第1話 追放された巫女と、忘れられた神
――音が、しなかった。
白木の床に座る自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
「……小夜」
名を呼ばれて、ゆっくりと顔を上げる。
正面には、神官長。
その後ろには、整然と並ぶ巫女たち。
視線が、痛いほどに集まっている。
「本日をもって、お前を巫女の任から外す」
淡々とした声。
感情はない。
ただ“決定事項”を告げているだけの響き。
それでも。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
震えないように意識したわけではない。
ただ――もう、分かっていたからだ。
「祈りが届かぬ者に、巫女の資格はない」
神官長は一切迷いなく言い切る。
「雨乞いも、病祓いも、お前だけが結果を出せていない」
背後で、かすかなざわめきが起こる。
知っている。
ずっと言われ続けてきたことだ。
「……ですが、祭祀の維持や清めは――」
「それは“誰でもできる仕事”だ」
言葉を遮られる。
ぴたり、と。
逃げ道を断つように。
「巫女とは、神と繋がる者のことを言う」
神官長の視線が、まっすぐに小夜を射抜く。
「お前は、一度も“神の声”を聞いたことがない」
――その通りだった。
いや。
(……違う)
胸の奥で、何かがかすかに揺れる。
幼い頃。
一度だけ。
確かに――
でも、それを言葉にする前に。
「選ばれなかった者に、役目はない」
冷たい一言が、すべてを覆い隠した。
---
視線が落ちる。
自分の手が、白い袖の上で小さく握られているのが見えた。
祈っても、届かなかった。
誰も救えなかった。
あの日から――
(私は)
祈ることが、怖くなった。
---
「……承知いたしました」
小夜は、静かに頭を下げた。
それ以上、何も言わなかった。
言えなかった、ではない。
言う意味が、もうなかった。
---
社を出たとき、春の光が目に入った。
眩しいはずなのに、どこか遠い。
背後で、戸が閉まる音がする。
それで、本当に終わった。
「……これで、いいんです」
誰に言うでもなく、呟く。
祈れない巫女なんて、いない方がいい。
そう思っていた。
ずっと。
---
それでも、足は止まらなかった。
どこへ行くあてもないのに、ただ前へ進む。
街を抜け、道を外れ、気づけば獣道のような山道を歩いていた。
風の音が、少しずつ変わる。
人の気配が、遠ざかっていく。
---
やがて。
視界の先に、小さな集落が見えた。
朽葉村。
名も知らぬその村は――どこか、色を失っていた。
畑は枯れ、土はひび割れ、水の気配がない。
空気が重く、静かすぎる。
(……神域が、ない)
ふと、そんな感覚がよぎる。
巫女としての知識だけが、残っていた。
---
そのとき。
小夜の視線が、ふと引き寄せられた。
村の外れ。
木々に埋もれるようにして、石段がある。
崩れかけた、古い祠。
「……あそこ」
理由は分からない。
けれど、足が自然とそちらへ向かっていた。
---
一段、一段、石段を上る。
踏みしめるたびに、乾いた音が響く。
長い間、誰も通っていないのだろう。
落ち葉と苔に覆われている。
それでも。
(……いる)
胸の奥が、わずかに震える。
今まで感じたことのない感覚。
弱くて、消えそうで。
でも確かに、“何か”がそこにある。
---
祠の前に立つ。
朽ちかけた木材。割れた屋根。色褪せたしめ縄。
忘れられた場所。
それでも――
「……お掃除、してもいいですか」
思わず、そう口にしていた。
返事はない。
当然だ。
それでも、小夜は袖をまくった。
---
落ち葉を払い、汚れを拭う。
冷たい水で手がかじかむ。
衣はすぐに汚れた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
(……ああ)
思い出す。
こうして誰かのために動くこと。
祈る前の、当たり前のこと。
---
やがて、祠は少しだけ姿を取り戻した。
完全ではない。
けれど、“忘れられている状態”ではなくなった。
小夜はその前に座り、静かに手を合わせる。
---
――祈るのが、怖い。
その気持ちは、消えていない。
それでも。
(それでも、私は)
目を閉じる。
深く、息を吸う。
そして。
「……ここに、いますか」
小さく、声に出した。
祈りではない。
問いかけ。
---
その瞬間。
風が、止まった。
音が消える。
世界が、一拍だけ静止したように感じた。
---
『……遅いよ』
かすかに、声がした。
耳ではない。
胸の奥に、直接落ちてくるような響き。
「……え」
小夜は目を開ける。
誰もいない。
けれど。
「……今の」
鼓動が速くなる。
息が浅くなる。
それでも――逃げなかった。
「……神様、ですか」
---
少しの沈黙。
そして。
『やっと、来てくれた』
今度は、はっきりとした声。
どこか拗ねたようで、でも嬉しそうな響き。
その瞬間。
地面に、ぽたりと水が落ちた。
---
乾いていた土が、わずかに色を変える。
もう一滴。
また一滴。
やがてそれは、細い流れとなって湧き出した。
「……水……?」
信じられないものを見るように、目を見開く。
触れると、ひんやりと冷たい。
けれど、どこかやさしい。
---
『ね? 終わってないでしょ』
声が、すぐそばで笑う。
小夜の胸が、強く揺れた。
---
(……終わってない)
さっきまで、自分で終わらせたはずなのに。
否定されたはずなのに。
---
涙が、静かにこぼれる。
止めようとしても、止まらない。
「……はい」
小さく、でもはっきりと答える。
---
祈りが、届かなかったわけじゃない。
ただ――
まだ、出会っていなかっただけ。
---
忘れられた神と。
居場所をなくした巫女が。
この場所で、出会った。
---
(ここから、始まる)
そう思えたのは、きっと。
初めてだった。
(続く)
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