最終話
「……ん……」
優しく髪を梳かれる感覚でマリアは深い眠りから目を覚ました。
頬に触れるベルンハルトの逞しい胸板から伝わる体温につい再びうとうとしかけ、眠気を振り払うように何度か瞬きをする。
すると髪を梳く手が止まり、代わりに頭上から囁くような声が降ってきた。
「すまない。起こしてしまったか?」
どこか不安を含んだ声にマリアはくふりと喉の奥で小さく笑って視線を上げる。
ぱちとこちらを見つめるベルンハルトと目が合って、マリアは柔らかく微笑んだ。
「いいえ。自然に目が覚めただけです」
「それなら良いが、まだ早いからもう少し休んでいても構わない」
「ならもう少しこうしてくっついていても良いかしら」
「あぁ、もちろん」
触れ合う素肌の心地良さと、寝室に揺蕩うゆったりと流れる時間がマリアは大好きだった。
少し体温の高いベルンハルトの腕の中は今ではマリアがどこよりも安心できる場所である。
「今日はバルタザールのところの夜会か……行きたくないな」
「あら、ダメよ。せっかくお兄様がご招待下さったのに」
「マリアがアレをお兄様と呼ぶのが気に食わない。実兄でもない癖にバルタザールめ、生意気な……」
「もう、そんなこと言わないで」
「嫌だ。行きたくもない夜会でマリアがアイツに当然のように妹扱いされているのを見ると泣きそうになる。俺のマリアなのに」
「夜会の後でベルンハルト様をうんと甘やかして差し上げますから、どうかご辛抱なさって」
「嫌だ。今甘やかしてくれ」
「今も、でしょう。仕方のない人」
「ダメだろうか」
「いいえ。そんなところも大好きよ」
ベッドに寝転んだまま、マリアは精一杯腕を伸ばしてベルンハルトの頭を胸に抱きしめ、指先で彼の黒髪を撫でて合間に額やこめかみに音を立てて軽いキスを落としていく。
マリアがいつものように存分にベルンハルトを甘やかしていると、寝室のドアがノックされ、外から控え目にお目覚めですかと声が掛けられた。
今朝はローザが当番らしい。ヴォルフが当番の日はさっさと起きろとばかりにドアを強くノックされるのでわかりやすい。
ベルンハルトとマリアはここまでかと観念してベッドから起き上がる。
ベルガー子爵夫妻の、すっかり日常となった朝の風景であった。
***
──結婚式から既に半年が経過して、ベルガー子爵・ベルンハルトとその妻マリアの周りにはたくさんの変化があった。
まず、例の襲撃事件によってペロー伯爵家は爵位剥奪のうえ領地を没収された。そしてその領地はそのままベルガー子爵家に与えられることとなった。元々限界運営の領地であったので元ペロー領民たちは大層喜んだという。
ベルンハルトは管理する領地が増えると手間が増えるので必死に拒否したが、国王に領地か侯爵位か選べと言われて泣く泣く領地を選んだのだった。
ちなみに元ペロー伯爵領の管理は、ラカン男爵が選び抜いた管財人チームによって適正に運営され、このままうまくいけば数年以内にちょっとした商業拠点に発展出来る予定らしい。
ベルンハルト自身は今も元気に傭兵稼業で各地でブイブイ言わせている。
最近は野盗一斉排除の影響で国内の治安も良くなっており、マリアがかつて望んだように旅人や商人の護衛を務めることが多いので、遠征先で愛する妻にと真剣な顔でお土産を吟味する姿がよく目撃されている。
なお、捕えられて強制労働を課された野盗たちは、身分を保証されると意外にも真面目に働いているようで、ベルガー子爵領と王都を結ぶ主要路は既に半分ほど整備が完了していた。もしかしたらフェルゼン四姉妹に何らかの『教育』を施された可能性もあるが、そこは深く考えていけないだろう。
野盗の中には国を追われ生きるために仕方なく野盗に身を窶していた者も多く、正当な身分と保障が与えられることは彼らにとっても願ったり叶ったりであったようだ。
その中にはザフィール王国出身で祖国を失った騎士なども含まれていたというが、それはまた別の話。
ザイゼル伯爵家は爵位と所領こそ安堵されたが、嫡男トビアスは罪を問われて貴族籍を剥奪され、平民としてベルガー子爵領とは真反対の位置にある辺境の寂れた領へと送られた。簡単に言えば流刑である。
いまだにベルンハルトへの憎しみは消えないらしく、ベルンハルト憎しの気持ちを込めて一心不乱に日々彫刻に勤しんでおり、大型新人として美術界で注目され始めているとかいないとか。
マリアは子爵夫人として王都でしばしば社交の場に顔を出すようになり、マリアが社交の場に行くということはベルンハルトも王都に顔を出す頻度が高くなるということである。
王弟バルタザールはそれを喜んでマリアを妹と呼び始め、そのせいでベルンハルトの機嫌は一時氷点下に突入した。
悪名高いベルンハルトがマリアを溺愛する様子を目の当たりにした社交界の貴族たちは一時驚愕と混乱で大変なことになったが、最終的にあのベルンハルトを大人しく従えることが出来るマリアは実はすごい人なのではないかと一目置かれるようになった。ちなみにいまだ本人に自覚はない。
ついでに彼女は自衛のためにと秘密裏に射撃の訓練を始めたところ天才的な才能を開花させ、今ではすっかりベルガー子爵領を守る女主人として領内に確固たる地位を築いている。
なお、王弟バルタザールはあれこれ根回しの末に、フェルゼン家の四人姉妹全てを娶ることに成功した。ヴォルフは色んな意味で泣いた。
だって本当に兄になってしまったのだ。意地でもバルタザールを兄とは呼びたくない。でも姉ちゃんは怖い。そういう涙が止まらなかった。
かくいうヴォルフはローザに改めてプロポーズし、二人は今では正式な婚約者同士である。
バルタザールが姉たちをまとめて娶ったのでフェルゼン家の家格について宮廷内で激しく議論されており、なかなか結婚の許諾が降りないのが原因だったが、結婚自体を反対されている訳ではないのでヴォルフとローザは恋人として二人の時間を謳歌している。
そして、二人きりの時だけヴォルフは彼女を愛情を込めて『ロージィ』と呼ぶようになった。
二人はそれを秘密にしているようだが、優秀な屋敷の使用人たちはしっかりそれを把握しており、使用人たちが把握しているということはもう皆が知っているということだった。
事あるごとに「血染めの狼がすっかり丸くなって」とヴォルフを揶揄っているものの、ヴォルフが少し嬉しそうにするのが気に食わないというのが使用人の声である。
……なお、これは余談だが、最近王都ではベルガー子爵領で作られていた工芸品のうち、小さな根付けが爆発的に流行していた。
その名も『弾丸を受け止めるウサギ』の根付けである。
ベルンハルトを凶弾から守ったという逸話が伝わり、可愛い見た目もあって厄除けのお守りとして老若男女問わず大人気なのだ。
それから──。
「バルタザール様、何を書いてらっしゃるんです? お仕事は終わったのでしょう?」
お茶に呼びに来た妻に問われ、バルタザールは小さく微笑みながら手を止めて羽ペンをペン立てに突っ込んだ。
「なに、大したことではないさ。例のベルガー領の一件の顛末をまとめていてな。これがなかなかに面白いのだ」
「まぁ。最近何か熱心に取り組まれているかと思ったら。書き終わったら私たちにも読ませて頂けますの?」
「もちろん! 何なら多少脚色して出版してやろうではないか!」
はっはっはと朗らかに笑うバルタザールにフェルゼン四姉妹の長女にして彼の一人目の妻は、好奇心を滲ませた瞳で夫を見上げる。
「素敵。どんな題名になるのかしら」
問われてバルタザールは少し考えた。
何か良いタイトルはないものか。わかりやすくて、けれども少し興味を引くような、そんなタイトルがいい。
そしてうむと頷き、これまた快活に笑って答えた。
「そうだな。『ベルガー子爵領結婚騒動記』とでもするか!」
よく通る声で告げられた題名に、フェルゼン家の長女はぱちと一瞬目を丸くして、次の瞬間ころころと隠すことなく笑い始めた。
「それでは脚色の意味がなくなりますでしょ」
それもそうだとバルタザールも笑ったものの、結局この後、バルタザールは本当に自らが記した手記を本にしてしまった。
その本は宮廷内で密かな流行となっていたが、幸か不幸か主人公であるベルガー子爵夫妻は辺境のど田舎で今日も平和(※ベルガー子爵領比)に暮らしていたので、その本の存在についてついぞ知ることはなかったという。
ベルガー子爵ベルンハルト・フォン・ベルガーと、ラカン男爵令嬢マリア・アーシェ・ラカン。
彼らの物語はこれからも続いていくが、二人の他人より少々賑やかな結婚とそこに至るまでの騒動はこれにて幕引き。
『めでたし、めでたし』のその先は、彼らだけが知っている。
完
最後までお付き合い頂きありがとうございました!




