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月と花  作者: 広海智
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承平陰陽物語 第十

   諸陵寮(しょりょうりょう)皇女(みこ)のために()かれし(ものがたり)  第十


          一


 夜空へ、轟々と炎を吹き上げて、建物が燃えている。その様子を、一人の少年が見上げている。格好から察するに、雑色のようだ。だが、問題は、その少年に重なっている透けた姿の少女のほうだった。その透けた少女もまた、燃える建物を見上げている。背に流した長い黒髪に火の粉を浴び、纏った衵の裾を熱風に煽られながら、立っている。衛士達や宿直をしていた官人達が、燃え落ちようとする建物の周りで、右往左往しながら、運び出した物を更に移動させたり、延焼を食い止める努力をしたりしているが、誰一人、少女の存在には気づかない。――少女を背後から見つめる、あくに気づかないのと同様に。

(あの方も、生霊なのだわ)

 あくはゆっくりと歩を進めて、少女の横顔を覗き込んだ。

(このお方は――)

 直接に、見たことはない。だが、生霊となって内裏の中を飛び回った時に、目にしたことがある。

(どうして、この宮様が……)

 驚いたあくの視界の中で、少女の頬を涙が伝う。

【お(もう)様……】

 音にならない呟きが、あくの心に届いた。


            ◇


【兄様――】

 呼びかけられて、雁は目を開けた。夢ではなく、現だ。すぐ傍に、今生の妹のあくが浮いている(、、、、、)。

「おまえ、こんなところまで、生霊で……」

 嗜める口調で言って上体を起こすと、妹は少しべそをかくような顔をして言った。

【でも、兄様にしか相談できなくて……】

 幼い頃と同じだ。あくは、こうしていつも、雁の――蜜丸の心を解かして上手におねだりをする。溜め息をついて、雁は問うた。

「何があった?」

諸陵寮(しょりょうりょう)が燃えてるの】

 あくは、真剣な面持ちで告げる。大内裏の中、治部省(ぢぶしょう)の西北の角にある寮だ。

【まだ燃えてるわ。それで、その場に、生霊の――皇女(みこ)様がいらしたの】

「皇女?」

【間違いないわ。見たことがあるから。あの方は、先の帝の第十四皇女(おうじょ)康子内親王(やすこないしんのう)様だった。生身ではなく、生霊のお姿で、燃える諸陵寮を見上げてらしたの。暫く観察してたのだけれど、わたしのように、好きなように動ける訳ではなくて、移動するためには、誰かに憑いていかないといけないみたい。雑色や近衛に憑いて後宮まで行って、最後は女官に憑いて、御自分のお体に戻ってらしたわ】

「生霊になって動ける皇女(みこ)が、火事見物に行っていた訳か」

 事態をまとめた雁に、あくは困ったように一瞬目を伏せた。

【それだけなら、いいのだけれど……。お体に戻った後、気になることを呟いてらしたの。「これで、きっと、お父様の(みささぎ)へ行ける」って……】

「確かに、それは気になるな」

 雁は顎に手を当てて暫し思考を巡らせてから、妹に告げた。

「とにかく、おまえは戻れ。怪異に関わることなら、この賀茂邸の者達が、必ず巻き込まれていくはずだ。その際、必要であれば、おれも手を貸そう」

【分かりました。ありがとうございます、兄様】

 笑顔で、少し畏まって頭を下げ、妹の生霊は大内裏へと戻っていった。

「全く……」

 もう一度溜め息をついた雁の傍らで、蓑虫が寝言で何か呟きながら寝返りを打った。その眠りを妨げないよう気配を消しながら、雁は立ち上がって、莚を囲んで置いてある几帳を回り、部屋として与えられている釣殿の西の簀子へ出た。確かに、大内裏の辺りの夜空が赤い。大きな炎が上がっているのだ。

(人が集まれば集まるほど、思いが交錯して、平安からは遠ざかる。皮肉なものだ……)

 何度生まれ変わろうと、自分は、この都というものが好きにはなれないだろう――。

「ドウスル?」

 ふっと現れた大牙丸に問われて、雁は命じた。

「火が広がるようであれば、消し止めてくれ。それから、先の帝の女十四宮(をんなじゅうしのみや)についての噂を、一晩でできるだけ集めてくれ」

「分カッタ」

 大柄の鬼は頷いて、闇に溶けるように大内裏のほうへ歩いていった。


            ◇


 諸陵寮が燃え落ちたのは、六月三日の夜だった。轟々と夜空を染めた火事は、夜の内に都人に知れ渡り、陰陽寮でも、朝からその話題で持ち切りだった。

「原因は不明らしいぜ?」

 陰陽寮の陰陽生達に与えられた部屋の中、耳の早い名嗣が仕入れてきた最新情報に、保憲は眉をひそめた。他の陰陽生達も耳をそばだてて動きを止める。この京の都で不審火は数知れないが、大内裏の建物となると、単なる火の不始末ではないことも多い。

「諸陵寮というのが、気になるな……」

 隣の時人が、難しい顔で呟いた。

「それ以上は、言わないほうがいいぜ?」

 名嗣が不敵な笑みを浮かべて止める。諸陵寮は、治部省の支配下にあり、皇室の葬儀、天皇の墓たる山陵、皇族外戚などの墓のことを掌る。即ち、諸陵寮に何かあるということは、皇族の祖霊の祟りという可能性があるのだ。

「その判断を下すのは、神祇官や治部卿(ぢぶきょう)や陰陽頭様だ。おれ達じゃない」

 名嗣の尤もな言葉に、陰陽寮の学生達は止めていた手を動かし、人形作りを再開した。木を削ったり紙を切ったりして、穢れを移すための人形を作るのも、陰陽生達の重要な仕事である。と、そこへ、廊を歩く足音が近づいてきた。怪異との実戦にも携わる陰陽生達は、足音にも敏感だ。足音で、知人なら大体全て識別できる。

「珍しいな……、陰陽権助様か」

 名嗣が足音から予想して呟き、布留満樹や中原善益など、他の陰陽生達も頷いた。間違いないだろう。静かでやや速い、微かな足音。陰陽権助が陰陽生に直接関わることは少ないが、同じ寮の中で仕事をしているので、保憲もよく知っている。陰陽権助出雲惟香は、陰陽博士たる忠行の上司だ。はっきりとした年齢は知らないが、二十代後半ながら、確かな卜占の腕前で陰陽寮を支えている傑物である。

「保憲」

 部屋の入り口に立った、衣冠姿の小柄な陰陽権助は、開口一番保憲の名を呼んだ。

「はい」

 返事をして手にしていた木と小刀を木板の上に置き、保憲が立つと、出雲惟香は、廊でさっさと踵を返しながら、掠れ声で一言言った。

「ついて来い。頭の中将様のお召しだ」

「はい」

 保憲はそのまま惟香(これか)の後を追って廊へ出た。時人と名嗣が、気遣わしげな眼差しを向けてきたのが、目の端に見えた。

 惟香は、黙々と廊を歩き続け、保憲も、自分より僅かに低いその後ろ姿に、黙ってついて行った。しかし、頭の中は忙しく働いている。

(此度も頭の中将様のお召しか)

 だが、どうやら呼ばれているのは自分だけで、父は呼ばれていないようだ。前に呼ばれた際、非蔵人の元輔が口にした、今上の傍近くに仕えるための陰陽師の件かとも思うが、安心はできない。頭の中将は、鋭い人間だ。

(邸に匿ってる雁のことを、何か察せられた可能性も考慮に入れておかないとな)

 受け答えは慎重にしなければならない。百鬼夜行を率い、大内裏から内裏まで押し入った青年――雁は、今だ賀茂邸で静養している。鬼に慈しまれる性を持ち、小野良真としての前生を持つ、今生の名は蜜丸という青年。ただ、盗人をしていたことから、本名は名乗らず、雁という名を使っている。

 内裏を囲む宮垣に設けられた修明門を入ったところでは、前回同様、蔵人所の雑色たる藤原重輔が待っていた。

「保憲殿、お元気そうで何よりです。ここからは、わたしが先導致します」

 微笑んで言った重輔の顔は、目の下に隈ができ、疲れていた。微かに、煙のような臭いも纏っている。昨夜は宿直で、諸陵寮の火事の後始末に追われていたのかもしれない。それでも重輔は、疲れを感じさせない動きで、惟香と保憲の先に立ち、閤垣に沿って歩いて、武徳門(ぶとくもん)を入る。その先は、二月や五月の時と違って、清涼殿ではなく、蔵人所町屋(くろうどどころまちや)だった。

 蔵人所町屋は、その名の通り蔵人達の宿所であり、校書殿(きょうしょでん)の西にある。惟香と保憲が連れていかれたのは、その蔵人所町屋の北側の妻戸だった。その奥の北廂は、蔵人頭の宿所として知られる曹司だ。

 妻戸の前の沓脱(くつぬぎ)に上がって、重輔は呼ばわった。

「陰陽権助出雲惟香様と、陰陽得業生賀茂保憲殿をお連れしました」

「後は陰陽権助に任せる。中へ参れ」

 男の声が、奥から応じた。

「お引き受け致します」

 惟香がさっさと応じ、懐から白い紙を取り出した。鳥の形をしたそれは、惟香の手から飛び立ち、すっと翼を畳んで妻戸の隙間に入る。直後、かちゃりと中から音が聞こえた。紙の鳥が掛金を外したのだ。

(惟香様は、紙の式神を使われるのか)

 紙の式神は陰陽師の間でよく用いられるものだが、惟香が式神を使うところを見るのは初めてだ。

「珍しくも何ともないだろう?」

 惟香は、ふと、厳めしさを脱ぎ捨てたかのような顔で、にやりと笑い、沓脱に上がって妻戸を開いた。沓を脱ぎ、重輔の横をすり抜け、中へ入る。そこは東廂の北端で、すぐ脇に、北廂へ入る遣戸がある。そこで惟香は保憲と重輔を振り返った。

「雑色はここまででいい。保憲、行くぞ」

「はい」

 返事をして、保憲も沓を脱ぎ、東廂に上がった。重輔はやや不安げな面持ちでこちらを見ている。保憲が何のために呼ばれたのか、重輔も知らないのかもしれない。保憲は重輔に軽く会釈してから、妻戸を閉め、元通り掛金を掛けた。

 惟香は、保憲が妻戸を閉めるのを待っていたかのように、北廂の遣戸を開けた。中は、四方を塗り込めて壁にした塗籠だ。東西二間の空間には、整然と几帳や棚や長櫃が並んでいる。

「入れ」

 先に入った惟香に促されて、保憲も中へ足を踏み入れた。その視界の端を白い紙の鳥がさっと飛び過ぎる。背後で遣戸がするすると閉まって、視界が急に暗がりに没した。紙の鳥が遣戸を閉めた上で、門番さながら、そこに留まるらしい。

「こっちだ」

 惟香は暗がりを奥へと進んでいく。明かり取りの窓からの仄かな光を頼りに、几帳や棚や長櫃を避けながら、保憲は後について行った。進む先に、気配がある。やがて、文机の前に座る人影が見えてきた。中肉中背の、姿勢のよい男だ。僅かな光を受けたその纏う袍は、五位を示す浅緋色。間違いなく、蔵人頭藤原師輔その人だ。前回は、ちらりと目にしただけだったが、やや細面の怜悧な風貌にも見覚えがある――。

「――こちらにいらっしゃるということは……、御自ら、お確かめになるのですか?」

 惟香が、掠れ声に、やや呆れた響きを乗せて問うた。

「己の目で見たことが、最も確かだ」

 素っ気無く答えた頭の中将に、惟香は溜め息をつくと、おもむろに保憲を振り向き、それまでとは異なる、はっきりと澄んだ声で言った。

「驚かずに聞け。頭の中将様はおまえの事情を既に御存知だ。わたしが伝えた。そして、それを今、確かめたいと仰せだ」

 保憲は唖然として、惟香の顔を凝視した。掠れず響いた惟香の声は、間違えようもなく、女のものだった。しかも、その声で話された内容は、到底受け入れられるものではない――。

「まあ、おまえのような者にも、先達はいるってことさ。陰陽寮は、力ある者に対して寛容だ。だからこそ、おまえの父親も、おまえがそうしてあることを認めたのだ。前例がなければ、とても許せたことではないだろう?」

 改めて言われてみれば、確かにそうだった。だが、しかし、「確かめたい」とは――まさか。

「おまえは察しがいい」

 惟香は、保憲の表情を読んで真顔で言う。

「だから、分かるだろう? 自分の身を守るには――父親の身を守るには、今、どうするべきか」

 瞬間、海蛇(うみへび)、百足、蛇の、大きな魔物三匹が、保憲を守るように姿を現した。三十六禽の巳の時の魔物。危機感か嫌悪感か、半ば無意識に呼び出してしまった。

「やめておけ」

 惟香が冷ややかな声を出す。

「わたしと師輔様がここで死ねば、おまえが真っ先に疑われる。おまえがここに来たことは、あの雑色が知っているからな。そうなれば、賀茂家に先はないよ」

(わざわざ、おれをよく知る重輔殿に案内させたのは、そのためか)

 保憲は、顔をしかめて、三匹の魔物に姿を消させた。ここは――この先は、この藤原師輔に従うしかないのだ。出雲惟香が、恐らくは、そうしてきたように。

「――父は、このことを知っているのですか?」

 低い声で問うた保憲に、惟香は首を横に振った。

「おまえの父親は、わたしのことをおまえに告げず、そしてわたし以外には、まだおまえのことを告げていない。まあ、学生を卒業して陰陽師になってから、と思っているのだろう。だが、頭の中将様は、今、おまえをお望みだ。だから今、確かめたいと仰っておられる。おまえの父親には、後から伝えておこう」

 つまり、反対するであろう父には知らせず、事は進んでいるのだ。けれど、父のためにも賀茂家のためにも、そのほうがいいのだろう。

「――分かりました」

 保憲は目を伏せると、師輔と惟香が見つめる前で、黙って白平絹(しろひらぎぬ)腰帯(ようたい)を解いて床に落とした。次いで右肩の雌紐(めひも)から左領(えり)蜻蛉結(かげろうむすび)になっている雄紐(をひも)を外して、するりと袍を脱ぎ捨てる。そのまま、顕になった衵の前を開き、肩からすとんと脱ぎ落とした。続けて、単衣の上で結んだ指貫の腰紐を解き、ぱさりと床に脱ぎ落とし――、指貫によって裾が留められていた単衣の前が、はらりと細く開いて、胸を押さえて巻いた布や、素肌に直接穿いた下袴の腰紐の結び目が見え隠れする。保憲は努めて淡々と、その腰紐の結び目に手をかけた。


          二


 保憲は、日が暮れても帰ってこなかった。代わりに、保憲の同輩二人が賀茂邸の西の対を訪れた。

「あいつ、巳の時に呼び出されたきり、全然戻ってこなかったんだ」

 円座に胡座を掻いた名嗣が、小丸の用意した白湯を飲みながら、ぶつぶつと言う。

「頭の中将様から、陰陽権助様を通じて陰陽頭様に、暫く御上の御用事で保憲を借りるという話があったそうだが、忠行様も、それ以上の詳細は御存知ないらしい」

「心配だ……」

 時人も、白湯の杯を目の前に置いたまま、端正な横顔に憂いを浮かべて呟く。

「あいつ……、いろいろと危なっかしいのに……」

「――捜しに行く」

 苛立ちのままに言い、小丸は立ち上がった。集まっているだけでは、埒が明かない。

「内裏へ行くのか?」

 名嗣が、座ったまま小丸を見上げて問うた。

「ああ」

 小丸は頷いて、南廂から妻戸を開けて外へ出る。その背中へ、後ろから時人の声がかかった。

「翅鳥を連れていってくれ」

 小丸が振り向くと、黒白の袿を纏った美しい式神が、にこやかに佇んでいた。その向こうで、立ち上がった時人が真剣な眼差しで小丸を見て言った。

「おれ達は、おまえみたいに自由には動けない……。だから、頼む……。翅鳥は、内裏の中のことも、よく知っている。長生きで、おれより知恵もある」

「よろしくお願い致しますわ」

 艶然と微笑んだ式神を一瞥して、小丸は時人に視線を戻すと、しっかり頷いてから、尻切を履き、夜の庭へ飛び出した。そのままの勢いで西の中門の南廊を跳び越え、次には築地の西南の角を跳び越えて、勘解由小路へ降り立つ――、その寸前で、ふわりと、体を抱え上げられた。

「走るより、飛ぶほうが速いですわ」

 耳元で翅鳥の声がしたかと思うと、あっと言う間に、大内裏が眼下に見えるところまで飛んでいた。

「速いな」

 素直に驚いた小丸に、翅鳥は嬉しげに答えた。

「わたくしは、翅鳥ですから」

 碁において、当たりの連続で相手を追い詰めていく激しい攻め――翅鳥。成るほど、速いはずだ。

「助かる」

 心からの礼を述べた小丸を、優しく抱えたまま飛んで、翅鳥は瞬く間に内裏の上空へ至った。

「さて、どの辺りへ降りましょうか? 保憲様の気配はありますか?」

 翅鳥の問いかけに、小丸は目を閉じ、誰より慕わしい気配を探った。

(いる)

 確かに、下に保憲の気配がある。保憲は、内裏にいる。

(どの辺りだ――)

 目を開いて、多くの篝火に照らし出された内裏の建物群を見下ろし、小丸は更に気配を探る。

(真ん中のほうより西北の……)

「あの建物だ」

 小丸が指差した建物を見て、翅鳥は柳眉をひそめた。

「あそこは、後宮十二舎の一つ、襲芳舎(しほうしゃ)ですわ。その昔、落雷があったとかで、雷壺(かんなりのつぼ)ともいいますわね。今は確か、今上と同腹の皇女(みこ)様がお住まいのはずですけれど」

「とにかく、降りてくれ」

 小丸が急かした刹那、ふっと、目の前に白君が姿を現した。

「保憲は無事だ」

 相変わらず硬い口調で保憲の式神は告げる。

「仕事中で、来るなと言っている」

 そう言われてしまうと、もう何もできない。保憲には、その身が危うい時以外は、逆らえない。

「……お邸に、戻りましょうか」

 そっと翅鳥からかけられた言葉に、小丸は小さく頷いた。


            ◇


 保憲は、夜が明けきった頃になって、漸く賀茂邸に帰ってきた。

 気配を感じ、西門まで出迎えに行った小丸は、保憲の顔を見て、一瞬絶句した。今にも雨が降り出しそうな曇天の下、保憲の表情も、ひどく重苦しく、疲れ切っていた。

「――どういう仕事だったんだ」

 何とか問うた小丸に、保憲は西門を入りながら、低い声で答えた。

「大したことない。ただ、これから暫く、毎夜行くことになる」

 それきり保憲は、小丸を振り返りもせず、自室へ向かい、ひぐらしの部屋を避けるように簀子を歩いて東南の妻戸から入り、簾を潜って暗い母屋へ入ってしまった。白君が出てきて、いつもの朝のように、南廂と簀子を隔てる格子を上げる様子もない。小丸は暫く東廂で逡巡した後、母屋へ入るのを諦め、遣戸を開けて己の曹司へ戻った。一人の空間に座り込んで、襖障子一枚を隔てた向こうの保憲の気配に全神経を集中する。長櫃から衣を取り出し、部屋の中央に座った保憲は、着替えを始めるかに思われた。


            ◇


 冠を脱ぐため、(もとどり)から(かんざし)を抜こうとして、保憲は愕然とした。手が、小刻みに震える。いつもなら、無意識でしているはずの日常の行為が、できない。次に袍を脱ぐという、その動きを想像しただけで、体が強張る。

(何も、されてないのに……)

 口の端に、薄く苦笑が浮かぶ。

(おれは、そんなに、怖かったのか……)

 ただ、見られただけだ。頭の中将の、あの冷たい双眸で、ただ、見られただけだというのに。

(くそ――)

 冠を脱げないまま、保憲は膝を抱えて顔を埋めた。震えが収まらない。動けない――。

「保憲!」

 急に襖障子が開いて、小丸が入ってきた。顔を上げなければ、何か言わなければ、不審に思われる。けれど、体が動かなかった。それどころか、余計に体が縮こまる。鬼とすら対峙できる自分が、人に怯えている――。

 小丸は、保憲の様子に驚いたようだったが、ひたひたと歩み寄ってきて、傍らに膝をついた。恐る恐るといった動きで保憲の両肩に腕を回し、息を詰めて、守るように、そっと抱き締めてくる。保憲の肩が意に反して、びくりと大きく震えたが、小丸は離れない。だんだんとその体温が伝わってくるにつれ、竦んでいた心が解けてきて、徐々に、震えが収まってきた。無意識に浅くなっていた呼吸が落ち着いて、漸く声が出るようになる。保憲は、身じろぎして、言った。

「小丸、もういい」

 しかし小丸は、離れなかった。代わりに、押し殺したような声で答えた。

「――嫌だ」

「小丸?」

 怪訝な思いで聞き返した保憲に、小丸は、搾り出すように告げた。

「――おれは、嫌だ。おまえが、心でも、体でも、ぼろぼろになって帰ってくるのを見るのは嫌だ。おれは、おまえを守りたいのに、全然できない。おれは、今の自分が、嫌だ……」

 顔は見えないが、泣き出しそうでもあり、怒りに震えているようでもある少年の言葉に、保憲は目を伏せて呟いた。

「おれは、いつも、間違えてるな……」

 そうして、保憲は、小丸の腕に手を添える。

「心配かけてすまない。おまえのお陰で、落ち着いた。大丈夫だ。おれは、おまえにいつも助けられてるんだ。自分のこと、嫌だなんて言うな。おれが一番頼りにしてるのは、おまえなんだから」

「けど、おまえ、いつも一人で行っちまう」

 小丸は、保憲の頭のすぐ後ろで、低い声を出す。

「――おれが、まだ力不足だから」

「力は、おまえのほうが上だよ。ただ、巧く扱えてないだけだ。それも、その内、使い方を覚えて、いつか、おまえはおれを抜くよ。それは、そんなに遠い日じゃない」

 確信を持って言い、保憲は漸く笑みを浮かべられた顔を小丸へ向ける。

「おれは、それを楽しみにしてるんだ」


            ◇


「まさか、自ら確かめると仰っておいて、保憲に何もなさらないとは、思いませんでしたよ」

 朝の淡い光が遣戸の隙間から漏れくる曹司で、惟香は静かに身支度をしながら言った。

「わたしとて、命は惜しい」

 曹司の最奥、今だ、畳と綾莚を重ねた寝床の上に仰臥したままの師輔は、ぶっきらぼうながら、どこか笑みを含んだ声で答える。

「わたしが手を出せば、あれは、恐らく、あの三匹の魔物を止め切れなかったであろう。端から諦めていたそなたとは違う」

「わたしが、諦めていた?」

 問い返した惟香に、師輔は上体を起こして目を合わせ、口の端で笑った。

「そうであろう? そなたの瞳には、何の抵抗の色もなかった」

 確かに、そうだったかもしれない。惟香は、衵の上に袍を纏いながら省みる。自分は最初から、当時まだ侍従だった師輔の将来を見込んでいた。陰陽師として身を立てていく上で必要な後ろ盾になると考えたのだ。だから、すぐに腹を決めた――。

「だが、あやつは打算以上のものを持っている目をしていた。あやつの弱味は、父親だけではないかもしれんな」

 微かに面白そうに、師輔は続けた。惟香は、座したままの男を見下ろして訊いた。

「好いた相手がいる、と?」

「さてな」

 師輔は流すと、立ち上がった。己の身支度を終えた惟香は、心得て、几帳に掛けてあった師輔の衵を手に取り、単衣姿のすらりとした背に着せ掛ける。

 とにかく、保憲は師輔の目に適った。以前から師輔が蔵人頭として模索し、今上御自らも二月や五月の件で求め始めた、蔵人所陰陽師(、、、、、、)候補として、これから使っていくことになるだろう。


          三


 一日を邸で過ごし、昼寝もした保憲は、夕食を終えると、内裏へ行くと言って、仕度を始めた。あの後、水浴みをしてから纏った烏帽子と布衣を脱いで、再び冠を被り、袍を着る。その気配に神経を研ぎ澄ましながら、小丸は簀子から問うた。

「ついて行ったら駄目か?」

 保憲は、微かに笑い含みの、落ち着いた声音で答えた。

「大丈夫。本当に、今回の仕事自体は、大したことじゃない。詳しいことは言えないけれど、子守りみたいなものだ。心配しなくていい。ただ、場所が問題でね。あそこに、男を連れていく訳にはいかないんだよ」

 昨夜、保憲の気配を追って上空まで行った建物群を思い出し、小丸は確認した。

「後宮か?」

「ああ。だから、おまえを連れていけない」

 さらりと告げて、保憲は簀子へ出てきた。出仕の際の、いつもの衣冠姿だ。

「本当に、大丈夫なのか?」

 簀子に座ったまま確認した小丸に、保憲は穏やかな笑顔を見せて頷いた。

「ああ。もし何かあれば、こっちから白君を送る。約束する。だから、おまえはこの邸にいてくれ。おれが今、一番案じてるのは、雁のことだから」

 少し無理をしているのであろう保憲の微笑みを見上げながら、小丸は渋々了承した。

「――分かった。無理はするなよ」

「ああ」

 優しく答えて、保憲は沓を履き、階を降りていった。慕わしいその気配が、邸の敷地を出て、内裏へと遠ざかっていくのを待ってから、小丸は垂らしていた両足を簀子へ上げて立ち上がり、西の釣殿へ向かった。

 青年は、星の瞬き始めた夜空と釣殿の(のき)を背景に、高欄に凭れて座っていた。蓑虫という童のほうは、青年の視線の先、池の辺で遊んでいる。

「あいつの言っていたことは正しい」

 開口一番告げて、こちらへ視線を転じた雁に、小丸は右の掌の中に握り込んでいた紙を返した。そこには、[耳]と書かれている。雁の咒だ。昼間、保憲が昼寝をしている間に、雁から渡されたものである。

「そんなもので、そんなに聞こえるのか」

 半信半疑で訊いた小丸を、青年は涼しい眼差しで見る。

「充分だ」

 肯定した青年の背後、高欄のすぐ向こうに、一体の鬼が現れた。直垂を纏った大柄な鬼で、牙を剥くように笑い、言った。

「オ尋ネノ皇女(みこ)ノ噂ヲ集メテキタゾ。大人シイガ、見鬼ノ才ガアリ、近頃ハ御母后ノ宮ガ今上ト東宮ニカカリ切リダカラ寂シガッテ、ヨク先帝ヲ恋シガッテ泣イテイルラシイ。蛙ニモ手伝ワセタカラ、カナリ確カナ噂ダ」

「保憲は、その皇女のせいで、後宮に行ってるってことか」

 確かめた小丸に応じて、雁が付け加えた。

「諸陵寮の火事が、その皇女のせいだという話がある。恐らくは、それを突き止める、或いは、二度と同様のことが起こらないよう措置を講じることが、今回の仕事だろう。あいつの言う通り、子守りみたいなもので、危険は少ない」

「そうか……。なら何で、あいつはあんなに消耗して帰ってきたんだ」

「そこは探らせていないから推測でしかないが」

 前置きしてから、雁は言う。

「あの様子、誰かに、女と悟られたのかもしれないな」

 絶句して、小丸は雁を見つめた。保憲は、明らかに怯えていた。それが、女と悟られたせいだというのなら――。踵を返して駆け出そうとした小丸の前に、直垂の鬼が立ち塞がった。

「今行ッタッテ仕方ナイダロウ」

「あいつの足を引っ張るだけになる」

 背後から、雁にも静かに言われ、小丸は俯いて歯を食い縛った。保憲の傍に行きたい。保憲を守りたい。だが、保憲に迷惑はかけたくない。葛藤する背に、雁は、言葉を続ける。

「あいつに、焦った様子はなかった。もし女と悟られたんだとしても、公にならない相手だったんだろう」

「それでも!」

 小丸は叫んだ。――初めて見る保憲だった。怯えて、震えて、縮こまり、強張っていた。何があったにせよ、もう二度と、保憲をあんな状態にはさせたくない。

「できるだけ、傍にいる」

 宣言して、小丸は細い月が照る夜空の下へ走り出た。


            ◇


「やはり、行ってしまったんですね」

 中門の廊から現れた少女に、雁は溜め息をついて答えた。

「予想はついたことだ。巧く隠れてさえいれば、そう迷惑にはならないだろう。保憲は、気を揉むだろうがな」

「すみません、いろいろと助けて頂いたのに」

 十八歳だという少女は、心底申し訳なさそうに頭を下げた。

「いや。助けられているのは、こちらのほうだ」

 雁は座ったまま、再び池の辺で遊ぶ蓑虫へと視線を戻す。

「落ち着いて休める場所を与えてくれた。蓑虫とともに過ごせるようにしてくれた」

「でも、こんな吹き曝しの釣殿で、落ち着かないでしょう? 小丸に頼んで、格子を付けて貰おうと思っているんです。あの子、結構器用で、何でもできるから」

「夏を過ごすにはいい場所だ。それに、長居をするつもりはない」

「出ていってしまわれるのですか?」

 寂しげに問うた少女に、雁は視線を戻した。

「ひぐらし」

 雁が名を呼ぶと、少女は、驚いたように目を見開いた。名を呼んだのは、初めてだったかもしれない。

「おれ達は元盗人だ。構い過ぎるな」

「そちらこそ、気を遣わないで下さい」

 きっぱりと、たおやかな少女は述べる。

「わたくし達は、全て知った上で、あなた方をここに留めているのですから」

 雁は面食らって目を瞬いてから、答えた。

「分かった。どちらにしろ、おれの体はまだ本調子ではない。夏の終わりまでは、いさせて貰う。それまでは、できるだけ恩返しをするつもりだ。できる範囲で、だが」

「鬼を使って噂を集めるのは、よくなさることなのですか?」

 何故か興味津々に、食い付いて来られた。

「前生では、よくやっていた。父のために、よく政に関わっていたからな。生霊になって、この都にもよく来た」

 淡々と告げてから、雁は立ち上がり、高欄へ歩み寄って声をかけた。

「蓑虫、そろそろ寝る仕度だ」

 遊んでいた少年は心得て、器用に外から高欄を登り、その両足に履いた平足駄(ひらあしだ)を脱いで、簀子の隅に置いた。

「そういうお話、また聞かせて下さい」

 ひぐらしは微笑んで言い、控えめに付け加える。

「保憲や小丸の仕事の参考になりますから」

「なら、あなたが暇な時、話をしよう」

「はい、是非お願い致します。では、お休みなさいませ」

 嬉しそうに目を煌かせて言って、少女は西の対へ戻っていった。その姿を見送ってから、蓑虫が雁を見上げて問うた。

「夏が終わったら、またどこかへ行くの? ここにはいないの?」

 遊んでいるように見えて、話はちゃんと聞いていたらしい。雁は苦笑して屈み、微かな月明かりの中、蓑虫と目の高さを合わせた。

「そうだな。寂しいか?」

 蓑虫は、一瞬止まってから、首を左右に振って答えた。

「兄さんと一緒なら、どこでもいい!」

「そうか」

 雁は笑顔で蓑虫の頭を撫ぜる。

「おれもそうだ」

 そうして、蓑虫を伴い、几帳で囲んだ中の莚の上へ行って、一緒に寝転がる。はしゃぐ少年に衾を掛けて、その端を自分にも掛けた。几帳の隙間を抜けてくる夜風を感じつつ、衾の上から、蓑虫の腹を撫ぜる。幸せなひと時だ。できることなら、雁もここに留まりたい。しかし、それは許されないだろう。

(この邸の主、賀茂忠行様がおれに向ける目は、何かを含んでいる。あの人は、決しておれの存在を受け入れてはいない。夏の終わりが、限度だろう――)

 雁の手の下で、蓑虫はもう寝息を立て始めた。最近寝つきがいい。安心感のある生活を送っているからだろう。雁も目を閉じた。何かあれば、鬼達が報せてくれる。今は、この安穏を、少しでも大切にしておきたかった。


          四


 昨夜同様、襲芳舎に伺候した保憲は、東廂に円座を与えられて座った。一晩中、この辺りに控えて、康子内親王の様子を窺うのが与えられた仕事なのだ。しかし――。

「保憲殿」

 女官に呼ばれて、保憲は振り向いた。昨夜と同じ展開だ。

「宮様が、こちらへ、と」

 左門(さもん)という呼び名の女官は、きつい眼差しで保憲を見て告げると、出てきた御簾の中へ戻っていく。その後に続き、保憲も御簾の内へ入った。そこは母屋、この襲芳舎の最奥だ。

 保憲が左門に従って御簾を潜り、厳重に置いてある几帳を回り込むと、昨夜と同じに、畳に座った内親王が待っていた。

「保憲、今宵は双六を致しましょう。まずは、(つみかえ)からです」

 明るく誘われて、保憲は溜め息をつきそうになるのを堪え、盤の向かいに置かれた円座に腰を下ろした。昨夜は碁だった。今宵は双六らしい。明日は物語の草子(そうし)でも読むのだろうか。

(何か起こるまで、毎夜これか……?)

 康子内親王は、十四歳というには些か幼い言動で、楽しげに二つの賽を(どう)に入れて振る。

(頭の中将は、この状況まで読んでいた訳か)

 それなら、保憲が女であることを、その目で確かめたのも頷ける。

(幾ら陰陽得業生相手でも、「男」相手に、距離が近過ぎる)

 この内親王は、今上と東宮の同腹の姉なのだ。おっとりとしているのは、如何にも深窓の女君(をんなぎみ)らしいが、もっと用心深くあるべきだろう。

(この人は、無邪気過ぎる)

 頭の中将が、保憲にここまでさせて案じているのも、分かる気がする――。

「どうしたの、保憲? そなたの番ですよ」

 促されて、保憲は微笑んだ。

「はい」

 力を使って、筒の中の二つの賽の目を揃え、重六を出す。康子内親王と、傍に控えた左門が、同時に息を飲んだ。

「そなた、やはり凄いですね……!」

 内親王は、手を叩かんばかりにはしゃぐ。

「碁も強かったですが、賽の目を揃えることまでできるのですか」

「このくらいのことは、容易いことでございます」

 畏まって答え、白い駒石――(むま)の一つを十二区画進めながら、保憲は控えている左門を意識する。陰陽得業生であることを示し続けていかねば、視線が痛い。内親王に「男」を近づけることに嫌悪を感じながらも、逆らえずにいるのだろう。そこに違和感を覚える。

(そう怖い皇女(みこ)だとも思わないが、身近な女房を黙らせる何かがあるのか……?)

 保憲は、自らが振り出す賽の目を操りつつ、密かに目の前の皇女(おうじょ)を観想し始めた。


            ◇


 注意深く内裏に潜入した小丸が、保憲の気配がする後宮の建物の床下に入り込んで最初に耳にしたのは、少女の感嘆する声だった。

「まあ! 目を揃えるだけでなく、乞目(こいめ)を出すのも、意のままなのですね!」

(乞目?)

 小丸は眉をひそめた。乞目とは、双六遊びの一つ、追廻(おいまわし)で使う言葉だ。一と六は対戦者双方に共通の乞目。そして更に二つ、対戦者は残りの二、三、四、五の中から、それぞれ任意に二つの乞目を選ぶ。筒に入れた二つの賽を振り、四つの乞目の内の一つが出れば、己の馬の列を一区画進められる。二つの賽の目がどちらも乞目であれば、二区画進められる。そうして、それぞれ十一個使う黒と白の馬の列がぐるぐると盤上を右回りに動き、相手の最後尾の馬に追いつけば、それを取ってしまえる。相手の馬を全て取り尽くしたほうが勝ちというのが、追廻だ。

「乞目ばかり出されては、まろに勝ち目はありませんね……!」

 響く少女の声は、少し悔しげでありながら、楽しげだ。

「勝ちをお譲りしたほうが宜しいですか?」

 応じた保憲の声も、やや不敵ながら、楽しげだ。

(本当に、子守りなのか……)

 小丸は、何故か、胸の痞えを感じた。自分が、最後に保憲と――夏虫と双六をしたのは、いつだったろう。あれは、まだ、小丸が賽の目を自由にできない頃のことだ……。湿った暗がりに、蜘蛛の巣と土埃にまみれてしゃがんでいる自分が、少しばかり惨めに思える――。

「何ヤラ楽シゲダネエ」

 不意の声に、小丸は不機嫌な目を向けた。すぐ傍の暗闇に鬼火とともに現れたのは、雁の周辺に出没する鬼の一体だ。遊女の姿をした鬼は、赤い唇に笑みを浮かべて、小丸の反応を待つ様子だが、声を出せば保憲に聞こえてしまう。小丸は、ただ鬼を睨みつけただけで、床板の上の気配へ集中を戻した。

 少女の声と賽の転がる音が何度か響いた後、さっさと決着がついたようだった。

「手加減せぬそなたは、いっそ清々しいです」

「お褒めに預かりまして、光栄にございます」

「宮様、そろそろお夜り遊ばされたほうが……」

 それまで黙っていた第三者の声に、小丸は耳をそばだてた。「夜る」とは、寝るということだろう。ずっと控えていた女官の言葉に、少女の声が微かに尖った。

「まだ遊び足りません。次は本双六(ほんすぐろく)をするのです」

「宮様……」

「まろの言うことが聞けぬのですか……?」

 不穏な会話になってきている。保憲も緊張している。

「いえ、そのようなことは……」

 女官の声が上擦って――消えた。気配が、変わった。

「宮様、なりません!」

 次に響いた声は、保憲のもの。

「それは、あなた様のお体にも、この女房殿のお体にもよくない!」

 何が起こったのか、小丸には、気配から明確に察することができた。はしゃいでいた少女――宮様とやらが、生霊となって、女官の体に入ったのだ。

(どういう宮様だ……?)

 半ば呆れた小丸の頭上――板一枚隔てた向こうで、保憲は素早く何かをした。途端に――。

 くしゃん、くしゃん、と女官――の体に入った少女がくしゃみを始めた。そして。

「そなた、何をしたのです?」

 少女が問うた。気配が戻っている。保憲は落ち着いて答えた。

胡椒(こしょう)ですよ」

 胡椒とは、胡の(はじかみ)。大陸から渡ってくる、ぴりっとする生薬だ。

「祓えに使えますので、護身用に、胡椒の粉を匂袋(においぶくろ)に入れて、いつも持ち歩いているのです」

(そう言えば、保憲の奴、時々、ひぐらしから胡椒の粉を貰ってたな……)

 小丸が思い出している上で、少女が言った。

「さすが陰陽寮の者。用心深いことですね」

 少女は、気分を害した様子はない。頻りに感心しているようだった。

「それにしても、何故、このようなことを?」

 保憲の問いに、少女の声が自嘲気味に答えた。

「まろには、これしかないのですもの。今上と同腹の姉宮などと敬われても、つまりは、何一つ自由にはできぬのです。この力を使わないと――」

 少女の声が不意に揺れてくぐもる。

「今、一番願っていることすら果たせぬ……」

「『願っていること』?」

 低くなった保憲の声に、少女も低い声で告げた。

「――お父様に、お会いしたいのです。まろは、せっかく見えるのに、お父様は、ちっとも会いに来て下さらぬ。ですから、まろのほうから、お会いしに参りたいのです」

「成るほど。では、寧ろ、宮様には、これをお渡しするべきでしたね」

「そなた、幾つ匂袋を持っているのです?」

 少女は可笑しそうに言った。どうやら、保憲が取り出したのは、またも匂袋らしい。

「何かお分かりになりますか」

「まろとて、皇女。それなりの嗜みはあります。これは呉母(くれのおも)薫物(たきもの)にはあまり使いませんが、甘い香りのする草として知っています」

 一度言葉を切ってから、少女は続ける。

「そなたが言いたいのは、土佐守(とさのかみ)の歌ですね?」

「はい」

 応じて、保憲が一首諳んじた。


  こし(とき)()ひつつをればゆふぐれの面影(おもかげ)にのみ()えわたるかな

  〔あの人が来てくれた時間だと思いながら恋しい気持ちでいると、夕暮れの中、ただあの人の面影だけが見え続けていることよ〕


 今の土佐守は紀貫之だ。小丸もよく知っている歌人である。しかし、今聞いた歌は知らなかった。

(呉母と、どう繋がるんだ……?)

 首を傾げた小丸に、傍らの鬼が笑って告げた。

「ユウ、グレノオモ、カゲ」

 成るほど、物名(もののな)として、呉母が読み込んである歌なのだ。

「呉母は、大陸から渡ってきた本草(ほんぞう)では、懐香(かいきょう)といいます」

 保憲が説明する。

「これを、懐かしい香と読んだ上での、歌なのでしょう。素晴らしい技巧です」

「ですから、何だと言うのです……? 面影だけ思い浮かべていても、寂しいばかり。まろは、もう耐えられぬ。お父様に、お会いしたいのです」

 康子内親王は袖で涙を拭った。


            ◇


 保憲は、溜め息をついた。

「分かりました」

 静かに言い、確かめる。

「それゆえ、宮様は、――諸陵寮に火を掛けられたのですね?」

 蔵人頭が自分を手駒にしたがった理由は、そうとしか考えられない。彼は、保憲が今上に憑いた怨霊を身代わりに引き受けたこともよく知っていたはずだ。

「諸陵寮に何かあれば、間違いなく、いずれかの皇祖霊の祟りが疑われ、それを慰め鎮めるために、諸陵寮の官人が、使いとしてその陵へ差し向けられます。宮様は、その使いに憑くおつもりなのですね?」

 内親王は、少し目を伏せただけで、否定しなかった。

 人に憑いてしか移動できない康子内親王。師輔は、この皇女の力と望みを知っていて、保憲を遣わしたのだ。

「しかし、先の帝の陵へ使いが差し向けられるとは限りませんが?」

 保憲が問うと、内親王は寂しく笑って言った。

「まろから見れば、あのように無念の内に崩御遊ばされ、その御葬送ですら満足でなかったお父様に使いが差し向けられるのは、当たり前のように思われるのですが、話がそうならなかった時は、左門に憑いて、その口で、お父様の御無念を語るつもりでありました」

「そうでしたか」

 保憲は溜め息を我慢して頷いた。先帝は、菅原朝臣のことでいろいろとありはしたが、それ以外では、賢帝として称えられるべき天皇であった。その葬送も、遺言により慎ましく執り行われたと聞く。その先帝が、女官に憑いて恨み言を語ったとなれば、当人としても不本意だろう。康子内親王も、それは分かっているのだろうが、それでも最後の手段として考えていたのだろう。そして、そこまで読んで、蔵人頭師輔は、この内親王の許へ保憲を遣わしたのだ。

「しかし、小官が参りましたので、最早その必要はございません。先帝の陵――山陵(さんりょう)へは、小官どもがお連れ申し上げます」


          五


 女であり、見鬼の力があり、依りましとなれ、陰陽道を学んでいる人材。頭の中将師輔が保憲を選んだ理由は充分理解できた。人に憑く力のある康子内親王を自らに依り憑かせて、先帝の山陵へ連れていけばいいのだ。

「小丸」

 保憲は、床下へ向かって声をかけた。そこにいるのは、分かっている。幾ら気配を消されていても、この距離なのだ。

「控えててくれて助かった。聞いた通りだ。おれに、宮様の生霊を依り憑かせて、先帝の山陵へお連れする。その間、おれは宮様に御負担をお掛けせぬよう、意識を封じる。だから、醍醐寺北山陵(だいごじきたさんりょう)へは、おまえがお連れ申し上げてくれ」

「今から行くのか?」

 驚いた声が返ってきた。

「ああ。早いほうがいいだろう」

 保憲はさらりと答えた。こんな生活は早く切り上げるに限る。しかし、小丸はまだ了解しなかった。

「おまえが意識を封じるってことは、三十六禽は使えないってことだな。宮様を走らせる訳にはいかないんだろう? 白君を使えばいいのか?」

 確かに、白君は、ある程度の力ある者なら誰でも式神として使える。しかし、今回は他に役割がある。保憲は伝えた。

「白君には、ここに残していく宮様のお体の守護をさせる」

「なら、どうやって醍醐寺(だいごじ)の北まで連れていくんだ?」

 醍醐寺は、京の都の巽の方角、宇治郡(うぢのこおり)山科(やましな)にある。ゆえに醍醐寺北山陵は、山科陵(やましなりょう)とも呼ばれる。遠くはないが、近くもない。困惑した小丸の声に、保憲は微笑んで言った。

「おまえが負ぶっていくのが一番早いと思うぞ。三月にも、おれを負ぶって、この都まで連れて帰ってくれただろう?」

 大きな溜め息が聞こえ、次いで諦めた返事があった。

「分かった」

「すまない。頼りにしてるんだよ。東の簀子の前で待っててくれ」

 保憲は笑い含みに告げると、康子内親王へ向き直った。


            ◇


 襲芳舎の床下から東へ出て、頭や肩についた蜘蛛の巣や埃を払い、腰を伸ばした小丸は、妻戸を開けて出てきた女官と保憲に目を向けた。保憲の気配に皇女の気配が色濃く混ざっているのは見る前から感じていたが、立ち居振る舞いは勿論、表情すら違っていて、違和感が甚だしい。

 最初に口を開いたのは、女官だった。

「そなたが小丸か。宮様がどうしてもと仰せられるので、任せるが、かならず無事に、宮様の御霊(みたま)をお返し下されよ」

「心配なら、おまえもついて来るか?」

 小丸は、冷ややかに応じる。

「尤も、おまえの足でおれについて来られるとは思わないが」

「分かっておる! だから、頼んでおる……!」

 女官は怒った声で、しかし真摯な眼差しで訴えた。

「喧嘩致すな」

 保憲の声で、皇女が口を挟む。

「全て、まろの我が儘から始まったことなのです。そなた達が喧嘩することではない」

「なら、さっさと行くぞ。負ぶされ」

 小丸はぶっきらぼうに言うと、簀子に立つ相手に背中を向け、両手を後ろへ出す。だが、皇女はすぐには乗ってこず、言った。

「少し待って下さい。何やら、胸が苦しいのです。まるで帯のようなものが巻いてあるような……。男子の衣については詳しくありませんが、まろは慣れぬので、少し弛めたいのですが……」

「絶対に駄目だ……!」

 低く叫んでしまい、小丸は、しまったと思った。不審に思った者が来てしまう。

「時がない。早く乗れ!」

「……分かりました」

 皇女は面食らった様子で素直に答えると、小丸の首に両腕を回し、ゆっくりとしがみついてきた。保憲の腕、保憲の体が、慣れない様子で、小丸の背に縋りついてくる。急いで、指貫を穿いたその両足を左右の手でそれぞれ抱え、小丸は走り出した。


            ◇


「ドウスル?」

 戻ってきて事の次第を報告した蛙は、にやにやしながら雁に次の指示を仰いだ。上半身だけを起こした雁は、暫し考えてから命じた。

「皇女の体だけが襲芳舎に残されているのなら、少し心配だ。保憲が対策を講じてはいるだろうが、おまえも、皇女の体の守護のために、傍にいろ。小丸のほうへは、大牙丸と赤丸を行かせよう」

「仕方ナイネ。分カッタヨ」

 蛙は、些か残念そうに承諾すると、姿を消した。余ほど、保憲に入った皇女と小丸の二人旅に興味があるらしい。

(いつまでも物見高いのも困ったものだ)

 雁は溜め息をついてから、傍に気配のある大牙丸に声をかけた。

「聞いての通りだ。赤丸を連れて、あの小丸の見守りに行ってくれ」

「分カッタ」

 大牙丸のほうも、太い声に何やら楽し気な響きを滲ませて応じて、気配を消した。愉快な鬼達だ。穏やかな生活だ。

(いつまでも、こんな生活が続くといいな)

 雁は再び横になりながら、傍らの少年の寝顔を見て、胸中で呟いた。


            ◇


 妙に縋りつかれているのが、意識されて仕方がない。保憲を背負ったことは今まで何度もあるが、意識がなかったり寝ていたりで、こんなふうにしっかりとしがみ付かれ続けたことはない。肩に巻きついた両腕、首筋に爪を立てる寸前の指、後頭部に押しつけられた頬、背中に押しつけられた胸――。

(「都を出るまでは全速力で走るから、舌を噛まないよう気をつけろ」と、おれ自身が言ったんだ。仕方ない……)

 小丸は歯を食い縛って、巽――東南の方角へと大路小路を走り、最短距離を急いだ。

 やがて、賀茂川の浅瀬を選んで渡り、完全に都を後にすると、小丸は少し足を緩めた。体力的には余裕たっぷりだが、何しろ急げば体の揺れが激しくなる。負ぶわれているほうの負担が激しいだろう。ゆっくり走れば、その分、揺れないよう配慮することができる――。

「もう、話してもいいでしょうか?」

 皇女は、小丸が何か言うより早く口を開いた。保憲の声、保憲の吐息が耳をくすぐる。小丸は不機嫌に応じた。

「別にいいが、おれは走るのに専念するから、相槌を打つとは限らないぞ」

「構いません。ただ、話したいのです」

 皇女は耳元で呟くと、そのまま語り始めた。

「お父様の御在位は三十三年に渡りました。歴代の天皇陛下の中でも、最長だそうです。あの、菅原朝臣のことさえなければ、もっと長くおなりだったかと思うと、残念です。お父様の葬送の責任者は、堤中納言――藤原兼輔と参議の藤原当幹(ふぢわらのまさもと)でしたが、二人とも病を理由に辞退しました。病は表向き。実際は菅原朝臣の祟りが恐ろしかったのでしょう。当幹(まさもと)は、雷に打たれて亡くなったあの藤原菅根の弟でしたから、恐ろしさも一入(ひとしお)だったのでしょう。菅根という人も、とても複雑だったでしょうね。文章博士(もんじょうはかせ)上がりで、菅原朝臣の引き立てで出世して、でも、厳しく叱責されたのを恨んでとかで、菅原朝臣を裏切って讒言に加わって……。陥れられる菅原朝臣を救うため参内なさろうとした宇多上皇(うだじょうこう)――おじい様を阻んだとか。でも、帝のお許しがなければ上皇は参内してはならないと定めたのは他ならぬ宇多上皇でした。菅根はその後、上皇の参内を阻んだ罪で、一度は大宰大弐(だざいのだいに)に落とされましたけれど、大宰府に赴任する前に、元の蔵人頭兼式部少輔(しきぶのしょう)に復すことを許され、その後も出世を続けて――」

(そして、雷に打たれて死んだ)

 しんと胸中で呟いた小丸の耳元で、皇女は更に話す。

「堤中納言も、蔵人などとして、ずっとお父様の身近に仕えていましたから、お父様への敬慕もあったでしょうけれど、それ以上に菅原朝臣への恐怖があったのでしょうね。葬送への奉仕が決まっていた従四位上(じゅしいのじょう)参議の平伊望(たいらのこれもち)も、理由も告げず逃げたため、代わりに従六位上(じゅろくいのじょう)右衛門大尉(うえもんのたいじょう)であった阿刀常基(あとのつねもと)が奉仕しましたが、多くの闕礼(けつれい)があったそうです」

 細い月が沈み、星々だけが瞬く夜空の下をひた走る小丸にしがみ付いた皇女は、まるで咒詛をするように、耳元で話し続ける。

「山陵の地を最初に穿つのに、四位の者が当たるはずが、無位の者が行ったり、入り口の開閉は木工頭(もくのかみ)の役目であったはずなのに、病で辞退したために、木工助(もくのすけ)が当たったりしたそうです。(みな)、菅原朝臣が、恐ろしくて堪らなかったのでしょうね」

「――おまえは、恐ろしくないのか」

 つい、問うてしまった小丸に、皇女はくすりと笑った。

「恐ろしいですとも。それなのに、住まいは別名雷壺。いつ落ちてくるのかと、雷が鳴る時はいつも、左門と一緒に帳台の中に隠れているほどです。でも、それ以上に、憎い」

 ひやりとする声音で、皇女は告げる。

「あの方は、まろから、多くのものを奪いましたから」


          六


 小丸の声を不審に思い、やって来た近衛達は、西廂(にしびさし)渡廊(わたりろう)に控えていた女官達が上手に追い返した。だが次にやって来たのは、知っているが、およそ歓迎できない気配だ。白君は眉根を寄せて、襲芳舎の母屋から全てをすり抜け、外へ出る。そこに現れていたのは、やはり菅原道真だった。怨霊でありながら、奇妙に落ち着いた雰囲気を纏った正二位の男は、夜空から白君を見下ろし、顎鬚を撫ぜながら問うてきた。

「何ゆえ、その皇女(みこ)を守る?」

(あるじ)(めい)だ」

 白君はきっぱりと答えた。怨霊は、更に問うた。

「何ゆえ、おまえの主は、その皇女を守らせる?」

「頭の中将から与えられた仕事だからだ」

「己の命も顧みず仕事を全うする、か?」

 試すような眼差しで、怨霊は白君を見下ろす。白君は、再度きっぱりと答えた。

「そうだ」

 夏虫がどういう危険に身を晒しているか、今回はよく分かっている。夏虫は白君にその事実を隠しはしなかった。

「よいのか?」

 嘲るような声音で、怨霊は重ねて言う。

「下手をすれば、おまえの主は命を落とすぞ」

「小丸がいる。あれが夏虫を守る」

 白君は即答した。あの少年への信頼があるからこそ、主はその身を危険に晒したのだ――。

「そうか」

 怨霊はあっさりと納得すると、眼光を弱め、星々の煌めく夜空を仰ぎながら一首諳んじた。


  (あま)(ほし)(みち)宿(やど)りもありながら(そら)にうきてもおもほゆるかな

 〔天を渡っていく星のように、道も宿もあるけれど、空に浮かんでいるかのような不安な思いがすることだ〕


 白君は夏虫とほぼ同じ知識を有しているので、その歌も知っていた。道真が生前、左遷先の大宰府へ向かう道すがら、学者らしく、天球の黄道や赤道や二十八宿に思いを馳せながら、自分の身の上をしみじみ歌ったと伝わる歌だ。しかし、今、何故その歌なのか。白君が怪訝な顔をすると、怨霊は独りごちるように告げた。

「わが愛娘、紅姫(べにひめ)は、かの筑紫(つくし)で、わし亡き後、わしが書いたという密書を持っている疑いを掛けられ、時平の刺客の手に掛かり、十四で死んだ。その孤独と不安と恐怖に比べれば、あの皇女の思いなぞ、取るに足らぬ。天つ星の歌は、わが歌と伝わっておるが、真は紅姫の歌。大宰府へ下る道中、駅舎に泊まれはすれども、充分な食べ物もない中で歌った歌よ。才に恵まれた子であった」

「――ゆえに、同じ十四の、あの皇女を許さぬと仰せか」

 質した白君に、怨霊は冷ややかな眼差しを向けた。

「おまえの主次第よ」

 一言言い残して、菅原道真の姿は闇に溶ける。その闇を暫し見つめ、白君は呟いた。

皇御孫(すめみま)(みこと)朝廷(みかど)を始めて、天下四方国(あめのしたよものくに)には、罪と云う罪は在らじと――」

 何故、人は、恨み憎しみを連鎖させるのか。あの康子内親王に罪があるとは思えない。菅原紅姫(すがわらのべにひめ)に罪があったとも思えない。人ならざる身には、理解できないことだった。

 東廂の格子と御簾、母屋の御簾と壁代、几帳を通り抜け、脇息に両腕を乗せ、顔をうずめている皇女(おうじょ)の許へ戻った。霊体が出ていって意識のないその体を、左門という女官が片時も傍を離れず心配そうに見守っている。女官に白君の姿は見えていない。彼女にそんな力はないのだ。それでも、見鬼の才があり、生霊にもなれてしまう突飛な皇女に、誠心誠意仕えている。

「大丈夫だ。そなたの主は無事帰ってくる」

 届かない言葉を言い、白君は振り向いた。そこには、自分と同じく女官には見えていない鬼がいる。その、遊女のような姿が、ぐにゃりと歪み、薄れる。相手の所為ではない。自分の不調だ。夏虫の力が尽きようとしている。夏虫は、己の力が長くもたないと分かっていた。だからこそ、白君を小丸に同行させなかったのだ。

「蛙とやら、後は頼む」

 告げた直後、己の体が天児へ戻り、鬼の手に素早く拾われるのを、白君は遠く意識した。


            ◇


 醍醐寺は、醍醐水という甘露の如き水が湧くことから名づけられたという曰くを持ち、先帝の帰依の下、薬師堂、五大堂、釈迦堂が建立された立派な寺だという。先帝の(おくりな)は醍醐天皇というらしいが、それも、醍醐寺から取られたのだと、いつか保憲から聞いた。

(その寺の北に山陵を作らせたのも、先の帝の意思か)

 小丸は、笠取山(かさとりやま)の乾――西北の山肌に広がる醍醐寺の手前、醍醐寺北山陵の前で、ゆっくりと足を止めた。山陵は、闇の中、小山ほどの大きさで、静かな存在感を放っている。小丸は皇女を背負ったまま問うた。

「どこまで行く? 入り口の前までか?」

「お父様に、お会いできるところまで」

 皇女は、硬い声で答えた。保憲の声で、そんなに思い詰めた声を出されると、胸がざわざわとする。小丸は、返事の代わりに溜め息というには鋭い息を吐いて、山陵を登り始めた。

 六月の夜風は心地よい。滑らかな山陵の上を吹き渡る風が、走り続けて汗を掻いた小丸の体を冷やしていく。鉢を伏せたような半球に四角い出っ張りが取り付けられた、上から見れば恐らく帆立貝(ほたてがい)のような形をした山陵。その西の側面から登り始めた小丸は、南にある四角い出っ張りのほうへ進んでいった。山陵の常として、入り口はそちらにあるはずだ。そんなことを教えてくれたのも、夏虫だった頃の保憲だった――。

 入り口は閉ざされ、土を被せられている。

「どうする? 入り口を開けるのか?」

 問うた小丸の背から、するりと降りて、保憲の体を借りた皇女は、黙って入り口の戸の前に立ち尽くした。星空の下、夜風が、保憲の冠の嬰を、袍の袖を、静かに揺らしていく。そのまま、どれほどの時が過ぎただろう――。 

「――ありがとうございました」

 皇女は保憲の声で言い、くるりと小丸を振り向いた。笑顔の頬には、光る涙の跡がある。

「お父様は、ここまで参っても、お声すら聞かせて下さいません。この穢土には何の御未練もなく、旅立たれたのでしょう。菅原朝臣とは違って……。そう考えると、気が晴れました」

 言葉通り、晴れやかに告げて、皇女は両手を差し出す。

「さあ、内裏へ連れ帰って下さい。左門がさぞ心配していることでしょう」

 保憲の顔で愛らしく微笑みかけられて、小丸はぷいと視線を逸らし、皇女に背中を向けて腰を落とした。

 保憲の体を借りた皇女を再び負い、揺らし過ぎないよう多少の気を使いながらも、小丸は風のように京の都へ戻った。賀茂川を渡り、大路小路を走り、大内裏へ入り、内裏へ入る。篝火を避けて進み、襲芳舎の東の簀子へ皇女を下ろした。

「世話を掛けました。保憲に体を返してきます」

 囁いて、皇女は妻戸から中へ入っていった。けれど、なかなか保憲は出てこない。保憲の気配もしない。小丸が簀子の陰でじりじりしていると、傍らに、あの女の鬼が現れた。その長い爪を生やした手に、白い天児がある。

「何があった?」

 小丸が鋭く問うのと、女の鬼が答えるのとは、ほぼ同時だった。

「アノ保憲ッテ奴ガ目覚メナイ。力モ尽キテルミタイダ。心ノ臓ハ、辛ウジテ動イテルヨウダケド……」

 小丸は、差し出された天児をひったくるように懐に仕舞うと、尻切を履いたまま、簀子に上がり、姫宮が保憲の体で入っていった同じ妻戸から、中へ滑り込んだ。乱暴に御簾や壁代の下を潜り、母屋へと駆け込む。几帳の向こうへ回ろうとしたところで、出てくるあの女官とぶつかりそうになった。

「あ、今呼びに行こうと――」

 言い掛けた女官の横を擦り抜け、一歩進むと、倒れている保憲が目に入った。冠を被ったその頭を膝に乗せた皇女が、不安げな眼差しを上げる。皇女が何か言うより早く、小丸は保憲の傍らに膝をつき、その白い首筋に手を当てた。脈が相当弱くなっている。呼吸も微かで浅い。

「何があったんだ」

 きつく問うた小丸に、背後から女官が怒ったように答えた。

「宮様がその陰陽得業生の体で戻ってこられ、御自分のお身体で目覚められた。だが、陰陽得業生は目覚めない。ただそれだけだ!」

「無理シ過ギタンダ」

 言い添えたのは、中までついて来た女の鬼だった。

「どういうことだ」

 小丸は保憲を見つめたまま、鬼に説明を求めた。鬼は心配そうな声音で応じた。

「一ツノ体ニ二ツノ霊体ガ入ッテルノハ、マトモナ状態ジャナイ。ダカラ、保憲ハ己ノ霊体ヲ封ジタ。ケド、ソンナ状態、長ク続ケラレルモノジャナイ。別ノ霊体ニ肉体ガ操ラレテル間、封ジラレタ霊体ハ力ヲ失イ、魂ヲ手放ス。魂ハソノママ、アノ世ヘ向カウ。マダ呼吸ハアルンダカラ、三途ノ川ノ一歩手前ッテトコロダロウネ。保憲ガ雁ヲ呼ビ戻シタヨウニ、呼ビ戻セルカイ?」

「やる」

 即答して、小丸は膝をついたまま保憲の首の後ろと肩にそれぞれ腕を回し、皇女から引き取るように、そのぐったりとした上体を抱き起こした。両腕で保憲の上体を抱き寄せながら、胡坐を掻き、姿勢が安定したところで、目を閉じる。左肩で支えた保憲の頭に頭を寄せ、意識をその奥へと潜らせた――。


            ◇


「ごめん」

 三途の川の手前に座っていた人影は、足元の小石を弄ぶ手を止め、振り向いた。すまなそうな笑顔。保憲だ。

「謝るなら、二度とこんな無茶するな!」

 苛立ちのままに怒鳴り、駆け寄って膝をつきながら、小丸は保憲を――その魂を両腕で抱き締める。

「よかった。まだ渡ってなくて、よかった……」

 普段なら、心の内で呟く言葉が、全て口から出る。ここが、魂のみで来る場所だからだろうか。

「もう少しもつと思ったんだよ。でも、内親王(ないしんのう)殿下が踏ん切りをつけるのに、予想以上に時が掛かったね」

 保憲は小丸の腕の中で言い訳する。

「白君に渡す力も最小限にして、おれなりに、ここへ来ないように、随分粘ったんだけれど」

「そもそも、体を貸すなんて、危険なことをするからだ! いつもいつもおまえは自分の体に厄介なモノを寄り憑かせて……!」

 怒った小丸に、保憲は自嘲気味に答えた。

「そうだね……。今回は、おまえがいるから大丈夫だと思って、無茶してしまったかもしれないな」

 意外な言葉に、小丸は目を瞬いた。

「おれが内裏へ行ったから無茶したのか」

「ああ。おまえがいなかったら、もう少し安全な方策を練っただろうね」

 あっさりと告げられて、小丸はむっとしながら、保憲の手首を掴んで立ち上がった。

「分かった。おれが悪かった。とにかく、さっさと帰るぞ」

 しかし、保憲はすぐには立とうとしない。座ったまま小丸を真っ直ぐに見上げ、不思議な表情で言った。

「一つ、今回のことで、分かったことがある。いつか、わたし(、、、)をこの川の向こうへ渡すのは、多分……、おまえだよ」


          七


 虫の息だった賀茂保憲が目を覚まし、家人らしい少年に抱えられて襲芳舎を出るとすぐ、西や南や北の廂に控えていた女官達が出てきた。

「康子様、大事ないですか」

「康子様、本当に無茶をなさって」

「康子様、あのような輩に膝枕をなさるなど、全く、お優し過ぎます」

 口々に言われて、康子は苦笑した。

「右近、大輔、少将(しょうしょう)、そんなに騒がしくしないで。まろは大丈夫ですから」

 皆、母后宮(ははきさいのみや)穏子の腹心の女房達だ。大体二十代半ばから三十歳くらいの、康子が幼い頃から周りにいる女達。

少弐(しょうに)も随分御心配申し上げて、こちらへ来たがっておりましたよ。東宮様がぐずりなさるので無理でしたが」

 右近の言葉に、康子は溜め息をついた。少弐は東宮の乳母を務めている。そして、その東宮は、康子の六歳年下の弟、八歳の成明で、隣の凝華舎(ぎょうかしゃ)に住んでいる。弟はもう一人いて、寛明といい、十一歳でこの国の天皇を務め、清涼殿で政務を執りつつ、凝華舎の向こうの飛香舎に住まう母宮と、専ら一緒に住んでいる。皇太后穏子――康子に自らと同じ音の名を付けた母宮は、その二人を抱えて、昼も夜も気の休まらない日々を過ごしているのだ。

「まろなどより、今上や東宮や母宮様の傍にいなさい。まろには、左門がいますから」

 女官達を諫めた康子の正面に、大輔が座り、優しい眼差しをして言った。

「左門もおりますが、われら皆、康子様のことが大切で心配なのです」

 それは分かっている。康子は苦笑しながら、小丸とかいう賀茂家の家人の少年が立ち去り際に口にした言葉を思った。

――「おまえに残された者を大切にしろ。おまえの周りには、まだ多くの人がいるだろう」

 確かにそうだ。

(それでも、掛け替えのない人は、やはり掛け替えがないのですけれど。それは、そなたも分かっているでしょう?)

 あの家人の少年にとって、賀茂保憲は、間違いなく掛け替えのない存在だ。息を吹き返した保憲を、両腕で大切に抱え上げたあの姿を見れば分かる。

(そんな相手が目の前にいるなんて、少し妬けてしまうくらい、羨ましかったです)

 山陵へ向かう途中から何となく気づいてしまったが、賀茂保憲は女だ。男と女の体が違うことは、弟達がもう少し幼い頃、その裸を見る機会が幾度かあったので知っている。

(師輔は、そんなことまで分かっていたのかしら)

 何かと自分のことを気にかけて、今回のような気の利いたお膳立てもしてくれる十二歳年上の従兄は、きっと分かっていたに違いない。分かっていて、康子の問題を解決するに最適の人材として、賀茂保憲を派遣してきたのだ。

(お父様にはお会いできなかったけれど、賀茂家の者達に会えて、お父様の陵まで行けて、気が晴れました。すっきりした気持ちで、裳着を迎えられそう。彼には、感謝しなくてはいけないですね。諸陵寮を焼いたことは、とても怒られるでしょうけれど)

 男が年頃になれば初冠して元服するように、女は初笄して裳着をする。十四歳になった康子の裳着は、今年の八月二十七日に予定されている。賀茂保憲の異例とも言える派遣は、それに向けての、従兄からの贈り物のような気がした。


            ◇ 


 大牙丸と赤丸が、醍醐寺北山陵への道中は何事もなかったという報告を携えて帰ってきてから暫くして、蛙も、保憲が無事に目覚めて内裏を退出したという報告を雁へ持ってきた。菅原朝臣が現れたり、保憲が無茶をしたりして、そこそこ危険な状況ではあったらしいが、全て事無きを得たらしい。

「アノ小丸ッテ奴モ末恐ロシイネ。マア、イロイロ楽シミナ感ジモスルケドネ」

 肩を竦めてから、蛙はにやりと笑って姿を消した。どこかで鶏の鳴き声がする。そろそろ明け方なのだ。暫くすれば、小丸も保憲を連れて帰ってくるだろう。

 傍らで寝ている蓑虫が寝返りを打った。微笑んで、雁は、鬼達に対応するため起こしていた上体を、その隣へ再び横たえる。早々と無理に起きる必要もない、恵まれた生活だ。何より蓑虫が目覚めた時、隣にいることが肝要なのだ。蓑虫は、未だに雁がいなくなる夢を見るというから、その心の傷は、できるだけ傍にいて癒していかねばならない――。

 近づいてくる気配に、雁は顔を上げた。途中まで気配を消していたのだろうか。気づくのが遅れた。

(いよいよ、追い出されるか……?)

 雁が再び起き上がり、吹き曝しの釣殿から見つめた先には、西の対の簀子をこちらへ向かって歩いてくる賀茂忠行の姿があった。


            ◇


 陰明門の蔵人頭の宿所に立ち寄って、頭の中将に事の次第を報告したらしい保憲は、ふらつく足取りで、そのまま陰明門を通って内裏から出てきた。大内裏を出るまで隠れていろと言われた小丸は、そこで耐え切れず飛び出して、無言で保憲に肩を貸した。日が昇る直前の大内裏は、殆ど人がおらず、静かだ。大して人目につくこともないだろう。保憲も怒ることなく、微苦笑したきり、黙って歩いた。怪訝な顔をする近衛や兵衛もいたが、保憲の顔は既に見知っているらしく、その保憲を支えて歩く小丸に対しても何も咎め立てはしてこない。二人は修明門を出て左へ曲がり、のろのろと西雅院、東雅院の前を通り過ぎて、衛士達にも咎められることなく、待賢門から大内裏の外へ出た。

 衛士達が焚く篝火から少し離れてから、小丸はまた無言で、保憲を負ぶった。やはり違う。保憲は、あの姫宮のように縋りついてはこない。落とされても構わないというような、或いは絶対に落とされはしないだろうというような、小丸に全て委ねた負ぶわれ方をする。癪に障るが、決して保憲に負担を掛けないよう、細心の注意を払って気遣いたいとも思う――。

 待賢門を出てから左へ曲がり、次に右へ曲がって勘解由小路へ入った小丸は、京の東北東、比叡山(ひえいざん)のほうが白々と明るくなっていくのを見ながら、賀茂邸へ保憲を連れ帰った。

 小丸の背中で一言も口を利かなかった保憲は、部屋へ入っても一言も言わず、長櫃から着替えの布衣などを取り出すと、下屋へ向かった。水浴みをするのだろう。と、その後を、すっと姿を現した白君が追っていった。小丸の懐で、いつの間にか力を取り戻したらしい。ついて行く訳にもいかず、小丸は己の曹司へ入った。円座の上へ腰を下ろし、片膝を抱え込んで俯く。保憲の魂が、三途の川の前で言った言葉が心に重く圧し掛かる。

――「いつか、わたし(、、、)をこの川の向こうへ渡すのは、多分……、おまえだよ」

 あれは、どういう意味だろう。あの時は、その意味を訊くことができなかった。保憲があまりに儚く見えて、急いで連れ帰らねばと焦ったのだ。そして、あの後も、邸へ帰る道中でも、何も訊けなかった。保憲が酷く消耗していたせいもあるが、三途の川の手前での、夢現(ゆめうつつ)のような言葉について、改めて尋ねるのが躊躇われたのだ。

(あれは……、おれが、いつかおまえを殺すという意味か)

 否定できない。寧ろ、そう思われていて当然だという気がする。剥き出しの魂の状態だったからこそ、保憲の本音が、素直に言葉にされたのだ。

(おれは一度おまえを殺し掛けた。二度目がないとは言えない。それは、おれ自身が一番よく分かってる)

 自分で自分が制御できなくなる時がある。龍に憑かれたり、怒りに我を忘れたり、自分は恐ろしく危うい。だからこそ、保憲の言う通り修行に励む毎日なのだが……。

 ほとほとと遣戸を叩く音に、小丸ははっと顔を上げた。ひぐらしの気配だ。

「小丸、今いいかしら? 何があったのか、保憲が口留めしない内に教えてくれると嬉しいのだけれど」

 さすが、ひぐらしだ。保憲の行動を完璧に読んでいる。

「分かった。ここは狭いから、そっちへ行く」

 小丸は答えて立ち上がった。遣戸を開け、ひぐらしの後に続いて彼女の部屋へ入る。途端に、薬の匂いが敏感な鼻を突いた。ひぐらしの部屋の塗籠には、多くの生薬が保管してあるので、独特の匂いがするのだ。

「どうぞ」

 出された円座に座り、小丸は手短に保憲の身に起こったことを話した。そして、最後に付け加えた。

「三途の川の手前で、あいつに言われた。『いつか、わたし(、、、)をこの川の向こうへ渡すのは、多分……、おまえだよ』って。あれは、やっぱり、おれがいつか……、あいつを殺すって意味なんだろうな」

「あの子が、そんなことを……?」

 ひぐらしは、袖を口に当てて驚いた顔をする。

「どんな様子で……、どんな顔で、あの子がそんなことを……?」

 訊き返されて、小丸は、あの時の保憲の顔を思い浮かべた。不思議な表情だった。はっきりと覚えている。

「ひどく無防備で……、微笑むようでいて、どこか痛むような、眩しいものでも見上げるような……」

 あの顔を見ていると、魂が疼くようで、居た堪れなくなって、掴んだ保憲の手首を強引に引き、この世へ戻ってきたのだ。

「そう……」

 袖で口元を隠したまま相槌を打ったひぐらしの顔が、心なしか赤らんでいる。まるで恥ずかしがっているような表情だ。訳が分からない。眉をひそめた小丸に、ひぐらしは困ったように言った。

「保憲がそんなことを言うなんて信じられないけれど……、でも、少なくとも、あなたが思っているような意味で言ったのではないと思うわ」

 小丸は、益々眉をひそめた。そんな曖昧な言い方をされても、信じられるはずがない。

「気休めの慰めなら、いらない。おれはやっぱり、この邸にいるべきじゃない。出ていく」

「それは、駄目よ!」

 ひぐらしは慌てたように小丸の袖を掴んだ。立ち上がりかけた小丸は、その必死さに、渋々腰を下ろす。保憲とは、もう顔を合わせられそうもないというのに。

「――俗信が、あるのよ」

 ひぐらしは、片手で小丸の袖を掴んだまま、もう一方の手の袖で赤らんだ顔を隠しつつ、言う。

「女は、初めての男の方に導かれて、三途の川を渡るという――。あの子が言ったのは、そういう意味のことだと思うの……」

 そこまで言われれば、男女の仲に疎い小丸にも分かる。しかし、あの保憲がそんなことを口にするものだろうか。それも、小丸相手に。

(おまえも魂だったから、口に出てしまったのか? それにしたって、おれなんかに……)

 自然、小丸の頬も紅潮してくる。

「あいつが、そんなこと言うなんて、おれにも信じられない。けど、出てくのは延期する。離してくれ」

 小丸は顔を背けつつ、ひぐらしの手から袖を引き抜いて立ち上がると、足早に己の曹司へと戻った。心の臓が飛び跳ねるように鼓動を打っている。息苦しいほどだ。

(絶対違う。そんな訳がない――)

 小丸は円座に座り込み、膝を抱えて、きつく目を閉じた。


            ◇

 

 馬鹿なことを言ってしまった。

(小丸と、まともに顔を合わせられない……)

 (たのごい)で水浴みした体を拭きながら、保憲は溜め息をつく。何故、あんなことを言ってしまったのだろう。三途の川は、魂のみで行く場所だからだろうか。以前、雁を迎えに行った時のことは、覚えてすらいない、さすがに不可思議な場所だ。小丸は、保憲の言葉の意味を分かってしまっただろうか。否、男女のことに疎く、俗信にも詳しくない小丸は、きっと言葉そのままの意味に取っただろう。即ち、いつか保憲を小丸が死なせる、と。それはそれで困った事態だ。

(あいつは、出ていくと言いかねない……)

 話をしなければならない。保憲は、もう一度溜め息をつくと、巾を白君に渡し、代わりに布を受け取って胸に巻き始めた。

 下袴に単衣、布衣袴に衵を纏った保憲は、下屋から出て西の対へ戻った。白君も後ろからついて来る。自室で布衣を纏い、烏帽子を被った保憲は、小丸の曹司との隔てである襖障子をほとほとと叩いた。

「いいか?」

 声を掛けても返事はない。だが、気配はそこにある。暫く待ってから、保憲は襖障子の前に腰を下ろし、そのまま話し始めた。

「三途の川の前で、おれが言ったことは気にしないでくれ。多分、おれは、おまえにとても気を許してるから、あんな言葉が出たんだ。決して、おまえのことを嫌ってるとか、恐れてるとかじゃないんだ。昨日も言った通り、おまえのことは、とても頼りにしてるし、できるだけ――、おれが死ぬまで、傍にいてほしいと思ってる。だから、出た言葉なんだ。勿論、おまえがおれに縛られる必要はないけれど、おまえは、おれにとって、掛け替えのない存在なんだ」

 小丸の気配が急に動き、襖障子が開いた。

「『縛られる』とかじゃない!」

 目の前に立った小丸が、必死な表情で保憲を見下ろし、言う。

「おれこそ、おまえがいなきゃ、駄目なんだ。おれにとって、おまえは、全てなんだ。『縛られる』じゃなくて、それは、おれにとって、絆なんだ」

「そうか」

 保憲は座ったまま、小丸を見上げて微笑む。やはり、自分は小丸を縛りつけてしまっている。しかし、それを小丸も望んでいるのなら、今はそれでいいのだろう。

「ありがとう」

 心の底から告げた保憲に、小丸は顔を赤らめ、また急に襖障子を閉めてしまった。


          八 


「賀茂保憲の報告と全く同じだな」

 校書殿(きょうしょでん)の塗籠の中、奥に座った師輔が感想を漏らすと、報告を終えた右近は、明かり取りの窓から差し込む朝の淡い光の中に控えたまま、艶やかに笑んだ。

「あなた様の目論見通り、ですわね」

「こちらは、な」

 師輔は、閉じた檜扇の先端を口元に当てた。考え事をする時の癖だ。賀茂保憲は、確かに使える人材だと証明された。しかし、今回の事件の決着はまだ着いていない――。

「何か他に、お気に懸かることでも?」

 右近が微かに小首を傾げて問うてきた。師輔が黙っていると、身近に接してきた女官は、わざとらしく口を尖らせた。

「まあ、このわたくしにも、隠し事ですか?」

「――犯人をどうするか、だ」

 端的に、師輔は告げた。ここから先のことで右近に協力を求める気はないので、説明するのは面倒だったが、関係を損ねると、のちのち更に面倒だ。事情を知っている上、察しのいい右近は、すぐに理解した。

「そうですわね。先に内裏に押し入った百鬼夜行を率いた輩も、山中で死んでいたとはいえ、まだ他に仲間がいるのではないかと噂も絶えないことです。人心を安んずるためにも、諸陵寮を焼いたのが誰か――皇族の方々の祖霊でもなく、菅原朝臣の怨霊でもない誰かだと、早く明らかになったほうが宜しいですわね。けれど、よいのですか?」

 右近は気遣わしげに師輔の顔を窺う。

「真の犯人は……、明らかにできる訳もございませんし、実際、目撃され疑われているのは、かの雑色。あなた様の従兄様の御子息でしょう? 何よりかの雑色には、何の罪もございません。どうなさるのですか?」

「それを、ここのところずっと考えている」

 ぶっきらぼうに言うと、師輔は檜扇を振った。

「内裏に戻れ。必要があれば、また声を掛ける」

「……分かりましたわ」

 溜め息交じりに応じて、右近は立ち上がり、妻戸から外へ出ていった。

(さて、どうするか……)

 切り捨てるという選択肢もある。かの雑色は、身内とはいえ、伯父の時平の孫で、それほど近しい訳でもない。だが、蔵人所の雑色から罪人を出したとなれば、下手をすれば蔵人頭たる師輔の責任も問われかねない。悩ましいところだった。


            ◇


「重輔、重輔」

 名を呼ばれ、肩を揺すられて、藤原重輔は、はっと目を開け、体を起こした。兄の元輔の心配そうな顔が目の前にある。ここは蔵人所町屋の母屋。校書殿の西廂にある蔵人所で宿直をして明け方を迎え、宿所のこちらへ戻ってきて、そのまま寝てしまったらしい。

「大丈夫か、おまえ。こんなところで寝て」

 二歳年上の兄は、真剣な眼差しで重輔の顔を覗き込む。

「正輔も心配していた。邸に帰っても、このところ、ぼうっとしていることが多い、と」

 正輔は一歳年上の兄で、重輔とともに元服をしてのちは、大学寮に入り、大学頭(だいがくのかみ)試問(しもん)に及第して、今は擬文章生(ぎもんじょうしょう)をしている。将来は、弁官(べんかん)になることを目指しているのだ。

「すみません」

 兄達に心配を掛けていることを、重輔は素直に詫びた。こんなに優しい、真面目に仕事や学問に励んでいる兄達に、迷惑を掛けるかもしれないと思うと、余計に心が重くなる。つい俯くと、兄の手が、強く肩を掴んだ。

「おれも正輔も、おまえを信じている。偶然その場に居合わせたおまえを、誰かが見て、無責任な噂を流しただけだ。そんな噂、おまえがここで真面目に働いていれば、すぐに消える」

(でも、おれには記憶がない……)

 重輔は胸中で呟いた。自分には、諸陵寮が焼けたあの夜の記憶が何故かない。校書殿の蔵人所で宿直をしていたことは覚えている。そこへ、夜だというのに女官が来たことも覚えている。けれど、そこから先の記憶がない。気がつけば、自分は諸陵寮の鎮火のために走り回る人々の間を、ふらふらと歩いていた。

 そして、噂が立った。所の雑色の重輔が、諸陵寮に火を点けた、と。それを見た者がいる、と――。

「重輔、大丈夫か?」

 また、体を揺すられた。ともすれば、考え込んでしまう。兄は、重輔の両肩を掴んで言った。

「重輔、早く帰れ。邸でしっかり休め」

 真摯な言葉に頷き、重輔は立ち上がった。

 辺りに人影はない。宿直明けの者は帰宅し、出仕してきた者は、校書殿西廂の蔵人所に詰めているのだろう。兄も仕事中のはずだ。それなのに、心配して様子を見にきてくれた。そんな兄にこれ以上迷惑を掛ける訳にはいかない。重輔は蔵人所町屋の東廂で兄と別れると、武徳門、修明門と、いつもの通り道で内裏を出、陽明門(ようめいもん)から大内裏を出た。その道々で、行き交う官人達から、眉をひそめて見られ、ひそひそと噂されている気がする。あの火事の夜以来、自分を取り巻く状況はずっとこんな調子で、しかも段々と悪化してきているようだ――。

「蔵人所雑色藤原朝臣重輔殿」

 不意に声を掛けられ、重輔は面食らって相手を見た。美しい白襲の汗衫を纏った女童だ。見知らぬ相手が、何故、自分の職と姓名を知っているのかと一瞬訝ったが、つい先ほど陽明門で衛士に告げたのを聞かれていたのだと、合点が行った。まだ明け方で辺りは薄暗く、衛士が篝火を焚いている時間帯だったので、姓名を告げる必要があったのだ。しかし、一体何の用だろう。青みがかった暗さの中、長袴も汗衫の裾も、少しも絡げずに地面に引きずった少女の姿は、ひたすら異様だった。

「あなたはどなたですか」

 警戒しながら問うたた重輔に、少女は男のような物堅い口調で答えた。

「少々話したいことがある。このまま富小路(とみのこうぢ)のお邸まで同道させて頂きたい」

「分かりました」

 頷いた重輔は、ふと少女の顔立ちが、賀茂保憲に似ていると思った。

 近衛大路(このえおおち)を真っ直ぐ東へ行く間に、重輔は隣を歩く少女が人ではないのだと気づいた。夜が明けていき、路を行き交い始めた人々が、異様な風体をした少女に全く目を留めないのだ。そして富小路を真っ直ぐ北へ進む間に、少女が賀茂保憲の式神で、自分を救うための知恵を授けに来たのだと知った。

「では、言った通りに頼む」

 到着した邸の門の前で念押しすると、保憲にそっくりの式神は、ふっと姿を消した。

(まるで、女の姿をした保憲殿そのものという感じだったな。保憲殿、そう言えば、随分綺麗な顔立ちなんだ)

 改めて気づきながら門を入った重輔は、仁王立ちしていた次兄にぶつかりそうになった。

「兄上……?」

 びっくりした重輔に、正輔は長兄と同じように両肩を掴んできて言った。

「おまえ、大丈夫か? 何もないところを見て頷いてなかったか?」

「あ、いえ、ちょっと疲れてるだけで……」

 誤魔化した重輔の肩に腕を回し、次兄はやや乱暴に東の対へ連れていった。彼ら兄弟の住まいであるそこでは、弟二人と妹二人も、重輔の帰りを待ち構えていた。

「兄上、大丈夫ですか?」

「兄上、宿直明けにしてはお帰りが遅いので、心配しておりました」

 真面目な二人の弟達に口々に言われて、重輔は笑顔を作った。

「大丈夫だよ。少し蔵人所町屋で休んでから帰ってきただけだ」

「随分、疲れてるんだろう!」

 怒ったように正輔が言う。

「さっさと部屋へ入って休め」

「はい、兄上。そうします」

 素直に頷いて、重輔は己の曹司へ行き、袍と冠を脱いだ。莚の上に褥を掛けた上へ横になり、衾を被る。枕に頭を乗せて、天井を見上げた。白君と名乗った式神が告げたことが気に懸かる。

――「明日、出仕したら、鬼が火を点けたのを見たと言え。自分の目が信じられなかったから、なかなか言い出せなかったと。それで、万事解決する」

(そんな嘘が通用するだろうか。下手をすれば、上官を謀った罪を着せられてしまう……)

 重輔は溜め息をついて、寝返りを打った。疲れた頭が、もう考えることを拒否していた。


            ◇


「コレヲ機ニ、出テイケッテコトカイ?」

 蛙の不満そうな言葉に、雁は薄く笑った。平たく言えば、そういうことになるだろう。だが、それも仕方ないと思える。蛙の背後を、蛍が光りながら、ついと飛んだ。

「居候した分、働いて返していけということだ」

 雁は告げ、蛙を見つめる。

「悪いが、頼めるか?」

「アタシラガ、アンタノ頼ミヲ断ッタコトナンテ、ナイダロウ?」

 蛙は憮然として答えた。

「ああ、そうだな」

 微笑んだ雁に、微笑み返して、蛙と、他の鬼達は姿を消した。


          九


 白々とした曙の空の下、待賢門から大内裏に入り、内裏へ向かう路で、重輔は違和感を感じて辺りを見回した。いつもと雰囲気が違う。官人達が、疲れた顔で慌ただしく行き交っている。焦げ臭いような臭いが漂っている。

「一体、何が……」

「昨夜、鬼が多数現れて、豊楽院(ぶらくゐん)で宴をしたんですよ」

 不意に告げられて、傍らを見ると、微笑んだ賀茂保憲が立っている。

「大変だったんです。わたしも夜中に呼び出されて来たんですけれど、鬼達を追い払った後も、残った鬼火で、あちこち小火になって。官職も何も関係なく、みんなで消火したんですよ」

「鬼が――宴……? 豊楽院で……?」

 豊楽院は、大内裏の中央よりやや西南にある、節会(せちえ)や儀式を行う建物である。

「何故、そんなことに……?」

「理由は現在、陰陽寮で解明中ですが、先日の諸陵寮の火事も、鬼の仕業だったのではないかと、専らの噂ですよ」

 静かな言葉に、重輔ははっとして、保憲の横顔を見た。

「まさか……」

「わたしも、そうだったのではないかと考えています。では、仕事がありますので」

 ふわりと笑って、保憲は陰陽寮のほうへ去っていった。


            ◇


「出ていかれるのですか?」

 朝日が差し込む西の対の簀子に立って問うてきた少女に、雁は向き直り、深々と頭を下げた。傍らの蓑虫も、倣って神妙に頭を下げた。この、ひぐらしという少女には、随分と世話になった。だからこそ、迷惑は掛けたくない。

「播磨国へ帰ります。また、お会いする日もあるでしょう。それまで、どうか、健やかで」

「では、これを」

 少女は中門の廊を急いで歩いてきて、西の中門に立った雁に、一つの包みを手渡した。

「艾葉と地楡、生薑(しょうきょう)です。あなた様も、どうか、お体を大切になさって下さい。蓑虫も、元気で」

 目を潤ませた少女に、雁は微笑んで頷くと、包みを背に負い、その両端を右肩と左脇腹から前に回して結んで括りつけ、蓑虫を促して、西門へと足を向けた。

「出てくのか」

 門を出たところで待っていたのは、小丸だった。

「ああ。いろいろと世話になった」

「――こっちも、世話になった。あいつを手伝ってくれて、感謝する」

 照れ隠しか、目を逸らして言った少年に、雁はくすりと笑って応じた。

「大したことはしていない。少しでも恩返しになったのなら、よかった」

「またな」

 蓑虫が親し気に手を振った。小丸は少し面食らったようだったが、一拍を置いて答えた。

「ああ、またな」

「うん」

 涙を堪えた顔の蓑虫の手を取って、雁はゆっくりと歩き始めた。賀茂邸の前の勘解由小路から、富小路に入って南へ行き、三条大路(さんじょうおおち)に出る。少し西へ行ってから、次は堀川小路(ほりかわこうぢ)に入って南へ下る。目的地は、東の市。市が開かれるのは、正午からだが、少しゆっくり歩いて、少し休めば、正午になる。播磨国へ行く道中で必要な最低限のものは買っておきたい。元手は、昨日の朝、賀茂忠行から渡された米だ。米も勿論食べられるが、麦に変えれば量を増やせるし、他に持っておきたいものもある。

 東の市で買えるものは多い。

(麦、塩、菓子は、ある程度持っておきたい。それから木器、太刀と弓と矢と――薬)

 薬と思った途端、ひぐらしの顔が思い浮かんだ。あの少女には本当に世話になった。本心を言えば、都に戻ってくるつもりなどないのだが、つい「また、お会いする日もあるでしょう」と言ってしまった。それほど、ひぐらしは寂しそうだった。

(だが、あれ以上いる訳にはいかなかったからな……)

 昨日の朝、賀茂忠行が、雁と蓑虫のいる釣殿まで来て頼んだのだ。鬼達を、大内裏に現れさせ、多数の官人に目撃させた上で、小火を起こさせてほしい、と。忠行は、保憲の式神の白君を伴っていて、その白君が補足して説明した。即ち、諸陵寮を燃やした真犯人は皇女だったので、代わりの犯人を仕立て上げたいという要請だった。そして、忠行は雁に米を渡し、言った。

――「そなたが、悪人でないことは分かっている。だが、そなたの力は、やはり災いだ。この京には、おらぬほうがよい。都を、離れてくれ」

 真正面から、ああ請われては、断れない。そもそも、いつまでも賀茂邸に厄介になるつもりはなかったのだ。

(ひぐらし殿には悪かったが、これでいい)

 つらつらと思いながら、雁は、柳の下で足を止めた。蓑虫が疲れてきていた。

「少し、休もう」

 声を掛け、腰を下ろす。柳の木陰は風が抜けて心地よい。隣に座った蓑虫が、堀川に目を凝らした。堀川小路の真ん中を流れる堀川は、幅四丈。その流れの中に、魚影が見えた。鮎だ。

「捕ってみるか?」

「うん」

 嬉しげに、蓑虫は堀川の淵へ行った。だが、鮎を素手で捕まえるのは難しい。堀川の中へ足を下ろし、膝上まで水に浸かった蓑虫の周りから、鮎はすいすいと素早く逃げていく。

「あらあら」

 不意に笑い含みの女の声が掛けられた。雁は、その声の主へ目を向ける。行き交う人々に紛れて近づいてきて、急に気配を表した相手は、この都へ来た夜の翌朝、雁が世話になった女だった。

「あの折は、貴重な生薬を頂き、ありがとうございました」

 雁が蓑虫を背後に庇い、前へ出て挨拶すると、坪装束を纏った女は目を細めて笑んだ。

「そのように警戒なさらずとも大丈夫ですよ。声を掛けるつもりはなかったのですが、鮎を追い散らしていらっしゃる姿を見ると、おかしくて。わたしの父は鵜飼をしておりましたが、鵜の若鳥は、同じように鮎を追い回すのですよ」

「おれは、鵜じゃない」

 蓑虫はむくれ顔だ。

「そうですね」

 柔らかく相槌を打って、女は踵を返しかけ――、ふとまた振り向く。

「あなた達は、いつかまた、この都へ戻ってくることになると思いますよ。その時は、わたしの縁の者がまたお世話になるでしょう。それまで、どうか健やかにお過ごしなさいませ」

 相変わらずお節介な口調で締め括って、女は人混みの中へ消えていった。

「あの人、知り合いなの?」

 眉をひそめた蓑虫の問いに、雁は頷いた。

「ああ。だが、不思議な人だ。おれ達が今から都を出ていくところだと、何故分かったんだろうな……」

「きっと、兄さんやおれみたいに、何か特別な力を持ってるんだよ」

 顔を輝かせた蓑虫の答えに、雁も頬を緩めた。確かに、そうなのかもしれない。

(「いつかまた、この都へ」か……)

 清濁併せ呑む都の雰囲気を肌で感じながら、雁は無言で蓑虫の手を握り、羅城門へと下っていった――。


            ◇


 六年後、晴明と名乗るようになった小丸と、保憲との間に、男子が生まれる。男子は長じて元服し、賀茂光栄(かものみつよし)と名乗って、晴明とともに、陰陽師として活躍することとなる。

 雁と蓑虫は、その後も時折、京に現れては、保憲や小丸と関わることとなる。雁は蘆屋道満(あしやのみちまろ)、或いは道摩法師(どうまほうし)と名乗り、蓑虫は智徳法師(ちとくほうし)と名乗って、二人とも隠れ陰陽師として活躍し、物に字を書いて呪と為すことを得意としたという――。

これにて完結です。ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。続編「雲と風」を執筆中です。よければ、そちらも御覧頂ければと思います。

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