね」
彗はようやく足を止める。
振り返ると、そこにいたのはクラスメイトの北宮凪だった。
今日初めて、あの放課後の”いつもの光景”に加わっていた少女。
そのことを、霧がかかったような頭でぼんやりと思い出す。
「あの……その……」
凪は視線を泳がせ、両手を胸の前で握りしめる。
「さっきは……ごめんね」
消え入りそうな声だった。
「なんで?」
彗は首を傾げる。
責めるような口調ではない。
本当に意味が分からないという顔だった。
謝る理由は分かる。
けれど、それを口にする意味が理解できない。
「だって……その怪我……私も止められなかったし……」
凪はバッグから消毒液と包帯を取り出す。
「これ、使って──」
「北宮さん、だよね」
「あ……う、うん」
突然名前を呼ばれ、凪は肩を震わせる。
「北宮さんも辛いのに、なんで人の心配をするの?」
「……え?」
思わず聞き返す。
その言葉は予想していたものとはあまりにも違っていた。
彗は凪の目を静かに見つめる。
「ずっと無理して笑ってる。」
「みんなに合わせて、本当は嫌なのに嫌って言えない。」
「そんな人が、どうして俺なんかを気にするの?」
凪の表情が凍りつく。
誰にも気付かれないように隠してきたものを、初対面同然の少年が言い当てたからだ。
「俺より、自分を大事にした方がいい。」
そう言うと彗は何事もなかったように歩き出した。
残された凪は、雨の中で立ち尽くす。
自分を心配されたのは──いつ以来だったのか、思い出せなかった。




