第2話 鬼嫁、叔父を黙らせる
ローレンツ子爵家の奥方は鬼嫁らしい。
その噂は、王都の貴族たちの間でじわじわと広がっていた。
だが、実際にミアを見た者は、たいてい首をひねる。
「あの方が鬼嫁?」
「笑うとえくぼが出る、あの可愛らしい奥方でしょう?」
「子爵様も幸せそうですし、怖い方には見えませんわ」
そう言われるたび、ローレンツ家の使用人たちは静かに微笑んだ。
外の方々は、何もご存じない。
そう思いながら。
今日も屋敷は平和だった。
ミアは庭で摘んだ花を小さな花瓶に生けていた。
あか丸とあお丸は、その横で花びらを数えている。
「きゅう、きゅう、きゅう」
「きゅっ、きゅっ」
数えているように見えるが、おそらく数えられてはいない。
途中であか丸が花びらを頭に乗せ、あお丸がそれを見て笑い転げた。
「二人とも、お花は飾るものですよ」
ミアが言うと、二匹はそろって花びらを花瓶に戻した。
ただし、あか丸はなぜか自分も花瓶に入ろうとした。
「入りません」
「きゅう……」
そんな穏やかな昼下がりに、厄介な客がやって来た。
アルヴィンの叔父、バルド卿である。
彼はアルヴィンが爵位を継いだことを快く思っていなかった。
まして、辺境出身の娘を妻に迎えたことなど、最初から面白くなかった。
応接室に通されるなり、バルド卿は鼻で笑った。
「ずいぶん可愛らしい屋敷になったものだな。花に菓子に、辺境娘。子爵家というより、田舎の茶会だ」
アルヴィンの表情が硬くなる。
「叔父上。妻を侮辱するのはおやめください」
「侮辱ではない。事実を言ったまでだ」
バルド卿は椅子に深く座り、杖の柄を指で叩いた。
「お前は昔から甘い。領地経営も、人を見る目も、何もかもな」
彼は懐から書類を取り出した。
「そこでだ。私が後見人として、ローレンツ家の財務を預かってやろう」
部屋の空気が、すっと冷えた。
それはつまり、家の実権を奪うという意味だった。
アルヴィンは拳を握った。
だが、相手は親族であり、王都にも顔が利く。
下手に反発すれば、こちらが不利になる。
ミアは、その様子を静かに見ていた。
「バルド卿」
「何だ、奥方」
「お茶のおかわりはいかがですか?」
「今はそんな話をしているのではない」
「あら」
ミアは、にこりと笑った。
「では、本題に入りますわね」
その瞬間、応接室の扉が開いた。
執事のロイドが、数冊の帳簿を持って入ってくる。
その後ろから、あか丸とあお丸が、よいしょ、よいしょと紙束を運んできた。
ただし、来客中であることを思い出した二匹は、頭から布をかぶっていた。
完全に怪しい。
「……何だ、その小さい布の塊は」
バルド卿が目を細める。
ミアは微笑んだ。
「屋敷の妖精ですわ」
「妖精?」
「ええ。少し丸い妖精です」
布の下から、あか丸が得意げに「きゅう」と鳴きかけた。
ロイドが素早く咳払いをする。
あお丸が、あか丸の口を押さえた。
バルド卿は不審そうにしたが、それどころではなかった。
机に並べられた帳簿を見た瞬間、顔色を変えたからである。
「それは……」
「バルド卿が管理していらした旧領の帳簿ですわね」
ミアは穏やかに言った。
「使途不明金がずいぶんございます。こちらは架空の修繕費。こちらは存在しない倉庫への管理費。こちらは、すでに亡くなった使用人に支払われ続けている給金」
「な、なぜ、それを」
「夫が困っていましたので、少し調べましたの」
「少し?」
アルヴィンは思わずつぶやいた。
ミアはにこっと笑った。
可愛い笑顔だった。
だが、赤いカチューシャの下から、小さな角の先がほんの少し見えていた。
それを見た屋敷の者たちは、心の中で一斉に思った。
出た。
奥様の、少しだけ鬼嫁である。
「わたくし、普段は穏やかに暮らしたいのです」
ミアはゆっくりと立ち上がった。
「お菓子を焼いて、花に水をやって、夫の帰りを待っていたいだけです」
応接室の蝋燭が、ふっと揺れた。
ミアの琥珀色の瞳の奥に、金色の光が宿る。
「ですが、夫を困らせる方には、少しだけ厳しくなってしまいますの」
「お、お前、何者だ」
バルド卿の声が震えた。
ミアは首をかしげた。
「アルヴィン様の妻ですわ」
それだけ言って、にっこり笑った。
その笑顔があまりに可愛らしかったので、かえって怖かった。
あか丸とあお丸は布をかぶったまま、ミアの足元で小さく両手を上げた。
「きゅう!」
「きゅっ!」
さらっと、布が剥がれ落ちた。今度は隠しきれなかった。
バルド卿は叫び声を上げた。
その日のうちに、バルド卿の不正は王都の役人へ届けられた。
彼がローレンツ家に口を出すことは、二度となくなった。
ただし、王都にはまた新しい噂が流れた。
「ローレンツ子爵の奥方は、やはり鬼嫁らしい」
「今度はバルド卿を一晩で黙らせたそうですわ」
「どうやって?」
「それが、誰も知らないのです」
「でも、奥方様は今日もにこにこしていらしたわ」
「不思議ですわね」
外の者たちは、相変わらず何も知らない。
ただ、ローレンツ子爵の周りで悪だくみをすると、なぜか証拠が揃い、逃げ道が消え、最後には可愛らしい奥方ににっこり微笑まれる。
それだけは、誰もが理解し始めていた。
事件の翌日。
あか丸とあお丸は、来客の前で声を出してしまった罰として、庭の落ち葉を拾っていた。
ただし、あか丸は落ち葉の山に飛び込み、あお丸はその上に座っていた。
罰になっているかは怪しかった。
「二人とも、反省していますか?」
ミアが尋ねると、落ち葉の山がもぞもぞ動いた。
「きゅう」
「きゅっ」
「返事だけはよろしいですね」
ミアは困ったように笑った。
アルヴィンはその横で、肩の力を抜いていた。
「ミア」
「はい」
「ありがとう。君がいなければ、どうなっていたか」
「いいえ。夫を守るのは、妻の務めですもの」
「頼もしいな」
「鬼嫁ですから」
ミアはいたずらっぽく笑った。
アルヴィンは少し驚き、それから笑った。
「君は、自分でそれを言うのか」
「外の方々がそうおっしゃるのでしょう?」
「気にしているのか?」
「いいえ」
ミアは微笑んだ。
「怖がられているのではなく、アルヴィン様を大切にしていると思われているなら、悪くありませんわ」
アルヴィンは、何も言えなくなった。
代わりに、そっと彼女の手を取った。
落ち葉の山から、あか丸とあお丸が顔を出す。
「きゅう?」
「きゅっ?」
二匹はしばらく二人を見上げ、それから真似をして手をつないだ。
ただし、手ではなく落ち葉を握っていた。
ミアは吹き出した。
アルヴィンも笑った。
ローレンツ家の庭は、今日も平和だった。
少なくとも、子爵様を困らせる者がいない間は。




