第19話「玲子の決意」
初夏の風が少し湿り気を帯び始めた午後。陽菜は「ほぐし庵」のカウンターで、新しく仕入れたアロマオイルの瓶を並べながら鼻を近づけた。ラベンダー、シトラス、ペパーミント――香りを試していると、入口のベルが鳴った。
「こんにちは、桜井さん。」
声の主は、専業主婦の山本玲子だった。いつもどおりの優雅な微笑みを浮かべているが、その目の奥には少し曇りが見える。
「玲子さん、いらっしゃい! 今日は腰? 肩?」
陽菜の明るい声に玲子は苦笑しながら、カバンをソファに置いた。
「今日はちょっと、腰がきつくて。昨日、子どもたちが夜更かししてて、その世話でバタバタしちゃって。」
玲子の声には、疲労だけでなく微かな苛立ちが滲んでいた。
施術台に横になった玲子の背中に手を置くと、陽菜はすぐに気づいた。筋肉が張り詰め、腰から背中全体にかけて疲労が蓄積している。
「うーん、これはだいぶ頑張っちゃった感じだね。」
「そうかしら……でも、仕方ないのよ。母親ってそういうものだから。」
玲子は自嘲気味に言ったが、陽菜は指を動かしながら柔らかい口調で続けた。
「うーん、玲子さんが言う『仕方ない』って、たぶん自分に優しくなさすぎると思うなあ。」
玲子は少し驚いたように顔を上げた。
「私、自分に優しくしてないかしら?」
「してないと思う。少し肩に力を抜いてもいいのに、『母親だから』とか『こうあるべき』って、自分にどんどんプレッシャーをかけちゃってる感じがする。」
陽菜の指は、腰のツボをゆっくり押しながら、じんわりと筋肉をほぐしていく。
施術が進むにつれ、玲子はぽつぽつと話し始めた。
「実は最近、夫ともすれ違ってばかりなの。彼も仕事が忙しいから、家のことはほぼ全部私がやってて……だけど、何も言わないのよね。『ありがとう』とか『手伝うよ』とか、そういう言葉もなくて。」
玲子の声が少し震えた。陽菜は彼女の話に耳を傾けながら、背中をさする手を止めない。
「そうだったんだ。玲子さん、今まで誰かにその気持ち、話したことある?」
「……ないわね。言っても仕方ないと思ってたから。」
「でも、こうやって話すだけで少し楽になるでしょ?」
玲子は小さくうなずいた。そして続ける。
「こんなこと、子どもたちにも夫にも言えないけど、本当は少しだけ休みたいの。家事も育児も、誰かに頼れたらって……思う自分が、情けないのよね。」
陽菜は少しだけ間を置き、玲子の肩を軽く叩いた。
「情けなくなんてないよ。むしろ、ちゃんと自分の心が『疲れた』って教えてくれてるんだから、休むべきだと思う。」
「でも……休んでいいのかしら。誰も文句は言わないのかもしれないけど、私自身が落ち着かなくなりそうで。」
「じゃあ、まずはちょっとだけ『自分の時間』を増やすことから始めてみない?」
「自分の時間……?」
玲子の声に少し戸惑いが混じったが、陽菜は続けた。
「うん。たとえば週に1回、何か玲子さんが好きなことをやる時間を決めるの。お子さんにはパパに見てもらったり、家族で手分けしてもらったりして。」
「週に1回……」
玲子は考え込むように目を閉じた。
施術が終わり、玲子が着替えを終えると、陽菜は一冊の雑誌を差し出した。それは趣味の特集が組まれた女性向けのライフスタイル雑誌だった。
「これ、この前読んだんだけど面白かったよ。料理とかガーデニングとか、いろんなアイデアが載ってるから、参考になるかも。」
玲子は驚いたようにそれを受け取り、パラパラとページをめくった。
「ありがとう。久しぶりに、こういうの読んでみるのもいいかもしれないわね。」
陽菜は微笑んだ。
「玲子さん、ずっと頑張ってるんだから、たまには自分を甘やかしてもいいんだよ。きっと、それが家族のためにもなるから。」
玲子の目に、ほんの少し涙が浮かんだ。
「ありがとう、桜井さん。なんだか少しだけ、自分に優しくなれそうな気がする。」
数週間後、玲子が再び「ほぐし庵」を訪れた。
「桜井さん、聞いてほしいことがあるの。」
施術台に横になりながら、玲子は少し誇らしげに話し始めた。
「先週、夫に思い切って話したの。『少し自分の時間を作りたい』って。最初は驚いてたけど、結局、土曜日は彼が子どもたちの面倒を見ることになったのよ。」
「おお! それはすごい進展だね!」
「ええ。それで、久しぶりに手芸教室に行ったの。昔やってたんだけど、忙しくてずっと遠ざかってたから……なんだか新鮮で楽しかったわ。」
玲子の顔は明るく輝いていた。陽菜は心の中でガッツポーズをしながら、そっと手を添えた。
「やっぱり、玲子さんは何かを作るのが好きなんだね。それが分かれば、もっと楽しくなるよ。」
玲子は大きくうなずいた。
「そうね。ありがとう、桜井さん。これからも、自分の時間を大事にしていくわ。」
玲子が帰った後、陽菜は窓の外を見ながらコーヒーを飲んだ。
「玲子さん、いい方向に進んでるみたいでよかったなあ。」
その背中を見送るたび、陽菜は自分もまた誰かに支えられているような気がしてならなかった。