第19話「正しさの来訪」
街の朝は、静かに始まる。
水路を流れる水は澄み、畑には青が広がり、人の声は柔らかい。
かつての朽葉村を知る者なら、誰もが目を疑う光景だった。
「……すごいもんだねぇ」
お梅が腕を組みながら頷く。
「最初はどうなるかと思ったけどさ」
「はい」
小夜は少し照れたように笑う。
「みんなが頑張ったからです」
「またそうやって」
お梅は呆れたように肩をすくめる。
「全部自分でやったくせに」
「そんなこと……」
言いかけて、小夜は言葉を止めた。
——風が変わった。
さっきまでの柔らかさが、すっと消える。
空気が、張る。
それは敵意ではない。
だが——
“見られている”感覚。
「……来たか」
低く、迅が呟いた。
同時に。
街の入口から、数人の影が現れる。
白装束。
整った歩み。
無駄のない気配。
その中央に立つ少女が、一歩前へ出た。
赤い髪が、風に揺れる。
強い目。
揺るがない姿勢。
そして——
小夜を見据える視線。
「……久しぶりね」
その声を聞いた瞬間。
小夜の呼吸が、わずかに止まる。
「火乃香……」
名を呼ぶ。
かつて、自分を追い出した巫女。
神社勢力の中核にいる存在。
火乃香はゆっくりと周囲を見渡す。
街。
人。
水。
空気。
そして——神域。
「……随分と、好き勝手やっているのね」
その一言は、穏やかだった。
だが中にあるのは、明確な“評価”。
「これはもう、“村”ではないわ」
視線が、小夜へ戻る。
「無許可でここまで神域を拡張するなんて」
わずかに眉が寄る。
「規定違反よ」
その言葉に、空気が一段重くなる。
お梅が小さく息を呑む。
村人たちも、ざわめきを抑えきれない。
だが小夜は、ゆっくりと一歩前へ出た。
「……規定って」
静かな声。
「誰のためのものですか?」
火乃香の目が、細くなる。
「当然でしょう」
即答だった。
「神を守るためのものよ」
「本当に?」
小夜は、真っ直ぐに問い返す。
「神を“守る”って」
ほんの少しだけ、声が揺れる。
「神の声を聞かないことなんですか?」
その瞬間。
空気が、凍る。
火乃香の瞳に、はっきりと感情が浮かぶ。
——苛立ち。
だがそれはすぐに押し殺される。
「……変わらないのね」
静かに吐き出される言葉。
「そういうところが」
小夜は何も言わない。
ただ、見つめ返す。
「あなたはいつもそう」
火乃香は一歩、近づく。
「感覚で動く」
「正しさを持たない」
「だから——危険なのよ」
その言葉は断定だった。
「正しさって……」
小夜は小さく呟く。
少しだけ、視線を落とす。
だがすぐに顔を上げる。
「じゃあ、聞いてもいいですか」
火乃香を見据える。
「この街は、間違ってますか?」
沈黙。
誰もが息を止める。
火乃香の視線が、再び街へ向く。
水路。
畑。
笑う人々。
そして——
満ちた神域。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
迷いが、揺れた。
だが。
「……結果と正しさは別よ」
冷たく、言い切る。
「一時的にうまくいっているだけ」
「長くは持たない」
「むしろ——」
視線が、鋭くなる。
「歪みを広げている可能性すらある」
その言葉に、小夜の胸がわずかに締まる。
だが。
「それでも」
小夜は言う。
「ここは、ちゃんと回っています」
迷いはない。
「人も、神も、妖も」
「みんなが、ここにいる」
静かに。
でも、確かに。
「それを守りたいです」
火乃香は、しばらく黙っていた。
やがて——
「……そう」
短く返す。
感情は読めない。
だがその目は、明らかに変わっていた。
——観察から、“判断”へ。
「なら」
すっと手を上げる。
背後の巫女たちが一歩前へ出る。
「これは“監視対象”として報告するわ」
ざわり、と空気が揺れる。
「今後、この地は神社の管理下に置かれる可能性がある」
その言葉は——
宣告だった。
「……っ」
お梅が息を呑む。
村人たちの顔に、不安が広がる。
だが。
「……やめておけ」
低く、迅が口を開いた。
火乃香の視線が動く。
「ここは、お前たちの場所じゃない」
「そうね」
火乃香はあっさりと認める。
「“今は”」
そして——
再び小夜を見る。
「でも、いずれそうなる」
静かな確信。
「あなたのやり方は、広がりすぎる」
「だから止める」
その言葉に、嘘はなかった。
正しさとして。
本気で。
火乃香はそう思っている。
だからこそ——
厄介だった。
「……また来るわ」
踵を返す。
そのまま、歩き出す。
去り際。
一度だけ。
ほんの一瞬だけ。
火乃香の視線が、街を振り返った。
そして——
小さく、呟く。
「……どうして」
誰にも聞こえないほどの声。
「あなたなのよ」
そのまま。
神社の一団は去っていった。
残されたのは、重い静寂。
「……面倒なのが来たな」
水月がぽつりと呟く。
小夜は、何も言わなかった。
ただ。
遠ざかる背中を、ずっと見つめていた。
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——正しさは、時に世界を壊す。
そしてそれは、優しさよりも強い。
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