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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第五章 待つ馬、走る馬

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第37話 馬房が空いた

放牧先へ出発する朝は、まだ暗いうちに始まった。


空は灰色だった。東の端がほんのわずかに白くなりかけている。それだけだった。馬運車のエンジン音が、厩舎の外に低く響いていた。


ハルサメノツキは、あまり嫌がらなかった。


係員に引かれて馬房から通路へ、通路から外へ。一歩、また一歩、砂を静かに踏みながら積み込み口へ向かう。大きな抵抗はなかった。輸送に慣れた馬ではないのに、まるで自分で決めたみたいに歩いていた。


俺——三上透は、その背中を見ていた。


何か言おうとした。言葉にならなかった。かけたとして、馬には届かない。それは知っている。それでも何か言うべきかと口を開きかけ、結局閉じた。


重賞を勝った馬の背中だった。二十万円でセリ会場から連れてきた、あの小柄な鹿毛の牝馬の背中だった。


「積み込み、完了です。出発します」


係員の声に、車の扉が閉まる。エンジン音が少し高くなり、馬運車がゆっくりと動き出した。


「三上さん」


後ろから黒川先生の声がした。


「はい」

「寒いわよ。入りなさい」

「もう少し」

「もう見えないわよ、馬は」


分かっている。それでも、俺は車が曲がった角をもう少しだけ見ていた。


厩舎に戻ると、ハルサメノツキの馬房はすでに整えられていた。藁が取り換えられ、水桶も洗われている。ついさっきまで、そこに馬がいた。飼い葉を食べ、鼻を鳴らし、こちらを静かに見ていた。なのに今は、何もない。


馬房というのは、馬がいなくなると急に広く見えるのだと、俺は初めて知った。


「ハルサメは休みに行ったんだよ」


自分でも何に言ったのか分からなかったが、隣の馬房から荒い鼻息が返ってきた。


サビツキノエンジンだった。壁越しに鼻先を動かして、また鳴らす。隣の気配がなくなったことへの反応なのか、単に朝ご飯が遅いことへの抗議なのか、よく分からなかった。


厩務員の梅田が、苦笑しながら飼い葉を運んでくる。


「今日は少し静かですよ、エンジン」

「珍しいですね」

「隣がいなくなったの、気づくんですかね、馬も」


サビツキノエンジンは俺を一瞥して、それから壁の方へ首を向け、また鼻を鳴らした。挨拶なのか文句なのか、やっぱり分からなかった。


ハルサメノツキは、静かに雨を降らせる馬だった。サビツキノエンジンは、先頭で火を噴く馬だ。この二頭の違いを、俺は見間違えてはいけない。


黒川先生が事務所の扉を開けた。


「入って。話がある」


コーヒーが二つ、机に置かれていた。苦い匂いがした。


「番組の話をしましょう」


先生が広げた資料には、近々開催される大井のレース一覧があった。


「次走ですか。荒尾騎手は、エンジンも間隔を見た方がいいって言ってましたけど」

「すぐ使うわけじゃない。でも、どこを目指すかは早めに決めないと、馬の管理も変わってくる。ゆっくり仕上げるのか、早めに動かすのかで、調教の組み方が違うから」

「なるほど」

「あの馬は逃げが成立した今が大事な時期よ。前走で取り戻した感覚がある。それが薄れないうちに、次のレースの絵を描いておきたい」


俺は資料を見た。大井、ダート千四百。前走でエンジンが逃げ切った距離と同じだった。


「条件は同じですね。荒尾騎手も継続で」

「そこが問題なの」


先生は資料の端を指で叩いた。備考欄に短い文字が書かれている。


『荒尾迅、当該日他馬騎乗依頼につき不参加』


「……荒尾騎手が乗れない」

「ええ。騎手も複数の厩舎と契約してるから、日程が重なることはある。どちらが悪いわけでもない。でも、困ったことに変わりない」

「日程をずらして、荒尾騎手が乗れる番組を待てばいいんじゃないですか」

「待てるならそれがいい。でも、間隔が空くと逃げ馬は気分が変わりやすい。レースに連れていくまでの維持費もかかり続ける。一か月、状態をキープするのも、言葉で言うほど簡単じゃないわ」

「じゃあ、代わりの騎手を立てる?」

「そっちはそっちでリスクがある」


黒川先生は腕を組んだ。


「エンジンはハナを切れると気づいたから走った。荒尾騎手が腹を括って先頭を取りに行ったから、あの馬の本来の形が出た。慣れてない騎手が乗れば、また内で砂をかぶって嫌がる可能性がある。前走で取り戻したものが、また崩れるかもしれない」

「騎手って、そんなに変わるものですか」

「逃げ馬は特にね。行く気を出してくれる騎手じゃないと、ハナを切れない。先頭に立てない馬は、レースの形そのものがなくなる」


俺は資料の空欄を見た。騎手の欄が、まだ白いままだった。


荒尾騎手がエンジンに合うと分かったのも、結果が出てからだ。あの逃げ方、あの腹の括り方、あの手綱の残し方。映像を何度見返しても、ただ先頭に行っただけじゃないことは分かる。でも、それを別の騎手が再現できるかどうか。俺の目は、そこまで都合よく答えをくれない。


「先生は、どちらがいいと思いますか」

「馬だけ見るなら、荒尾騎手を待つ方が安全。でも経営も含めて考えると、正解は一つじゃない。だから聞いてるの、あなたに」


どちらを選んでも、何かを捨てる。荒尾騎手を待てば、騎手との相性は守れるかもしれない。でも、番組と馬の気持ちを逃すかもしれない。番組を取れば、前走の流れをつなげられるかもしれない。でも、騎手との噛み合わせを失うかもしれない。


「少し、考えさせてください」

「もちろん。ただ、今週中には方向を出して。厩舎の予定にも関わってくるから」


俺は頷いて、窓の外を見た。サビツキノエンジンが、また鼻先を柵に押しつけている。隣が空になっても、こいつは元気だ。


ハルサメノツキは、休ませる勇気が必要な馬だった。サビツキノエンジンは、走らせる形を間違えない勇気が必要な馬だ。どちらも、簡単ではない。


ふと、机の端に目が止まった。


昨夜、黒川先生から見せてもらった封筒が、そのままになっている。繁殖馬セールの案内だった。預託繁殖という選択肢があること、種付け料から育成費まで何がかかるか、先生に一通り説明してもらった。


「まだ気になってる?」


黒川先生が、資料から目を上げずに言った。


「少し」

「少し、ね」

「昨日より、少し現実的に見えてます」

「馬房が空いたからでしょ」


俺は先生を見た。


「空いた場所を、次で埋めたくなるのは普通よ。でも今日じゃない。エンジンの番組を決めてから、改めて考えなさい」

「はい」


封筒は、まだ閉じたままだ。今日は、まだいい。今日は、ハルサメノツキが出ていった朝だ。空いた馬房を、別の夢で埋めるには早すぎる。


黒川先生からコーヒーを受け取った。冷めかけていた。一口飲む。苦みが舌に残る。


「開けないの」と先生が聞いた。言葉ではなく、確認するような声だった。


「今日は、やめておきます」

「珍しく慎重ね」

「馬房が空いた日に、次の馬のことばかり考えるのは違う気がして」


黒川先生は、少しだけ表情を緩めた。


「いい判断ね」

「褒められました?」

「半分くらい」

「半分ですか」

「残り半分は、エンジンの番組を決めてから」


先生は資料を指で叩いた。大井千四百。荒尾迅、不参加。空白の騎手欄。


ハルサメノツキの馬房は空いた。けれど、厩舎の時間は止まらない。静かな馬を見送った朝に、今度は逃げ馬の鞍上を誰にするか、荒尾迅本人に聞かなければならない。


スマホを取り出して、連絡先を開いた。


荒尾迅


この番組に乗れないことを、本人はまだ俺に直接言っていない。

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