第9話 一八〇〇へ
「三着、ですか」
黒川先生は、レース後の厩舎で淡々と言った。
ハルサメノツキは馬房の中で飼葉桶に顔を突っ込んでいる。
泥だらけだった馬体はすでに洗われ、今はいつもの小柄な牝馬に戻っていた。
ただ、目は少し違って見えた。
前走の後より、落ち込んでいない。
むしろ、自分でも少し分かったのかもしれない。
走れる形がある、と。
「勝てませんでした」
俺が言うと、黒川先生は横目で見た。
「馬主が三着で悔しがるのは悪くありません」
「悔しいです。正直」
「でしょうね」
「でも、嬉しくもあります」
「でしょうね」
全部見透かされている気がした。
黒川先生は馬房のハルサメノツキに視線を戻す。
「今日は、前走とは違う競馬ができました。外めの枠、稍重、距離延長。浅倉くんもよく乗りました」
「はい」
「ただし、勝ち馬とはまだ差があります」
「分かっています」
一着のミスティックフレアは強かった。
好位で折り合い、直線で抜け出す。
人気馬らしい、文句のない勝ち方だった。
ハルサメノツキは外から伸びた。
でも、届かなかった。
その差は小さくない。
「三着で浮かれて、次に無理をすると壊れます」
「浮かれてるように見えます?」
「半分くらい」
「……気をつけます」
黒川先生は少しだけ笑った。
「でも、次を考える段階には来ました」
その言葉に、俺は背筋を伸ばした。
「一八〇〇、ですよね」
「早いですね」
「浅倉騎手も言っていました。まだ一六〇〇でも少し忙しいと」
「ええ。私も同じ見方です」
黒川先生は机の上に番組表を置いた。
大井開催。
三歳未勝利。
ダート一八〇〇メートル。
俺の目は、そこに吸い寄せられた。
「ありますね」
「あります。ただ、間隔は少し空けます。今日の疲れを見たい。馬体もまだ増やしたい」
「無理はさせたくありません」
「それを聞けて安心しました」
黒川先生は椅子に座り、腕を組んだ。
「三上さん。今日の三着で、少し注目されます」
「掲示板でも名前が出てました」
「見たんですか?」
「少しだけ」
「見すぎない方がいいです」
「ですよね」
「馬券を買う人たちは、勝った時は神様扱いして、負けた時は手のひらを返します。馬主がそれに振り回されると、馬が迷惑します」
正論すぎて、何も言えない。
でも、掲示板の反応が気にならなかったと言えば嘘になる。
ハルサメノツキの名前を、誰かが覚えた。
駄馬じゃないかもしれないと、ほんの少し思ってくれた。
それは、嬉しかった。
「ただ」
黒川先生は続けた。
「現地の空気も変わっていました」
「空気?」
「レース後、引き上げてくる時に聞こえましたよ」
俺も覚えている。
スタンドから聞こえた声。
「九番来たのかよ」
「最後伸びてたな」
「次は買うわ」
「いや、まだ勝ってねえぞ」
「でも名前は覚えた」
ほんの少しだけ、世界が変わった気がした。
それでも、まだ勝っていない。
ハルサメノツキは、まだ一度も先頭でゴール板を駆け抜けていない。
「次、人気しますかね」
「多少はするでしょう」
「三十六倍はもう無理ですか」
「馬主がそれを残念そうに言わないでください」
「すみません」
黒川先生は呆れたようにため息をついた。
「でも、次が一番難しいです」
「なぜですか?」
「周囲が少し見るようになるからです。前走のように完全ノーマークではなくなる。相手も警戒する。浅倉くんも、前走より勝ちを意識する」
「勝ちを意識すると、ダメですか」
「悪いことではありません。でも、この仔は急がせたらダメです」
黒川先生の声が低くなる。
「勝ちたいからといって、前半で位置を取りに行く。外を回したくなくて内に入れる。直線で早く追い出す。そうすると、この仔の良さが消えます」
俺は頷いた。
「我慢ですね」
「ええ。馬も、人間も」
馬房の中で、ハルサメノツキが鼻を鳴らした。
まるで、自分の話をされているのが分かったみたいだった。
「次は、一八〇〇を目標にします」
黒川先生が言った。
「ただし、条件があります」
「はい」
「追い切りで動きが硬くなったら回避します」
「分かりました」
「馬体が減りすぎても回避します」
「はい」
「雨が降らなくても、出すかどうかは状態を見て決めます」
「はい」
「それと」
黒川先生は、俺をまっすぐ見た。
「勝てると思い込みすぎないこと」
その言葉に、胸を刺された気がした。
俺には見えている。
雨の大井。
外から伸びる鹿毛の馬体。
泥の中で月みたいに光る姿。
でも、それは勝利確定の未来じゃない。
勝てる条件の輪郭だ。
その違いを、忘れてはいけない。
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
俺は馬房のハルサメノツキを見た。
「この馬が勝てる場所に近づいているだけで、まだ勝ったわけじゃない」
「その通りです」
「だから、ちゃんと準備します」
黒川先生は小さく頷いた。
「なら、次へ行きましょう」
その言葉で、決まった。
ハルサメノツキ、次走。
大井ダート一八〇〇メートルを目標。
俺が最初に見た光景へ、また一歩近づく。
数日後。
ハルサメノツキは軽めの運動から調教を再開した。
レースの反動は思ったより少なかった。
飼葉も食べている。
馬体も大きく減ってはいない。
ただ、相変わらず派手さはなかった。
調教時計だけを見れば、目立たない。
併せ馬で抜群に動くわけでもない。
誰が見ても分かる好馬体でもない。
それでも、変わっている。
外を回った時のリズム。
首の下げ方。
砂を被らない時の集中力。
少しずつ、ハルサメノツキ自身が覚え始めている。
自分は、どう走ればいいのかを。
「三上さん」
調教を見ていると、浅倉騎手が声をかけてきた。
「前走、ありがとうございました」
「こちらこそ。上手く乗っていただいて」
「いや、勝てなかったので」
「でも、次が見えました」
俺が言うと、浅倉騎手は少しだけ笑った。
「三上さん、やっぱり変わってますね」
「よく言われます」
「普通の馬主さんなら、三着でもっと悔しがるか、騎手に何か言うか、逆に喜びすぎるかです」
「俺も悔しいですよ」
「でも、見てるところが違う気がします」
胸が少し鳴った。
「違いますか」
「はい。着順より、走り方を見てる」
浅倉騎手は馬場の方を見た。
「俺、前走の直線で分かりました。あの仔、こっちが焦るとダメです。でも、待って待って、外でリズムを作ると、自分からじわっと伸びる」
「はい」
「だから次、一八〇〇なら……乗りたいです」
その言葉は、思った以上に嬉しかった。
新米馬主。
二十万円の安馬。
まだ未勝利の牝馬。
そんな馬に、騎手が自分から乗りたいと言ってくれた。
「黒川先生に相談します」
「お願いします」
浅倉騎手は少し照れたように笑った。
「俺も、あの仔で勝ってみたいです」
その日、厩舎を出る頃には雨が上がっていた。
空には薄く月が出ている。
春雨の月。
まだ勝っていない。
まだ注目馬でもない。
まだ誰にも強いとは言われていない。
でも、少しずつ味方が増えている。
黒川先生。
浅倉騎手。
現地で名前を覚えた馬券客。
そして、俺。
ハルサメノツキはもう、誰にも見向きされなかったセリ会場の安馬ではない。
次で、証明する。
一八〇〇メートル。
そこが本当に、この馬の勝てる場所なのかを。
そして一週間後。
出走想定表に、ハルサメノツキの名前が載った。
大井ダート一八〇〇メートル。
想定人気は、五番人気。
単勝予想オッズ、十二・八倍。
もう、誰も完全には無視していなかった。




