第17話「満ちるもの、欠けるもの」
朝の光が、街をやわらかく包み込んでいた。
かつて“朽葉村”と呼ばれていたその土地は、今では誰もがそう呼ばない。
人が行き交い、声が交わり、笑いが生まれる。
小さな村は——確かに、“街”になっていた。
「小夜ちゃん! こっちも見てって!」
明るい声に振り向けば、お梅が手を振っている。
その向こうでは、新が走り回り、商人らしき人々が荷を運び、見知らぬ顔も増えていた。
すべてが、繋がっている。
人と人が。
人と土地が。
そして——神と人が。
小夜はその光景を、少しだけ眩しそうに見つめた。
(……ここまで、来たんだ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
最初は、ただの荒れた祠だった。
誰にも必要とされず、誰も振り向かなかった場所。
それが今は——
「見違えたな」
低く落ち着いた声が、隣から聞こえた。
振り向いた小夜は、一瞬だけ言葉を失う。
そこに立っていたのは、かつて知る姿とは違う“神”だった。
長く流れるような黒髪。
水面のように静かで深い瞳。
纏う気配は穏やかでありながら、確かな威厳を帯びている。
それでも、その奥にあるものは変わらない。
「……水月、様」
名を呼ぶと、彼はわずかに笑った。
「ああ。どうやら、少し“戻った”らしい」
軽く言うその言葉に、小夜は胸が詰まる。
子供の姿で、どこか頼りなげに笑っていたあの神が——
今は、堂々とこの場所に立っている。
「すごい……ですね」
「お前がやったことだ」
即座に返される言葉。
小夜は首を振る。
「違います。私は、ただ繋いだだけで……」
「それが出来るのは、お前だけだ」
水月の声は静かで、けれど揺るがなかった。
「人も、妖も、そして神も——
“ここに在っていい”と思わせたのは、お前だ」
言葉が、胸の奥に落ちる。
熱いのに、どこか切ない。
小夜は少しだけ視線を逸らした。
「……まだ、途中です」
「そうだな」
水月は空を見上げる。
「だが、ここはもう“始まりの場所”ではない」
その視線の先には、広がる街。
活気。
温もり。
生きている土地。
すべてが満ちている。
——はずだった。
「……あれ?」
ぽつりと、小夜が呟く。
ほんの些細な違和感。
誰も気づかないような、ほんの小さなズレ。
「どうした」
「今……」
小夜は、遠くの畑を見つめる。
緑が広がるはずのそこに、ほんの一瞬だけ——
色の抜けたような場所が見えた。
瞬きをする。
すると、それはもう消えている。
「気のせい、でしょうか……」
自分でも確信が持てない。
けれど、胸の奥がざわつく。
水月もまた、その方向へ視線を向ける。
そして、ほんのわずかに——表情を曇らせた。
「……いや」
低く、呟く。
「気のせいではない」
その一言で、空気が変わった。
さっきまでの穏やかさが、すっと引いていく。
「迅を呼べ」
「え……?」
「いいから」
普段よりも、わずかに強い口調。
小夜は頷き、足を動かしかける——
そのときだった。
遠くから、悲鳴が上がる。
「——畑がっ!!」
その声に、周囲の空気が凍りつく。
人々がざわめき、視線が一斉にそちらへ向く。
小夜と水月も駆け出した。
畑に辿り着いたとき。
そこにあったのは——
“あり得ない光景”だった。
青々としていたはずの作物が、
根元から黒く、乾き、崩れ落ちている。
まるで——
“生きていたものが、一瞬で死んだ”ように。
「そんな……」
誰かが呟く。
小夜は、震える手でその土に触れた。
冷たい。
いや、それだけではない。
“何もない”。
命の流れが、完全に途絶えている。
(……これ、は)
知っている。
この感覚を、小夜は知っている。
忘れようとしていたはずなのに。
胸の奥に、嫌な記憶が蘇る。
祈っても届かなかった、あの日の——
「触るな」
低い声が、小夜を止める。
振り向くと、迅が立っていた。
いつの間に来たのか。
その視線は鋭く、地面を睨んでいる。
「……ただの枯れじゃないな」
そう言って、剣の柄に手をかける。
警戒。
明確な、戦いの気配。
「水月」
迅が名を呼ぶ。
水月は、わずかに頷いた。
そして——言う。
「来ている」
その一言に、空気が凍る。
「神が消えた土地に生まれる歪み……」
水月の瞳が、深く沈む。
「——“枯神”だ」
ざわり、と風が揺れる。
その瞬間。
小夜の背筋を、冷たいものが走った。
振り向く。
誰もいないはずの空間。
けれど、確かに“何か”がいる。
見えないのに、いるとわかる。
乾いた気配。
命を拒むもの。
そして——
かすかに、声がした。
『……かえ、せ』
耳元で、囁くように。
小夜の呼吸が止まる。
『……かえせ』
それは、恨みでも怒りでもない。
ただ、空っぽの——
“欠けたものの声”。
「——小夜!」
迅の声で、意識が引き戻される。
気づけば、足元の土がさらに黒く変色していた。
まるで、小夜に反応するように。
「……っ」
後ずさる。
そのとき、水月が静かに前へ出た。
そして、小夜を庇うように立つ。
「……なるほど」
低く、呟く。
「再生した場所に、歪みが引き寄せられたか」
視線は、何もない空間へ。
だが確かに“何か”を見据えている。
「面倒なことになったな」
その言葉は静かだった。
けれど——
その場にいる誰もが理解してしまう。
これは、終わりではない。
むしろ——
ここから始まるのだと。
小夜は、無意識に自分の手を見つめた。
ほんの少しだけ。
指先の感覚が、薄れている気がした。
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——それは、“満ちた世界”に生まれた最初の亀裂だった。
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