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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第三章 良血の馬主

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第23話 最後の一完歩

 ゴール板が、迫る。


 ロードグランシャリオの栗毛の馬体。

 ハルサメノツキの濡れた鹿毛。


 一馬身。

 半馬身。

 クビ差――には、まだ遠い。


 それでも、ハルサメノツキは止まらなかった。


『ロードグランシャリオ先頭! 外からハルサメノツキ! ハルサメノツキ迫る! ロードグランシャリオ! ハルサメノツキ!』


「ハル!」


 喉が裂けそうだった。


 浅倉騎手の腕が動く。

 ハルサメノツキの首が、さらに低くなる。


 泥を蹴る。

 雨を裂く。


 前にいるのは、強い馬だ。


 良血。

 好馬体。

 鳳条怜央が自信を持って送り出した馬。


 それでも、ハルサメノツキは追った。


 追って、追って、追って。


『ロードグランシャリオ! ロードグランシャリオ、今ゴールイン! 二着は外、ハルサメノツキ!』


 届かなかった。


 ゴール板を過ぎた瞬間、俺は息をするのを忘れていた。


 勝ったのは、ロードグランシャリオ。


 ハルサメノツキは二着。


 差は、半馬身。


 掲示板に着順が点灯する。


 一着、五番。

 二着、十番。


 ロードグランシャリオ。

 ハルサメノツキ。


 その二頭の名前の間にある半馬身が、やけに遠く見えた。


「……負けた」


 声が漏れた。


 悔しい。


 思った以上に悔しい。


 条件は合っていた。

 外枠だった。

 馬場も悪くなかった。

 浅倉騎手も、早めに動いてくれた。


 ハルサメノツキも、最後まで止まらなかった。


 それでも、届かなかった。


 強い馬は、強かった。


 スタンドの声が耳に入る。


「ロード強え!」


「ハルサメも来てたぞ!」


「半馬身かよ、惜しい!」


「十番、あそこまで迫るのか」


「二十万の馬だろ? マジか」


「いや、もう普通に強いだろあれ」


 普通に強い。


 その言葉が、胸の奥に刺さった。


 嬉しいはずなのに、悔しさの方が勝った。


 黒川先生が隣で静かに息を吐く。


「届きませんでしたね」


「はい」


「でも、いいレースでした」


「……勝てませんでした」


「ええ」


 黒川先生は、ハルサメノツキが戻ってくる方を見つめた。


「それでも、今日の二着には価値があります」


 引き上げてくるハルサメノツキは、泥だらけだった。


 前走で負けた時とは違う。

 初勝利の時とも違う。


 全力で走り切った馬の顔だった。


 息は荒い。

 首も下がっている。

 それでも、目は死んでいない。


 浅倉騎手が馬上で悔しそうに唇を噛んでいた。


「すみません」


 下馬した浅倉騎手が、開口一番にそう言った。


「もう少し早く動いていれば」


 黒川先生が首を横に振る。


「早く動きすぎたら、最後に甘くなっていました」


「でも、半馬身です」


「半馬身だからこそです。あれ以上早ければ、逆にもっと離されていたかもしれない」


 浅倉騎手は何も言えなくなった。


 俺も同じだった。


 半馬身。


 近いようで遠い。


 結果だけ見れば、二着。

 負けは負け。


 でも、三着以下は離していた。


 ハルサメノツキとロードグランシャリオだけが、最後の直線で他の馬たちから抜け出していた。


 もう、ただの条件限定の穴馬ではない。


 そう思いたい。


 けれど勝てなかった。


 その事実が、胸に重く残る。


 ハルサメノツキが近くまで戻ってきた。


 俺は、濡れた鹿毛の首元にそっと手を伸ばす。


 今日は避けられなかった。


 ハルサメノツキは、疲れたように鼻を鳴らしただけだった。


「よく走った」


 その言葉を口にした瞬間、喉が詰まった。


「でも、悔しいな」


 ハルサメノツキは返事をしない。


 ただ、泥に濡れた耳を少しだけ動かした。


 背後から、足音が近づいてきた。


 振り向くと、鳳条怜央がいた。


 いつもの整った表情ではない。

 少しだけ、息を吐いたような顔をしている。


「いいレースでした」


 鳳条は言った。


「ロードグランシャリオ、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 俺は頭を下げた。


 悔しい。


 でも、勝った相手にそれを言わないのは違う。


 ロードグランシャリオは強かった。

 鳳条の馬は、正面から勝った。


 それは認めなければいけない。


 鳳条は、ハルサメノツキを見た。


「ハルサメノツキは、強いですね」


 その言葉に、俺は一瞬、顔を上げた。


「……強い、ですか」


「ええ」


 鳳条は迷わず頷いた。


「面白い馬、ではなく。今日は、強い馬でした」


 胸の奥が熱くなった。


 でも、すぐに悔しさが戻ってくる。


「でも、負けました」


「はい。ロードグランシャリオが勝ちました」


 鳳条は淡々と言った。


「ですが、条件が合った時のハルサメノツキは、こちらが警戒すべき馬だと分かりました」


 警戒すべき馬。


 あのセリ会場で誰にも見向きされなかった馬が。

 二十万円でも笑われた牝馬が。

 前走八着で駄馬扱いされた馬が。


 良血馬の馬主に、警戒すべき馬と言われた。


「三上さん」


「はい」


「私は少し、考えを改めます」


「考え?」


「強い馬と面白い馬は違う。そう言いました」


「はい」


「ですが、面白い馬が、強い馬になる瞬間もあるのかもしれません」


 鳳条は小さく笑った。


「今日のハルサメノツキは、それを少し見せた」


 俺は返事ができなかった。


 勝っていない。


 届かなかった。


 それでも、何かは届いたのかもしれない。


 鳳条にも。

 スタンドの客にも。

 そして、俺自身にも。


 ハルサメノツキは、もう安馬だから勝てた馬ではない。


 条件が合えば、強い馬に迫れる。


 ただし、迫るだけでは勝てない。


 その差を、今日思い知らされた。


「次は、もっと差を詰めます」


 気づけば、俺はそう言っていた。


 鳳条の目が細くなる。


「次?」


「はい」


「また、ロードグランシャリオと?」


「機会があれば」


 鳳条は少しだけ楽しそうに笑った。


「では、その時までにこちらも強くしておきます」


 当たり前のように言われて、俺は苦笑した。


 そうだ。


 相手だって止まっているわけじゃない。


 ハルサメノツキが成長するなら、ロードグランシャリオも成長する。


 今日の半馬身が、次に縮まる保証なんてない。


 むしろ広がるかもしれない。


 それでも、追いたいと思った。


 黒川先生が、ハルサメノツキの馬体を見ながら言う。


「三上さん」


「はい」


「今日のレースで、分かったことがあります」


「はい」


「この仔は、今のクラスでも戦えます。ただし、勝つにはもう一段階必要です」


「もう一段階」


「馬体も、走りも、レース運びも。今のままでは、強い馬に半馬身届かない」


 その言葉は厳しかった。


 でも、優しい言葉よりずっとありがたかった。


「どうすればいいですか」


「まずは状態を見ます。今日もかなり走りました。無理はさせません」


「はい」


「そのうえで、次の目標を考えます」


 黒川先生は少し間を置いた。


「この仔には、上の舞台を見せてもいいかもしれません」


 俺は息を止めた。


「上の舞台……」


「まだ決定ではありません」


 黒川先生は釘を刺すように言った。


「ただ、今日の二着で分かりました。この仔は条件が合えば、一組でも通用する。なら、いずれ準重賞や重賞を考える段階が来ます」


 重賞。


 その言葉だけで、胸が鳴った。


 けれど、すぐに自分を抑える。


 浮かれるな。


 ハルサメノツキは今日、全力で走ったばかりだ。

 まず休ませる。

 馬体を戻す。

 状態を見る。


 勝った時も、負けた時も、焦ってはいけない。


「まずは、休ませます」


 俺が言うと、黒川先生は少しだけ満足そうに頷いた。


「それでいいです」


 その時、近くの馬券客たちの声が聞こえた。


「ハルサメ、次重賞出ても面白いんじゃね?」


「さすがに早いだろ」


「でも今日の脚見たら買いたくなるわ」


「ロードが強すぎただけで、普通なら勝ってたぞ」


「次、雨なら絶対買う」


「いや人気するぞ、もう」


 評価が変わっていく音がした。


 勝っていないのに。


 二着なのに。


 ハルサメノツキの名前が、また少し広がっていく。


 俺はハルの馬体を見た。


 泥だらけで、疲れていて、小柄で、まだ完成していない牝馬。


 それでも今日、良血馬の背中に半馬身まで迫った。


 半馬身。


 遠い。


 けれど、見える距離だ。


 カザマノリュウセイの時は、勝てる場所にすら連れていけなかった。


 でも、ハルサメノツキは今、強い馬の背中を見ている。


 俺は小さく息を吐いた。


「次は、届かせる」


 誰にも聞こえないくらいの声だった。


 けれど、ハルサメノツキの耳が少しだけ動いた。


 聞こえたのかもしれない。


 聞こえていないのかもしれない。


 それでも、俺はもう一度言った。


「次は、届かせる」


 その日の帰り際。


 黒川先生が一枚の資料を渡してきた。


「まだ見るだけです」


「これは?」


「南関の三歳牝馬路線の予定です」


 紙の上には、いくつかのレース名と距離、時期が並んでいた。


 その中の一つに、俺の目が止まる。


 大井。

 ダート一八〇〇メートル。

 三歳牝馬限定の重賞。


 ハルサメノツキに、合いそうな舞台だった。


 心臓が、ゆっくりと鳴った。


「先生」


「まだ見るだけです」


 黒川先生は先に釘を刺した。


「状態次第。相手次第。無理はしません」


「はい」


 それでも、目が離せなかった。


 重賞。


 誰にも見向きされなかった二十万円の安馬が、そこへ向かうかもしれない。


 俺は資料を握りしめた。


 今日、半馬身届かなかった。


 でも、その半馬身が、次の夢の距離になった。

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