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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第一章 安馬を買った日

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10/23

第10話 勝てる場所

 枠順発表の日、俺はスマホの画面を見たまま固まった。


 大井第七競走。

 三歳未勝利。

 ダート一八〇〇メートル。


 ハルサメノツキは――八枠十一番。


「外だ」


 思わず声が漏れた。


 大外ではない。

 十二頭立ての十一番。

 けれど、内で包まれる心配はかなり減る。


 前走の七枠九番に続いて、また外めの枠。


 距離は一八〇〇。

 右回り。

 そして、天気予報は夕方から雨。


 条件が、近い。


 近すぎる。


 だからこそ、怖かった。


 俺には見えている。


 雨の大井。

 濡れたダート。

 外から伸びる鹿毛の馬体。


 でも、それは勝利を保証する未来じゃない。

 この馬が力を出せる条件の輪郭でしかない。


 黒川先生から電話が来たのは、その日の夜だった。


『枠、見ましたか?』


「見ました」


『八枠十一番。悪くありません』


「はい」


『ただ、外を回しすぎれば届きません。前が楽をすればそのまま残ります。距離が延びる分、折り合いも必要になります』


「分かっています」


『本当に?』


「……勝てる条件に近いだけで、勝ったわけじゃない」


 電話の向こうで、黒川先生が少し黙った。


『それが分かっているなら大丈夫です』


 そして、彼女は続けた。


『浅倉くんで行きます』


 胸の奥が熱くなった。


「お願いします」


『本人も乗りたいと言っていました。前半は急がせない。外めでリズムを取る。三コーナーからじわっと動く。前走と同じ方針です』


「はい」


『ただし、今回は勝ちに行きます』


 その言葉に、息が止まった。


 勝ちに行く。


 初めて、黒川先生の口からはっきりとその言葉が出た。


『この条件でどこまでやれるかを見るだけなら、前走で十分です。今回は、勝ちに行きます』


「……はい」


『三上さん』


「はい」


『馬主が一番、浮かれないでください』


「努力します」


『努力ではなく、実行してください』


「はい」


 電話が切れたあとも、俺はしばらくスマホを握っていた。


 勝ちに行く。


 その言葉が、ずっと胸の中で鳴っていた。


 レース当日。


 大井競馬場には、細い雨が降っていた。


 馬場発表は、ダート稍重。

 ただ、レースが近づくにつれて雨脚は少しずつ強くなっている。


 ハルサメノツキの単勝オッズは、締切三十分前で十三・二倍。


 五番人気。


 一番人気は、前走で二着続きの安定馬、レイナードキング。単勝三・一倍。

 二番人気は、先行力のあるフジノグリット。単勝四・二倍。

 三番人気は、良血馬のアーバンセイル。単勝五・六倍。

 四番人気は、前走上がり最速のセイランオーガ。単勝八・四倍。


 そして、五番人気。


 十一番、ハルサメノツキ。単勝十三・二倍。


 もう、三十六倍ではない。


 誰も見ていなかった馬ではなくなった。


 スタンドの馬券売り場の近くで、知らない客たちの声が耳に入る。


「十一番、前走三着の馬だろ?」


「最後すごい脚だったやつな」


「一八〇〇は合いそうだけど、まだ勝つまではどうかな」


「外枠、雨、距離延長。条件は揃ってるっぽいぞ」


「でも人気しすぎじゃね? 前は三十倍あったんだろ」


「こういうのは追いかけたら飛ぶんだよ」


「いや、俺は複勝だけ買う」


 俺は少し離れた場所で、それを聞いていた。


 評価が変わっている。


 でも、まだ半信半疑。


 それでいい。


 ハルサメノツキは、まだ一度も勝っていないのだから。


 パドックにハルサメノツキが出てきた。


 雨に濡れた鹿毛の馬体が、前走より少しだけふっくら見える。


 まだ小さい。

 まだ完成していない。

 でも、前走より背中が沈んでいない。

 歩きに、ほんの少しだけ力がある。


 黒川先生が隣に立った。


「どう見ます?」


「前走より、いいです」


「どこが?」


「首の位置が低い。周りを気にしているけど、怯えてはいない。あと、後ろ脚の入り方が少し深いです」


「同じ見方です」


 その一言に、少しだけ息が楽になった。


 黒川先生が同じように見ている。

 それだけで、あの不思議な力だけに頼っていない気がした。


「ただし」


 黒川先生は続ける。


「一八〇〇は初めてです。距離が延びて良くなる可能性は高い。でも、最後に止まる可能性もあります」


「はい」


「馬場も味方になるかもしれない。でも、前も止まらないかもしれない」


「はい」


「この仔は、まだ強い馬ではありません」


 分かっている。


 強いから勝つんじゃない。

 勝てる条件に近づいたから、勝負になる。


 それがハルサメノツキだ。


 浅倉騎手が騎乗する。


 ハルサメノツキは少し耳を動かしたが、暴れなかった。

 浅倉騎手が首筋を撫でる。


「今日は、勝ちに行きます」


 浅倉騎手が俺を見て言った。


「でも、焦らせません」


 俺は頷いた。


「お願いします」


「この馬のリズムで行きます」


 その言葉が、一番ありがたかった。


 返し馬。


 ハルサメノツキは、外ラチ沿いをゆったりと走った。


 速くはない。

 派手でもない。

 けれど、前走よりもさらに首が下がっている。


 雨を吸った砂を踏みしめるたびに、鹿毛の馬体が小さく弾む。


 単勝オッズが変わった。


 最終オッズ、十三・六倍。


 五番人気。


 複勝は三・一倍から四・八倍。


 誰かが買っている。

 誰かが信じ始めている。


 でも、まだ主役ではない。


 それでいい。


『まもなく大井第七競走、発走です』


 場内アナウンスが流れた。


 各馬がゲート裏へ向かう。


 レイナードキングは落ち着いている。

 フジノグリットは気合いを前面に出している。

 アーバンセイルは馬体だけなら一番よく見える。


 ハルサメノツキは、外めの八枠十一番。


 ゲート入りは、前走よりもさらにスムーズだった。


『全馬、ゲートに収まりました』


 雨音が遠くなる。


 俺の視界には、八枠十一番だけがあった。


 頼む。


 今日は、お前の走りたい場所に近い。


『スタートしました!』


 ハルサメノツキは、やはり速くはない。


 けれど、置かれてはいない。


 浅倉騎手は押していかない。

 外枠から無理せず、外めの中団後ろを取る。


『先手を取ったのは二番フジノグリット! 外から七番アーバンセイルも前へ! 一番人気レイナードキングは好位の内、四番手あたり!』


 前はそれなりに流れている。


 フジノグリットが逃げる。

 アーバンセイルが二番手。

 レイナードキングは内でじっと脚をためる。


 ハルサメノツキは後方四番手。


 外。


 砂を被らない位置。


 浅倉騎手の手は動いていない。


「いい」


 俺は呟いた。


 前走よりも、さらにいい。

 一六〇〇の時より追走が楽だ。

 ハルサメノツキが自分の呼吸で走れている。


『一周目のスタンド前を通過します。先頭はフジノグリット、二番手アーバンセイル。三番手にカワノバスター、内にレイナードキング。後方外めにハルサメノツキ』


 初めて一周目で名前が呼ばれた。


 隣の客が言う。


「十一番、悪くない位置だな」


「外回してるけどな」


「でも砂被らない方がいい馬なんだろ?」


「お前、詳しいな」


「前走で覚えた」


 前走で覚えた。


 その言葉に、胸が熱くなりそうだった。


 向こう正面。


 雨が少し強くなる。


 フジノグリットが逃げる。

 アーバンセイルがぴったりつける。

 レイナードキングはまだ動かない。


 ハルサメノツキは、外めでじっとしている。


 じっとしているが、下がっていない。


『向こう正面半ば。先頭フジノグリット、リードは一馬身。二番手アーバンセイル。三番手カワノバスター、内にレイナードキング。中団後ろから、十一番ハルサメノツキも外めで追走』


 浅倉騎手の手が、わずかに動いた。


 三コーナー手前。


 ここだ。


「行け」


 まだ叫ばない。


 声を出せば届く距離じゃない。

 それでも、喉の奥で言葉が震えた。


 ハルサメノツキが、外からじわっと動く。


 一気には行かない。

 派手にまくるわけでもない。


 ただ、止まらない。


 一頭分、前へ。

 また一頭分、前へ。


『三コーナーへ! 先頭はフジノグリット! アーバンセイルが並びかける! レイナードキングも内から進出! そして外から十一番ハルサメノツキも上がってくる!』


 スタンドがざわついた。


「十一番来たぞ」


「また外からか」


「これ、あるんじゃないか?」


 黒川先生は無言だった。


 ただ、組んだ腕に少しだけ力が入っているのが分かった。


 四コーナー。


 フジノグリットの脚が少し鈍る。

 アーバンセイルが先頭に立とうとする。

 内からレイナードキングが抜け出しを狙う。


 ハルサメノツキは大外。


 また距離ロスだ。


 でも、砂は被っていない。


 首は下がっている。


 脚は、まだ残っている。


『四コーナーから直線へ! 先頭はアーバンセイルに替わるか! 内からレイナードキング! 外からはハルサメノツキ! ハルサメノツキ、大外から上がってくる!』


 直線。


 雨に濡れたダートが、照明を反射する。


 俺の視界が、あの日見た光景と重なった。


 泥。

 雨。

 大井の直線。

 外から伸びる鹿毛。


 これだ。


 ここだ。


「ハル!」


 気づいた時には叫んでいた。


『残り三百! 先頭アーバンセイル! レイナードキングが内から迫る! 外から十一番ハルサメノツキ! ハルサメノツキも伸びてくる!』


 浅倉騎手が追い出す。


 ハルサメノツキは、反応した。


 速い脚ではない。

 切れる脚でもない。


 でも、止まらない。


 前の二頭が脚色を鈍らせる中、鹿毛の馬体だけがじわじわと近づいていく。


「来るぞ」


「十一番来る!」


「差せるか!?」


 スタンドの声が大きくなる。


『残り二百! アーバンセイル先頭! 内レイナードキング! 大外ハルサメノツキ! 三頭並んでくる!』


 心臓が痛い。


 届くのか。

 届かないのか。


 ハルサメノツキの首が、さらに低くなる。


 泥を跳ね上げる。

 雨を裂く。

 浅倉騎手のステッキが一発入る。


『残り百! レイナードキングか! アーバンセイルか! 外からハルサメノツキ! ハルサメノツキ、ハルサメノツキが来る!』


「行け!」


 俺は叫んだ。


「行け、ハル!」


 残り五十。


 レイナードキングの脚が鈍る。

 アーバンセイルが粘る。

 ハルサメノツキが外から並ぶ。


 並んだ。


 そして。


『ハルサメノツキ! 外からハルサメノツキ! ハルサメノツキ先頭! ハルサメノツキ、今ゴールイン!』


 時間が止まった。


 歓声が、一瞬遅れて耳に届いた。


「十一番だ!」


「ハルサメノツキ勝った!」


「マジかよ!」


「十三倍!? 買ってねえ!」


「複勝だけ持ってる!」


 何も言えなかった。


 目の前で、着順掲示板が点灯する。


 一着、十一番。


 ハルサメノツキ。


 その文字を見た瞬間、胸の奥から何かが込み上げた。


 勝った。


 二十万円の安馬が。

 前走八着で笑われた馬が。

 誰にも見向きされなかった牝馬が。


 勝った。


 黒川先生が、静かに息を吐いた。


「……勝ちましたね」


 その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「はい」


 俺の声は震えていた。


「勝ちました」


 引き上げてくるハルサメノツキは、泥だらけだった。


 雨に濡れ、息を弾ませ、耳を忙しく動かしている。

 それでも、その目はどこか誇らしげに見えた。


 浅倉騎手が馬上で拳を握った。


「馬主さん!」


 俺は駆け寄った。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 ありがとう。

 よくやった。

 すごかった。

 全部違う気がした。


 結局、出てきた言葉は一つだけだった。


「見つけたな」


 ハルサメノツキが鼻を鳴らした。


 まるで、最初から知っていたと言うみたいに。


 周囲では、馬券客たちがまだ騒いでいる。


「十一番、次も買うわ」


「いや次は人気するだろ」


「馬主誰だ?」


「三上? 前走で笑ってたやつか?」


「あれ、見えてたんじゃねえの?」


 その言葉に、俺は一瞬だけ背筋を冷やした。


 見えていた。


 確かに、俺には見えていた。


 でも、それは誰にも言えない。


 俺はただ、ハルサメノツキの濡れた馬体を見つめた。


 駄馬なんじゃない。

 勝てる場所を、まだ誰も教えてやってなかっただけだ。


 今日は、その場所に少しだけ届いた。


 けれど、これで終わりじゃない。


 ハルサメノツキは未勝利を勝っただけ。

 まだ地方の片隅で、一つ勝っただけだ。


 それでも。


 この一勝は、俺たちにとって最初の証明だった。


 黒川先生が隣に立つ。


「三上さん」


「はい」


「おめでとうございます。馬主初勝利です」


 その言葉を聞いた瞬間、ようやく実感が追いついた。


 馬主初勝利。


 俺は、空を見上げた。


 雨の向こうに、薄く月が見えた気がした。


 春雨の月。


 誰にも期待されなかった一頭が、泥の大井で初めて輝いた。

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