第24話「誰にも触れさせない」
夜は、まだ終わっていない。
社から少し離れた山の奥。
人の気配が途絶える場所。
水の音すら届かない、乾いた静寂。
その中に——
一人、立っていた。
「……はぁ」
短く息を吐く。
ようやく、誰もいない。
そう確認してから——
迅は、わずかに肩の力を抜いた。
その瞬間。
表情が、崩れる。
「……面倒なことになったな」
呟く声は、どこか自嘲気味だった。
さっきまでの“何も感じていない顔”は、もうない。
代わりにあるのは——
隠していたもの。
押し殺していたもの。
そのままの、顔。
「……あいつ」
ぽつりと漏れる。
小夜の姿が、頭に浮かぶ。
真っ直ぐな目。
震えながらも、引かなかった声。
『それでも、隣に立ちたいんです』
「……ほんと、厄介だ」
苦く笑う。
けれどその笑いは、どこか柔らかい。
ほんの少しだけ。
救われてしまっている。
それが、分かってしまうから。
「……だから駄目なんだよ」
低く、呟く。
自分に言い聞かせるように。
そして——
一歩、踏み出す。
その足元。
地面が、かすかに軋む。
乾いた音。
「……出てくるな」
空間に向かって、言う。
返事はない。
けれど——
気配は、ある。
ずっと前から。
消えないもの。
離れないもの。
そして——
自分の中に、あるもの。
「……まだ、いるんだろ」
その瞬間。
空気が、歪んだ。
視界の端が、黒く滲む。
音が消える。
温度が落ちる。
そして——
『……かえ、せ』
耳の奥に、響く声。
あの時と同じ。
枯れた、欠けた声。
「……黙れ」
即座に返す。
躊躇いはない。
慣れている。
何度も、何度も。
繰り返してきたやり取り。
『……かえせ』
声が、近づく。
地面が、じわりと黒く変色する。
ひび割れる。
乾いていく。
「……俺には、関係ない」
踏みしめる。
力を込める。
すると——
黒が、押し返される。
わずかに。
だが確実に。
「……あれは、終わったことだ」
自分に言い聞かせるように。
だが——
『……おまえが』
声が、変わる。
わずかに、歪む。
『……こわした』
その言葉に。
ほんの一瞬だけ。
迅の動きが、止まる。
「……っ」
歯を食いしばる。
視界の奥に、焼き付いている。
あの光景。
壊れた神域。
崩れた結界。
倒れていく人影。
そして——
自分の手。
「……違う」
低く、吐き捨てる。
けれど。
否定しきれない。
「……俺は」
言葉が、途切れる。
代わりに。
拳を握る。
爪が食い込む。
「……止められなかっただけだ」
それは、言い訳だ。
自分でも分かっている。
でも。
それでも。
それ以上を、認めたくない。
『……にげるな』
声が、迫る。
すぐそばまで。
『……また、くりかえす』
「……させるかよ」
顔を上げる。
目に、強い光が宿る。
怒りではない。
恐れでもない。
ただ——
“決めている目”。
「今度は、止める」
一歩、踏み出す。
「何が来ても」
「何を壊そうとしても」
黒が、ざわめく。
広がろうとする。
だが——
それ以上、進まない。
「……俺が全部、斬る」
静かに、言い切る。
その言葉には、揺れがない。
それが。
迅という男の、在り方。
背負い方。
そして——
罰の受け方。
「……だから」
ぽつりと、続ける。
声が、少しだけ落ちる。
「——あいつは、巻き込まない」
小夜の顔が浮かぶ。
笑った顔。
困った顔。
それでも、前を向く顔。
「……あんな奴」
苦く、息を吐く。
「こっちに来るな」
本音だった。
拒絶ではない。
願いに近い。
「……来たら」
一瞬、言葉が止まる。
それでも、続ける。
「……守れなくなる」
その言葉だけが。
ぽつりと、落ちた。
静かな夜に。
重く、沈む。
黒が、わずかに揺れる。
だがもう、広がらない。
押し込められている。
無理やりに。
ねじ伏せるように。
それが、今の限界。
「……帰るか」
小さく呟く。
何事もなかったように。
いつもの顔に戻る準備をする。
仮面を、被る。
あの距離を、保つために。
小夜を、遠ざけるために。
そして——
背を向ける。
歩き出す。
その足取りは、いつも通り。
迷いはない。
ただ一つだけ。
誰にも見せないものが、残る。
ほんの一瞬。
振り返りそうになる。
だが——
やめた。
「……来るなよ」
聞こえないはずの場所に向かって。
小さく、呟く。
それは祈りではない。
願いでもない。
ただの——
“弱さ”だった。
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