2-6
来た道を戻って渓流まで出るには、当然それなりの時間が必要だったが、実はそれほど急ぐ必要もないのだった。
やけどというほどのダメージを負ったわけではない。そうなる前にアーリィを広間から引っぱり出した、ラのお手柄である。
とはいえ、とんでもない灼熱の空間にいたのは事実であり、二人は水を浴び、体の熱気を冷ますことにした。
ラが、滝つぼに恐る恐る足を入れて、水の冷たさと感触を確かめ、心を決めてドボンと飛び込んだ。
中で足をばたつかせ、何度か沈んで水を飲むうちに、浮力を得るコツをつかみ、そこからは自在に泳げるようになった。
「水とは集まると恐ろしいが、気持ちよくもあるな。お前も来いよ」
アーリィはためらいつつ、マントをたたみ、白いスーツもするりと脱いだ。白くなめらかな肢体があらわになった。全身が汗でしっとりとぬれている。
「今日は、考えられないことばかりです。失われた土地深くで、しかも魔族の遺跡のこれほど近くで、こんな無防備な姿になるなど」
『心配するな。何かあれば私が言う。私の五感をだませる存在はそれほど多くない。というかまずいない』
「よろしくお願いいたします」
アーリィは、生まれたままの姿になった。
そうなると、もはや開き直って、大胆に滝の方に近づいていった。火照った体に冷たい水がしみた。つやのある純白の肌を、清水が粒になって滑り落ちていく。
「なるほど、確かに心地よいですね」
『そうだろう?』
「危険な場所で無防備な姿。何となく、背徳的な悦びを感じるようです。これは、癖になってしまうかもしれません」
『……。やっぱりお前、ちょっと頭のおかしなやつだな』
手遅れの人間を見る目で、ラはアーリィを見た。
アーリィは今や恍惚として、輝く裸身を惜しげもなく陽光にさらしている。
『そうだ。お前、気づいたか? ここの水を見た時のあいつ、腰が引けていたな。沈んで死にかけたのが、思いの外こたえていたらしい』
「よくご覧になっているのですね」
『長い付き合いだからな。いつもと違うそぶりを見せられれば嫌でも気づく』
「お二人は、クドという土地から来られたということでしたが、それは、極東の果てにあるという大河を越えた先の土地のことですか?」
『タイガ?』
「巨大な水の流れのことです」
『ああ。ああ、そうだぞ。クドとは、あの先にある広大な平原だ』
「そうですか。やはり」
アーリィは得心がいったようにうなずいた。
『何だ。お前、クドに来たことがあるのか?』
「いえ、私は。というより、我々にとって、《宿命の大河》の向こう側は、決して到達し得ない土地なのです。
生者は東へ進むにつれ、死へと近づいてゆく。その、生と死の境を区切るのが、《宿命の大河》であると。
彼岸に住まう者と此岸に住まう者は、決して交わらない。それが、私たちの摂理なのです」
『今、交わっているじゃないか』
「はい。ですから大変驚き、興奮しています。これは歴史的な遭遇です。お二人は、どうして大河を越えて、こちら側へ?」
『べつに。あえて言うなら、移住が目的だ』
最終的には、もちろんオーファという女に子を産ませるのが目的だが、女を探してはならないという妙な制限をかけられている以上、それしか言えない。
しかし、生まれ育った土地をたった二人で離れるのに、何も理由がないというのはあまりに不自然だったらしい。
「彼の地で、何か異変があったのですか?」
『そういうわけじゃない』
「本当に?」
ラは鼻づらにしわを寄せ、歯をむき出した。
『何だ、探りを入れているのか。私たちがお前の敵かもしれないと? そう言いたいわけじゃないだろうな。この状況で』
アーリィはかすかに体を強張らせて、顔を伏せた。
「お気に触ったなら謝罪します。先に申し上げた通り、私の敵は赤い目の魔族のみです。ただイェルシェドに住む者全てが、そのような考えでいるわけではないのです」
『何が言いたい?』
「お二人が、イェルシェドに留まるつもりでいるなら、大河の向こうの土地からやって来たということは、話されない方がよいでしょう。
お二人ほどの強い力を持った方が、異邦人であると知れば、イェルシェドの人々は、過剰に恐れ、排除しようとするかもしれません。いえ、おそらくそうなるでしょう」
それは確かに困るな、と、ラは思った。
目的が異教人の殲滅ならば、集団から孤立し、排除されようと、その全てを殺せばいいのだから全く構わないが、そうではない。
女と会い、子を生ませるのが目的だ。
見知らぬ土地、見知らぬ社会に、ある程度溶け込んで暮らす必要がある。
『忠告というわけだな』
「恐縮です」
『いや、ありがたい。礼を言っておく』
しかし、果たしてあいつにそんな腹芸ができるだろうか。ラは、大いに不安だった。
よほどきつく言い聞かせねばならない。