第3話 鬼嫁ですが、良い妻です
バルド卿の一件以来、ローレンツ子爵家には穏やかな日々が続いていた。
悪質な商人は来なくなった。
面倒な親族も来なくなった。
不自然な投資話や怪しげな縁談話も、なぜか玄関前で引き返すようになった。
王都では、相変わらず噂が流れている。
「ローレンツ子爵の奥方は、鬼嫁らしい」
「でも、とてもお優しい方でしょう?」
「ええ。だから不思議なのですわ」
その噂を聞くたび、ローレンツ家の者たちは、そっと微笑んだ。
間違ってはいない。
ただ、説明が少し足りないだけである。
ある日の午後、アルヴィンはいつもより早く屋敷へ戻ってきた。
顔色が少し悪い。
ミアはすぐに気づいた。
「アルヴィン様。お疲れですか?」
「少しだけ。会議が長引いてね」
「少しだけ、というお顔ではありませんわ」
アルヴィンは苦笑した。
「君には隠せないな」
「妻ですもの」
ミアは彼を居間へ案内し、温かい茶を用意した。
甘い香りが、ふわりと部屋に広がる。
暖炉の前では、あか丸とあお丸が小さな座布団に座っていた。
夫婦の邪魔をしないつもりらしい。
「今日は、何かありましたの?」
ミアが尋ねると、アルヴィンは少し迷ってから答えた。
「王都の会議で、また君の噂が出た」
「鬼嫁の話ですか?」
「うん」
アルヴィンは申し訳なさそうに目を伏せた。
「嫌な思いをしていないかと思って」
ミアはぱちぱちと瞬いた。
それから、くすりと笑った。
「心配してくださったの?」
「もちろん」
「アルヴィン様は、本当に優しい方ですわね」
「君ほどではない」
「まあ」
ミアは頬を少し赤くした。
それから、静かに茶を置く。
「わたくし、嫌ではありませんわ」
「本当に?」
「ええ。だって、鬼嫁と言われるのは、きっとわたくしがアルヴィン様を守ったからでしょう?」
「そうだと思う」
「なら、構いません」
ミアは柔らかく微笑んだ。
「怖いだけの鬼嫁では困りますけれど、大切な人を守る鬼嫁なら、悪くありませんもの」
アルヴィンはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「私は、君が鬼だと知っていて、君を妻にした」
ミアの指が、カップの取っ手で止まる。
「辺境で初めて会った時、君は子どもたちを助けるために、崖崩れの岩を一人で動かしていた」
「……見ていらしたの?」
「見ていたよ」
アルヴィンは穏やかに笑う。
「そのあと、君は何事もなかったような顔で、子どもたちに焼き菓子を配っていた」
「恥ずかしいですわ」
「私は、その時に思ったんだ。この人は強いだけではなく、優しい人だと」
ミアは黙っていた。
赤いカチューシャの下で、小さな角がほんの少し揺れる。
「だから、怖いと思ったことはない」
アルヴィンは、そっと彼女の手を取った。
「君は優しい。可愛い。頼もしい。それに、少しだけ鬼嫁なだけだ」
「少しだけ?」
「少しだけ」
ミアは、ふふっと笑った。
「では、これからも少しだけ鬼嫁でいますわ」
「心強いよ」
「ただし、アルヴィン様が悪いことをした時は、わたくし、夫にも厳しいですわよ」
「それは困るな」
「困らないように、良い夫でいてくださいませ」
「努力する」
「努力では足りませんわ」
「では、約束する」
アルヴィンが真面目に言うと、ミアは満足そうにうなずいた。
その瞬間、暖炉の前から小さな拍手が聞こえた。
「きゅう!」
「きゅっ!」
あか丸とあお丸が、ぱちぱちと手を叩いている。
二匹は夫婦の会話を最後まで聞いていたらしい。
ミアは顔を赤くした。
「二人とも、聞いていたの?」
「きゅう!」
「きゅっ!」
「胸を張ることではありません」
二匹はしょんぼりした。
けれど次の瞬間、あか丸は小さな花を一輪持ってきてミアに差し出し、あお丸はアルヴィンの膝に小さな菓子を置いた。
どうやら、お祝いのつもりらしい。
「ありがとう」
アルヴィンが言うと、二匹は得意げに跳ねた。
その夜。
ローレンツ家では、穏やかな夕食が用意された。
ミアはアルヴィンの隣に座り、あか丸とあお丸は小さな椅子でスープを飲んでいる。
ただし、あか丸はスプーンを逆さに持ち、あお丸が一生懸命直していた。
ロイドはそれを見て、静かに微笑む。
「本日も、平和でございますな」
「ええ」
ミアはにこりと笑った。
「平和が一番ですわ」
アルヴィンも笑った。
本当に、その通りだと思った。
ローレンツ子爵家の妻は、鬼嫁である。
普段は優しく、可愛らしく、焼き菓子の香りがするような人。
けれど夫が困った時だけ、誰よりも強く、誰よりも頼もしく、ほんの少しだけ鬼らしくなる。
王都の人々は、今日も噂する。
「ローレンツ子爵の奥方は、鬼嫁らしい」
「でも、とてもお優しい方でしょう?」
「ええ。だから不思議なのですわ」
その問いに、ローレンツ家の者たちは決まって微笑む。
「子爵様を困らせなければ、何も問題はございません」
そして今日も、ローレンツ家の庭では、赤いカチューシャの奥様が花に水をやり、双子の子鬼がその周りをころころ転がっている。
外には秘密の、穏やかで、平和で、少しだけ鬼のいる日常である。




