第12話 勝った馬を休ませる
馬主初勝利。
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
レース翌日の朝、俺はスマホの画面を何度も見返していた。
一着、十一番。
ハルサメノツキ。
何度見ても、そこに名前がある。
昨日の雨の大井。
外から伸びた鹿毛の馬体。
ゴール板を過ぎた瞬間の歓声。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
俺の馬が勝った。
二十万円で笑われた安馬が。
前走八着で駄馬扱いされた馬が。
誰にも見向きされなかった牝馬が。
勝った。
「……次、どこだ」
気づけば、俺は番組表を開いていた。
大井の次開催。
川崎。
船橋。
浦和。
地方競馬の番組表を眺めながら、条件を探す。
ダート一六〇〇。
一七〇〇。
一八〇〇。
できれば右回り。
できれば外枠。
できれば稍重以上。
勝ったばかりなのに、もう次を考えている。
いや、違う。
勝ったからこそ、次を考えてしまう。
ハルサメノツキは、まだ強い馬じゃない。
それは分かっている。
でも、条件が合えば走れる。
それは昨日、証明した。
なら、もう一度。
もう一度、あの走りを見たい。
スマホが震えた。
黒川先生からだった。
『今日、厩舎に来られますか?』
俺は即座に返信した。
『行きます』
昼前、黒川厩舎に着くと、ハルサメノツキは馬房の中で静かに立っていた。
昨日の泥は綺麗に落とされている。
けれど、どこか疲れているようにも見えた。
「ハル」
声をかけると、耳だけがこちらを向いた。
いつもなら鼻を鳴らすか、顔を背けるかする。
今日は、それすら少ない。
俺の胸が少しざわついた。
「三上さん」
背後から黒川先生の声がした。
「昨日のレース映像、何回見ました?」
「……十回くらいです」
「少ないですね」
「実際は二十回くらいです」
「でしょうね」
黒川先生は呆れたように息を吐いた。
「それで、番組表も見ましたね?」
「見ました」
「次走候補も探しましたね?」
「……はい」
「馬主らしくなってきました」
「褒めてますか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「危ないです」
黒川先生は、馬房の中のハルサメノツキを見た。
「昨日の馬体重、覚えていますか?」
「前走からマイナス六キロです」
「ええ。輸送と雨のレースで、思った以上に消耗しています。飼葉は食べていますが、いつもの勢いはありません」
俺はハルサメノツキを見る。
勝った馬の顔。
誇らしげに見えていた。
でも今は、ただ疲れた小柄な牝馬に見える。
「脚元は?」
「大きな問題はありません。ただ、全体に張りがあります。背腰にも少し疲れが出ています」
「……次走は」
「白紙です」
即答だった。
俺は言葉に詰まった。
分かっていたはずだった。
勝ったからといって、すぐ次に行けるわけじゃない。
ハルサメノツキはまだ完成していない。
馬体も薄い。
強い馬ではない。
分かっていたはずなのに、胸のどこかで期待していた。
勝った勢いのまま、もう一つ。
そう思っていた。
「休ませます」
黒川先生は言った。
「軽めの運動に落として、馬体を戻します。次の番組に無理に合わせることはしません」
「どのくらいですか?」
「状態次第です。二週間かもしれない。一か月かもしれない」
「一か月……」
思わず声が漏れた。
黒川先生の視線が鋭くなる。
「長いですか?」
「いえ」
「本当に?」
俺は答えられなかった。
長い。
正直、そう思ってしまった。
昨日勝ったばかりだ。
掲示板でも名前が出ている。
現地の客も、次は買うと言っていた。
ここで間を空ければ、熱が冷めるかもしれない。
忘れられるかもしれない。
でも。
ハルサメノツキが、馬房の中で小さく息を吐いた。
その音で、俺はようやく自分の考えがどれだけ勝手だったかに気づいた。
忘れられる?
誰に?
馬券客にか。
掲示板にか。
競馬場の客にか。
そんなことより先に、目の前の馬を見るべきだ。
「すみません」
俺は言った。
「焦ってました」
「でしょうね」
「勝ったから、次も行けるんじゃないかって」
「よくあることです」
「でも、ハルはまだ無理ですね」
「ええ」
黒川先生は少しだけ表情を緩めた。
「勝った馬を休ませるのは、負けた馬を立て直すより難しいことがあります」
「どうしてですか?」
「人間が浮かれるからです」
痛い言葉だった。
「勝った。評価された。次も見たい。もっと上へ行きたい。そう思うのは自然です。でも、馬の身体は人間の都合では回復しません」
「はい」
「この仔は、勝ったから強くなったわけじゃありません。条件が合って、力を出せた。まずはその反動を見ないといけない」
勝ったから強くなったわけじゃない。
その言葉が胸に沈んだ。
ハルサメノツキは、勝てる場所を見つけた。
でも、まだ勝ち続けられる馬になったわけではない。
「次に使うなら、同じ条件ですか?」
俺が聞くと、黒川先生は少し考えた。
「理想は大井一八〇〇から二〇〇〇。外めで運べること。砂を被らないこと。ただし、馬場や相手だけではなく、この仔の状態が最優先です」
「状態が整わないなら?」
「使いません」
迷いのない答えだった。
「たとえ良い番組があっても?」
「使いません」
「外枠を引けそうでも?」
「枠は出走しなければ分かりません」
「あ、そうでした」
「浮かれていますね」
「はい」
否定できなかった。
その時、厩舎の外から声が聞こえた。
「先生、昨日の十一番ですよね?」
見知らぬ男が厩舎の入り口の方から声をかけていた。
競馬場で見たことがあるような、馬券客らしい雰囲気の男だ。
黒川先生の表情が一瞬で仕事の顔になる。
「関係者以外は入れません」
「あ、すみません。ただ、昨日馬券取らせてもらって。次も買いますって伝えたくて」
「ありがとうございます。ただ、馬に近づかないでください」
「はいはい。いやあ、最後すごかったですよ。次も一八〇〇なら買いますんで!」
男はそう言って、慌てて去っていった。
黒川先生はため息をついた。
「こういうことが増えます」
「……注目されたから」
「ええ。良いことでもあります。でも、馬には関係ありません」
馬には関係ない。
その通りだった。
馬券客が買う。
掲示板で騒ぐ。
次も期待される。
それは人間の都合だ。
ハルサメノツキは、昨日初めて勝った。
そして今、疲れている。
それが全てだ。
「先生」
「はい」
「休ませましょう」
俺は言った。
黒川先生は少しだけ目を細めた。
「いいんですか?」
「本当は、次を見たいです」
「でしょうね」
「でも、この馬の勝てる場所を探すって言ったのは俺です。勝てる場所に連れていく前に、馬を壊したら意味がない」
ハルサメノツキが、馬房の中からこちらを見た。
何を考えているのかは分からない。
でも、その目を見ていると、嘘はつけなかった。
「ハルは休ませます」
俺は続けた。
「それで、次にちゃんと走れる時を待ちます」
黒川先生は、ほんの少しだけ笑った。
「馬主として、一つ覚えましたね」
「勝った馬を走らせない決断も、馬主の仕事なんですね」
「ええ」
その言葉は、思っていたより重かった。
勝つことだけが仕事じゃない。
出すことだけが仕事じゃない。
買うことだけが仕事じゃない。
待つことも、馬主の仕事だ。
俺は馬房の前に立ち、ハルサメノツキに向かって小さく言った。
「悪かったな。俺だけ浮かれてた」
ハルサメノツキは鼻を鳴らした。
許したのか、呆れたのか。
たぶん後者だ。
黒川先生が言う。
「この仔はしばらく軽めにします。その間、三上さんには別の仕事があります」
「別の仕事?」
「馬主としての勉強です」
「勉強、ですか」
「ええ。勝った馬の次走を探すだけが馬主の仕事ではありません。馬を見る目があると言うなら、他の馬も見てください」
その言い方に、少し引っかかった。
「他の馬?」
「昨日の勝利で、あなたに興味を持った人がいます」
「俺に?」
「正確には、あなたの馬の使い方に、です」
黒川先生は事務所の机から一枚の資料を持ってきた。
そこには、一頭の馬の成績が載っていた。
中央で六戦未勝利。
芝一二〇〇、一四〇〇で凡走。
前に行けるが、直線で止まる。
気性難。
抹消予定。
馬名。
サビツキノエンジン。
「……すごい名前ですね」
「名前の感想はあとでいいです」
黒川先生は淡々と言った。
「中央で見切られかけている馬です。地方に移すか、手放すかで迷っているそうです」
「なぜ俺に?」
「ハルサメノツキを見た牧場関係者が、三上さんなら面白がるかもしれないと」
「面白がるって」
「実際、面白がっていますよね?」
俺は資料から目を離せなかった。
戦績だけ見れば、厳しい。
六戦して掲示板なし。
芝短距離で先行して、直線で失速。
気性面にも難あり。
終わった馬。
そう言われてもおかしくない。
でも、写真を見た瞬間。
頭の奥が、わずかに熱を持った。
黒鹿毛の牡馬。
首が太い。
目が鋭い。
抑え込まれることに苛立っているような立ち姿。
そして、一瞬だけ見えた。
乾いた地方のダート。
短い直線。
先頭。
後ろを振り切る黒い馬体。
《相馬眼 Lv.1》
《適性:地方ダート・短〜中距離》
《脚質:逃げ》
《条件:揉まれない単騎先行》
《注意:抑える競馬では能力低下》
俺は、思わず資料を握りしめた。
黒川先生が目を細める。
「三上さん」
「はい」
「また、見えましたか?」
心臓が跳ねた。
俺はすぐに首を横に振る。
「いえ」
「本当に?」
「……そう感じただけです」
「便利な言葉ですね」
黒川先生は呆れたように言った。
でも、その声には少しだけ笑いが混じっていた。
「ハルサメノツキは休ませます」
「はい」
「その間に、この馬を見に行きますか?」
俺は資料の馬名をもう一度見た。
サビツキノエンジン。
錆びついたエンジン。
でも、もし。
錆びているのではなく、回し方を間違えられているだけなら。
俺は顔を上げた。
「行きます」
黒川先生は、予想していたように頷いた。
「でしょうね」
ハルサメノツキが馬房の中で、また鼻を鳴らした。
まるで、浮気者とでも言うように。
「違うぞ、ハル」
俺は慌てて言った。
「お前は休むだけだ。ちゃんと次も考えてる」
ハルサメノツキは、こちらに背を向けた。
黒川先生が小さく笑う。
「馬は正直ですね」
「……怒ってますかね」
「さあ。でも、馬主が忙しくなるのは良いことです」
勝った馬を休ませる。
その決断をした日に、俺は次の“勝てる場所を知らない馬”の資料を手にした。
ハルサメノツキとは、まるで違う馬。
雨を待つ外差しの牝馬ではない。
先頭でしか息ができない、錆びたエンジン。
俺は資料を閉じた。
また一頭、間違った場所で走らされている馬がいるのかもしれない。
ここまでよんでいただきありがとうございます。
ぜひ評価いただけると嬉しいです。 蹄、舐めます




