一章
一章
その二人の姉妹は、別々の場所で育てられた。
一人は雨の街。もう一人は雪の街だった。
特徴的な名付けも、それに起因していた。
仏瀬雨音と、仏瀬ユキナ。
母親は、二人を産むとすぐにこの世を去った。
二人は一年生まれ年が違い、先に生まれた雨音は、雨の多い東京で、ユキナは、長野の松本で育てられた。父親の親戚が、手分けして雨音とユキナを引き受けたという方が、正確かもしれない。二人は、お互いの存在をほとんど知らないまま、離れた場所で生活していた。会うことはなく、父親のことも母親のこともほとんど知らされなかった。
**ユキナ**
松本の空は青く、山肌は濃く深いグレーで、それをずっと目にしながら、ユキナは少女時代を送っていた。
小さい頃から本をよく読み、少し背伸びして読んでいる難しめの本の厚さを見せつけることで、ユキナは人を遠ざけてきた。
美しかった。背が高く、髪が長く、色白で、細かった。
顔色を窺われることは、少なからずあったから、自分の顔の造形は意識せざるを得なかった。
何かしらのポーズ、何かしらの仮面として、ユキナは無表情と、本の背表紙で武装していた。
そばを食べることが好きだった。
無感動というのは感動の装いでしかない。ユキナは「さあ」とか「どうでもいい」とかを連発するような、ステレオタイプな冷血ではなかった。人間の機微は重々承知。人の心に触れるのが、嫌だとか、面倒だとか、そういう理由で冷淡なのではない。理解することはできても、表現することができなかったのだ。
ユキナはいつも、小説を読んで、活発な女の子が見せる自己表現の方法に、感嘆し諦めを覚えていた。感情はいつもいっぱいなのに、うまく言えない。好きな男の子だっていた。でも、うまく話せないのだ。本当は一緒にそばを食べに行きたいのに、土曜放課後のお昼を誘うこともできない。
好きでもなんでもない男から馴れ馴れしくされたり、その男子を好きな女子から疎外されたりする。だから、冷淡という仮面を被るしか、方法がなかった。
そして気づいたら、それが自分のアイデンティティになっていた。
冷血とまであだ名されて。
「仏瀬? 珍しい名前だ」
そうユキナに声をかけたのは、東京からの転校生だった。
「一人知っている」
「知っている?」
「似てないな。雨音は、柔和で老練だったから」
「あまね」
「全然似てない」
「会ったことないから」
それで話を切り上げて、ユキナは教室から出た。
「美人だろ?」
東京からの転校生に、クラスメイトが言った。「本ばっか読んでる」
「たぶん読んでないぜ」
「どういうこと?」
「目を伏せたいだけだよ。世界が見たくないんだ」
転校生は瑞江といった。瑞江は勉強ができたし、スポーツも上等だった。すぐにクラスの上級構成員になり、特権を持って、時折ユキナに声をかけては、ダメ出しをした。
ユキナは、自分の心が、瑞江の言動によって強張るのを感じた。
その反発心が、ユキナに笑顔の仮面を身につけさせた。気にしていない、あなたの言っていることは無駄だ、と伝えるように、虚勢を張るように誘導されたとも言える。
その笑顔を見て、瑞江はまた侮蔑を加えた。
でも、ユキナは笑った。
その構図が、実に様になっていた。
ユキナの笑顔は、まもなく板について、いろんな人に向けられるようになった。
その相手の反応は様々だった。笑顔は一つの型になり、例えばピッチャーがストレートの外に変化球を持っているように、コミュニケーションの幅になった。
瑞江は、気が向いた時にユキナのところに来ては、さりげなく話をして、去っていった。ユキナは、それが瑞江の親切だとは思わなかった。
「私の何が嫌い?」
「頭の悪いところ」
そういう侮蔑を受けた後でも、ユキナは笑顔を見せるほかなかった。
ユキナは、松本駅の本屋で、瑞江が制服で恋人といるのを見かけて、とてもショックを受けた。瑞江が、苦もなくモードチェンジする目の当たりにして、本当に、どうでもいいというのはどういうことかを、読書からではなく身にしみて、痛感させられたからだった。
瑞江は十中八九、その恋人のことをどうでもいいと思っている。ユキナのことを好きでいる。
そういう筋書きに、下卑た笑いが込み上げてくる。ユキナは呼吸を忘れるほどだった。
意趣返しなんてする必要はなかった。ただ「一緒にそばでも食べにいかない?」と聞くだけで良かった。思ったとおり、瑞江は動揺した。
瑞江は、一度はそれを断った。それで良かった。その時の瑞江の表情を、ユキナは鏡の前で再現しようとして、できず、ひたすら笑い転げた。中也の恋人が、転がり込んできた時の、小林秀雄の表情だ。瑞江は、しばらくユキナの周りに近づかなかった。
**雨音**
東京の新宿で育った雨音は、小さい頃は、少し太っていて、勉強はほどほどの、普通の女の子だった。
マンガが好きで、キャラクターに感情移入することで、いろんな話し方を知った。
中学に上がると、陸上部に入ったことで体重が落ちて、シュッとした可愛い女の子になった。
部活で培ったコミュニケーション能力は、年月を経るごとに磨かれて、男女とも分け隔てなく話すようになった。
中学の時の塾に瑞江がいたが、雨音は瑞江のことを、はっきりそれとわかっているわけではなかった。多くの男の子と話していたし、同じだけ女子の友達もいた。
友達の輪は広く、雨音を豊かにした。いろんな表情を覚え、表現の幅を広げた。
でも、心だけは、彼女に最後まで備わらなかった。
新宿の都立高校に推薦で滑り込み、そこでも陸上を続けた。部活ではムードメーカーで、冗談も上手かった。短髪にしていたから、周囲は気づかなかったが、姉妹のユキナに劣らず、雨音も美人だった。焼けていて、化粧もしないから、誰も彼女から色気を感じなかった。それは本人もそうだった。自分が美人であることなど、培ったコミュニケーション能力からすると、大したことではなかったから。
告白されることはあった。先輩から、いつもさりげなく言われ、それに応じることが二回。別れを切り出すのは、いつもその相手だった。
何か変だと思ったのだろう。手応えがない。
それはそうだ。心がないのだから。
表現のヴァリエーションはバーのリキュールくらい揃えてある。でも、そのバックグラウンドは皆無だ。
花火に行っても、スカイツリーに登っても、見たことのないほど眩しい笑顔を見せる。
「俺のどこが好き?」
「そういうとこ」
「そういうとこって?」
「だーかーらー、そういうとこですよ、先輩」
「そういうとこってなんだよ」
「不安がっちゃって」
「おまっ」
「女に、聞かなきゃわかんないんですかー?」
「お前なあ」
雨音には、幾つもの罵倒と嘲笑が裏で走っていた。決して表に出ることのない、他者への嘲り。見えることなどない。なぜなら、雨音自身もそれに気づいていなかったから。
そんな洗練されたコミュニケーションに、先輩たちは不安になるのだ。
別れを切り出されて、悲しそうな顔をするのが、逆に気味が悪い。自然なのが逆に不自然で、一週間後、何の禍根もなくその先輩と話せる。その柔軟さは彼女に対する評価でもあり、違和感でもあった。
多くの人が彼女を囲む。宗教的でさえあった。でも、彼女は本当にどうでもよかった。自分がどうでもいいと思っていることすら、わからず、どうでもいいことだったから。
人に対して優しくしたり、親切にしたりするのは、その人がどうでもいいからだ。
単に人の好意的な反応を期待するから、雨音は笑顔を見せ、親切にする。それ以上のことは介在しない。
それは、単なる政治的な根回しでしかない。意識しているかそうでないかに関わらず、常に生存のための最適解を得る。そのための「能力」が備わっている。
「んー?」
「んー? じゃねえよ」
「大学はどうですか? 先輩」
「こんな時間に電話してきて、俺のこと好きなのか?」
「さあー、わからないですね。でも、電話は楽しいじゃないですか。目的って要ります?」
「好意の安売りはよせよ」
「喜んじゃってー」
雨音は、ネットの記事で、恋愛の押し引きみたいなものを通覧する中で、そういうものを男がテンプレートとして持っているということに気づいていた。
例えば「何にもないのに連絡をしてくるということは、気がある」式の恋愛の約束事を、相手が頭に入れてやり取りをしていることが、はっきりとわかっていた。そしてそれを利用していた。
詐欺だ。相手が不安がっているところを、安心させてあげるのが、彼女のやり口なのだ。
そして彼女は正直だ。言葉の上で嘘をつくことは一切ない。悪口雑言は、頭に浮かびもしない。それはどこか、マンガやアニメのヒロインのような、特別な立ち位置の人間の振る舞いだった。




