最終話
失ってから気付くのでは遅い。
それは私にも言えることだった。
いつも隣にいようとしてくれていた存在に救われていたのは、きっと、私も同じだった。
だから。
この先も側にいてほしいと思ったなら、怖がってばかりいないで、立ち向かえ。
よく眠れないまま朝を迎えた。昨日の夜に意気込んで、ベッドの中でソワソワしていたらいつのまにか日が昇ってきていた。
今日はついにテオドールに返事をしに行く日だ。彼の卒業まで、もう日が残っていないのだ。
まだ早い時間だったが、眠れそうもなく。なんとなくうろうろと部屋を歩き回って、落ち着きなさいと自分を叱咤した。
そうだ、スコーンを焼きましょう。まだあれから作っていっていなかったから。
思い立ったミリアリアは即厨房へ向かい、すでに朝食の準備に取り掛かっていた料理人に挨拶をして場所を少しだけ貸してほしいと頼んだ。
普段よりも気持ちを込めて、テオドール希望のお菓子を作り上げる。綺麗にラッピングまでして、そっと紙袋に入れた。
気合いをいれるのよ、ミリアリア。
ぱしんと自分の頬を叩いたミリアリアは、ドキドキと緊張して高鳴る心臓を胸の上から押さえた。
テオは告白してくれたとき、どんな気持ちだったのかしら。私と同じくらい、いいえ、それ以上に、緊張していたかしら。
綺麗な笑顔を浮かべて、いとおしそうに自分を見つめていたテオドール。
私にはその目に映してもらえるよう資格なんて、本当はなかったのに。
栗色の髪を編み込み、主張しすぎない程度に宝石のついている髪飾りを差し込んでもらう。
アクセサリーボックスを見ればテオドールから贈られたものばかりで、一つ一つに気持ちが込められているのかもしれないと思えば、ぎゅうと胸が締め付けられるような思いがした。
テオドールの瞳と同じ青色のドレスを着て、赤い口紅を薄く引く。どうしても落ち着けなくて、支度を終えるのに随分と時間がかかった。
「最近いい顔をしていたけど、ついに今日なのねぇ」
「ミア……」
そんなミリアリアを眺め、嬉しそうなシェラと、悲壮感を漂わせるクリフに苦笑する。
お父様、私がお嫁に出るときはちゃんと喜んでくださいね。
「行ってきます」
やっと時間になったところで、ミリアリアは忘れずに紙袋を持って王城へ出発した。
曖昧になっていたテオドールとの関係に、決着をつけるために。
「あ、ミリアリア様」
城を歩いていると、オレイグと遭遇した。黒い髪をきっちり固めて几帳面さを窺わせるオレイグは、ミリアリアを見てペコリと頭を下げると、何とも言えない顔をした。
ここ最近で二人に何かがあったことを察しているのだろう。
「ああ、約束があったから戻っていったんですね」
「さっきまで訓練所に?」
「はい。大会も終わったばっかりなのに、先週の休日もひたすら稽古に打ち込んでましたし」
それはいつもなら定期的に訪問していたミリアリアが来なくなったからというのもあるのだろう。
そう、と固い表情で答えたミリアリアに、オレイグが顔をくもらせる。
「……案内。しますよ」
「あら、ありがとう」
「いえ」
通い慣れた城内だったけど、一人では気分が落ち着かなかったので、有り難いオレイグの申し出は遠慮せず受けることにした。
誰かといるほうが気が紛れるかもしれないものね。
並んで歩きながらテオドールの部屋へと向かう。話題はもっぱらテオドールのことだった。当然だ。それしか共通点がないのだから。
いわく、
「殿下は隠れ鬼畜ですよ。年を増すごとにあの容赦の無さがひどくなっていきます。ミリアリア様の前では隠してるみたいですけど」
とか、
「まあでもニールがなにしても結局許すんで、心は広いですけどね。この前いきなり後ろから水被せられて殺人鬼のような顔してやり返してましたけど、途中から笑ってましたし」
とか、
「どんなに怒ってるときでも、ミリアリア様の名前出せば一瞬すっごい顔が和らぐんですよ。あの変わり様はすごい」
とか、
「評判もとてもよくて。勉強にも稽古にも熱心だって」
とか。
一つ一つの言葉を受け止めるうちに、緊張がほぐれ、肩の力が抜けてきていた。
オレイグがこんなにテオドールのことについて語っているその思惑に気付いたからだ。
「それから、ずっとミリアリア様のことが本当に好きで、一途なところも」
分かってますよね?とオレイグの目が問い掛けてくる。ミリアリアは、その目をじっと見つめ返して、そっと目で頷いてみせた。
「ミリアリア様」
それに何を感じたのか、足を止めたオレイグがミリアリアを懇願するような揺れた瞳で見据える。
「どうか殿下の思いに、応えてあげてください」
テオ、あなたは、幸福者ね。あなたの幸せを願ってくれる人が、こんなところにもいるのだから。
「殿下のミリアリア様を好きで好きでどうしようもない気持ちを、信じてあげてください」
可愛くて愛しいテオ。テオはたくさん成長して変わったけれど、私だって、テオが私にとって大事な存在なのは、変わっていない。
必死なオレイグには悪いが、おかしくて、ミリアリアは吹き出してしまった。緊張から固くなっていたミリアリアの表情のせいで、要らぬ心配をかけてしまったらしい。
勘違いしていることを教えてあげようかと思ったが、すぐに思い止まった。テオドールに最初に伝えたいと思ったからだ。そしてテオドールから、その結果を聞いて驚いてくれればいい。
城に来たときとはちがい、余裕すら感じさせる足取りで、奥へ奥へと進んでいく。
そして、テオドールの部屋が見えてきた、そのときだった。
「あ……メルサ外交官だ」
息が止まった。テオドールの部屋の前でなにかを話している二人が目に入った瞬間、一気に視界が色をなくして、目が離せなくなる。
見覚えのあるブロンド。ユーリの腕に細い腕をからめる、可愛らしい少女。
脳裏にこびりついて残ったままだった記憶と、テオドールと並んでいるその光景が、重なって見えた。
可愛いテオ。大事で、愛しいテオ。ずっと側にいたいと、側にいてほしいと思えた、私だけの。
胸がざわついて苦しくなる。嫌だ、と、全身が訴えていて。
「━━私のテオに触らないで……!」
気付いたときには走り出して、テオドールに突進するように抱き付いてメルサから引き離していた。目を丸めている女性をキッと鋭く睨み付けてから、我に返る。
私いま、なんて。
一瞬、自分が言ったと理解できなかった。
しかし紛れもなく自分の感情に任せたままの言葉であったと冷静に理解したその瞬間、ミリアリアは腕を離しテオドールから後退った。
一気に顔から血の気が引いていく。驚いてこちらを見下ろしているテオドールなにか弁解をしようにも声が出てこず、パクパクと口を動かした。
……ありえない。
「……ミ」
「ご、ごめんなさい……!!」
なにかを言われる前に、叫ぶようにして謝った。大きく頭を下げて勢いよく顔を上げたあと。
いまだよく状況を理解できていないようで呆然としたままのテオドールを目で確認したミリアリアは。
「さようなら!」
一方的に言い放つと、体を反し、生きてきて一番の早さでその場から逃亡した。
「え、ま、待てっ!ミア!」
引き留めようとする声なんて聞こえなかった。聞こえていても、止まるわけがない。唖然としているオレイグの横をすり抜け、庭園の方へと向かっていく。
マナーもなにもなく、ドレスの裾を翻してひたすら走ったミリアリアは、ちょうど外に出たところであっさりと後ろから伸びてきた手に捕らえられた。
「ミリアリア!」
腰に腕を回され、硬い胸板に力強く抱きとめられる。
ぜいぜいと息が乱れている。引いていた血の気が戻ってきたかと思えば次は、汗が出るくらいに全身が熱くてしょうがなかった。
恥ずかしい。恥ずかしい!
こんなつもりじゃなかった。もっと、普通に、告白をするつもりだったのだ。
二人で過ごすちょっとした時間が幸せだと言ったテオ。自分にとってはミリアリアが一番だと言ってくれたテオ。これから先も、私だけを思い続けると言ってくれたテオ。
愛しいと思う。それで、十分だ。愛しいテオを失いたくない。テオからの気持ちを素直に受け止めたいし、テオの側にいたいとも思った。
心変わりを恐れずに、あなたの気持ちを信じるから。これから、もっともっとテオを好きになりたいから。
だから、これからもよろしくお願いします、と。
そう、言うつもりだったのに。
どうして、あのタイミングで。どうして、あんな状況にならなければ、気付けなかったの。
私がテオに対して持っている気持ちは、そんな生ぬるいものじゃなかった。
自分でも知らなかった。自分の中に、こんなに燃え上がるような激情があることを。
どうして今まで、見ないふりをしていられたのだろう。独占欲丸出しなあんな言葉を、衝動的に叫ぶまで。
そう、独占欲だ。持ったことなんて一度もないと、そう思っていたのに。いや、事実なかったのだ。どんな可愛いご令嬢に囲まれていても。
ただ、あの人だけはちがった。
嫌だった。怖かった。ミアからユーリを奪ったあの人がテオの側にいることが。
余裕があると、カレン様は言ったけど。その通りだったんだわ。他のご令嬢には、テオを奪われるかもしれないなんてそんな風に思うことはなかった。でも、あの人にはそうは思えなかった。また奪われてしまうのではないかと、平常心ではいられなかった。
「ミア……っ」
ぎゅうぎゅうと痛いぐらいに抱き締めて、テオドールはミリアリアの首元に顔を埋めた。ダイレクトに伝わってきた泣きそうな声に、ミリアリアの涙腺が崩壊した。
「私、馬鹿だわ」
意地っ張りで、なにをするにもテオが中心で。恋をしたくないと意地を張って、自分の中にすでに芽生えていた気持ちをいつまでも認めようとしなかった。
婚約者という立場を理由に、あんなにもテオを思っていたのに。とっくに私は、恋に落ちていたのに。
「あ、あんなこと、最低だわ」
「うん」
「私、テオに、散々……っ」
「うん」
ぼろぼろと涙があふれて、止まらない。はじめて気付いた自分の本当の気持ちにも。どうしようもなく優しくて、甘やかすような声で相槌をうって、甘えるように顔を擦り寄らせるテオにも。
「でも俺は、どんなミリアリアでも愛しくてたまらないよ」
唇を噛み締めたって、涙は止まることなく頬を濡らし続けた。
怒って、叱ってくれていいのに。体を反転させて向き合わせたテオドールも涙目で、耳まで赤くなっていた。そして、子どものように無邪気な笑みを浮かべて。
テオドールはミリアリアの唇を指で撫でて、噛むのをやめさせた。優しく頬の涙を拭いとる。それでも拭いきれない量に、苦笑をこぼした。
「もう泣くな。ミアの綺麗な目が腫れる」
「……っご、め」
「好きだよ、ミア。……愛してる」
思いの滲む言葉に、ふるふると力無く首を振る。
私はそんなことを言ってもらえる人じゃない。保身のために見ない振りをして、ずっとあなたを苦しめてきたのに。こんなときになって、我が物顔をする、愚かで傲慢で、どうしようもない女なのに。
「ミア」
額にテオドールの唇が触れる。流れるようにして目元に寄せて涙を吸うと、頬に口づけて。青の瞳が、こんなにも間近でキラキラと輝いている。
「返事を聞いても、いいか」
それでもあなたが、私を望んでくれるなら。
変わらない愛を証明すると言ってくれたあなたを信じたいよ。もっともっと好きになって思い続けてもらえるように、私もたくさん努力をするから。
「テオとずっと一緒にいたい。テオが、好きよ。誰にも渡したくないぐらい……大好き」
言い終えて、すぐだった。唇が重なって、離れて。また重なって、目を開いて視線を交わして。首に腕を回して、また重ねた。何度も何度も唇を触れ合わせた。
触れる度に奥底で固く固く閉じ込められていた気持ちがあふれてきて、どんどんと愛しさが増していく。
きっと、私も親鳥なんかではなかった。他の人と一緒にいるテオの幸せを純粋に願うなんて、私には出来やしない。
だってこんなに苦しいぐらいの嫉妬をするほど、どうしようもないくらいに、テオのことが好きなのだから。
テオが好き。誰よりも一番に、テオが大好きだ。
恋をするのは怖い。裏切られるのは怖い。でも、それ以上に、思い合えている幸せを感じたい。テオから与えられる愛情が、なによりも私の幸せになるから。その時間とその奇跡を、大事にしたい。
顔を離してじっと見つめていると、テオは目を細めてまた顔を近付けてきた。息が苦しくなるぐらいのキスをされて、でも私の心は、温かい気持ちでいっぱいになる。
「……嬉しすぎて死にそうだ」
抱き締める手の熱さが、心地よくて。触れている体の温かさが、ひどく安心できて。
ミリアリアが情けない顔でくしゃりと笑えば、テオドールは嬉しそうに破顔してこつりと額を合わせた。
「……部屋に戻るか」
しばらく余韻に浸ったあと、ここ最近元気がなかったなど嘘のように、満面の笑みを浮かべたままのテオドールが体を離し、ミリアリアの手を絡めとった。
この温かさが気恥ずかしくて、心地良い。ミリアリアは火照る顔をパタパタともう片方の手で扇ぎながら、そっと握り返した。
テオドールの部屋の前に到着すると、メルサの姿はなかった。かわりに、待っていたらしいオレイグの隣にニールとエディがいた。
戻ってきた二人に、三人から微笑まし気な視線が送られる。エディに関しては安心した様子で頷いてもいた。
「うまくまとまったみたいだね」
「ええと、その」
まさか、お見通しだったのかしら。恋に向き直ってから、気付いたテオへの気持ちは教えていなかったのに予想されていただなんて。でもそれもそうよね。お兄様が私に色々と教えてくださっていたんだもの。
あれだけ恋は落ちるものだと言っていたのだ。しないと決めたからと言って、落ちずにいられるものではないのだと。理屈ではないのだと。
ああ、きっと頑固で馬鹿な女だとお兄様も思っていたはずだわ。
恥ずかしくなって俯いたミリアリアの前に、紙袋が突き出された。
「あっ」
スコーン!あのときに落としていたんだわ。それどころじゃなくて全く気付かなかった。
受け取ったミリアリアに、オレイグは頬を緩ませる。
「ただのお節介だったみたいですね、僕」
「そんなことないわ、テオのことを知れたもの。テオは良いお友達を持ったのね」
「……なにを話したんだ?」
一段と低くなった声が隣から降ってきた。嫌そうに目を細めている姿に、くすっと笑みがこぼれる。
「テオが私をとっても思ってくれていることを聞いただけよ」
テオドールはすぐさまオレイグを睨み付けた。しかし、今はそんな睨みも怖くないようで、オレイグは苦笑するだけだった。
ミリアリアはバレないようにそっとテオドールを見上げた。麗しくも男らしい顔つきに、頬が熱くなる。
どうしてかしら。好きだと自覚すれば、とってもテオが格好よく見えるわ。元々綺麗な顔をしているけれど、どんな人が現れてもテオが一番格好いいと思う。
これがテオが私に言っていたことなのかしら?僕にとってはミアが一番だよ、という幼い声は今でも耳に残っている。
ついに視線に気付いたテオドールが優しく目元を和らげて問うように首を傾げる。
「テオは格好良いなあと改めて思って。一番」
やっぱり事実なので、恥ずかしげもなく伝える。そしてテオドールもやっぱり赤くなって絶句した。団服の三人組が失笑する。
「変わらないな、力関係が」
「思いが通じれば少しは変わるかもと思ったんですが」
「惚れた弱味っすかねぇ」
それを言うなら私だって、と目を泳がせる。
今考えてみれば、告白されてからようやく意識するようになったというだけで、もうとっくに私はテオを好きだったのだ。だからいざ積極的に来られると、冷静さを欠いてしまっていたわけで。
テオドールは恨めしそうに三人を見ていて、自分のことについては触れないようにしているミリアリアに気付いていないようだった。
まあ、それを知って迫られても心臓に悪いから、私の平常心のためにもしばらくはこのままで。
誤魔化すようににっこりと笑みを深めたミリアリアに、目敏いエディがやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「そういえば、……メルサ外交官は帰られたの?」
なんとなく名を上げるのが躊躇われて、少し言葉に詰まって尋ねる。
「ああ……そうだった。さっきのは、先日のバザーの話を聞いてただけだからな」
「そうなの?」
以前二人の話をお兄様から聞いたときは外交の話をしてるのでは予想していたけれど、どうやらそれは合っていたらしい。冷静にそんなことを考えられたのは、実際に並んでるところを見ていなかったからだということはよく分かった。
気まずさから目を反らしつつ、安堵しているミリアリアの姿に、にまにまとテオドールはだらしなく頬を緩める。
「メルサ外交官ならユーリさんがなんとかって言って訓練所に向かいましたよ」
「あの二人、一時付き合っていたって噂あるけど本当なんすかねぇ?」
「さあね」
首を振ったエディは、ミリアリアの頭に手を乗せた。ぽんぽんと叩かれて、突然なにかとミリアリアは訝しんでエディを見る。
「例え他に逸れることがあっても、絶対に無理だと分かっていても。思う気持ちが本物ならなかなか諦められないものだよ。ミアも分かっただろうけど、恋って、自分じゃどうしようもないからね」
三人と別れて部屋に入り、ソファーに向かい合って座る。テオドールが使用人に紅茶を用意させている間に、テーブルの上に紙袋を置いて中身を取り出した。
「遅くなったけれど、ご希望のスコーンよ」
「なんでラッピング?」
「……まあそれは気にしないでちょうだい」
告白するつもりで、緊張して張り切ってしまった。とは、なんだか恥ずかしくて言いたくなかった。誤魔化すようにうふふと笑い、スコーンを手に取る。
「はい、どうぞ」
ラッピングを開けて差し出せばすぐに食べて、うまいと一言。一つをペロリと平らげてしまったテオドールは、もう一つと手を出した。
「ちゃんと味わっているの?」
「当たり前だ」
「食べすぎたら太るわ」
言いつつも、食べてもらえるのは嬉しいので次のものを渡す。
どうしましょう。私がこうやって甘やかすせいで将来テオがお腹の大きいおじさんになってしまったら……!いいえ、それでも愛せる自信はあるわ。むしろ少し美貌が失われるくらいがちょうどいいのかもしれない。
「失礼なことを考えているだろう」
「まあ。そんなこと。ただ、テオがおデブさんになっても愛せると思っていただけよ」
「うっ、ごほっごほっ」
噎せた。あわてて紅茶を流し込むテオドールをのんびりと眺めながらスコーンを口に入れる。
テオドールは複雑な心境でしかめっ面をしようとしつつ、失敗してにやけるという微妙な顔をしていた。
「その前に止めてくれ」
「出来ないかもしれないわ」
「俺もミアの菓子は作ってもらえる限り食べる」
「じゃあ無理ね」
テオの「うまい」って私、結構好きみたい。喜んで作っちゃうわ。甘やかせるところでは甘やかす方針だから、テオの喜ぶことに関しては止められない。
顔を見合わせたミリアリアとテオドールは、そろって笑い声をあげた。
「じゃあ代わりに毎日散歩をするのはどう?」
「ああ、いいな」
「食べた分動けばいいわ」
「一緒にな」
「ええ、もちろん」
些細な約束。けれど、毎日を共にすることを前提とした、とても意味のある約束だ。
これからもずっと一緒にいる。泣くことがあっても、怒ることがあっても、それ以上の幸せを感じながら、生きていく。
嫌なことを避けて保身になっていれば楽で生きやすかっただろう。でも、本当の幸せを手に入れることも、きっとなかった。
「よかった……」
心の底から安心したような声がテオドールからこぼれる。二つ目のスコーンを食べきったテオドールは、もぐもぐと咀嚼しながら遠い目をした。
「実はミアの気持ちが伴わないようなら、本気で婚約を破棄するとクリフ殿に言われていたんだ」
「ええ!?」
お父様がそんなことを!?お父様、私には嫌ならいつでもやめられる、ぐらいにしか言っていなかったし、今の時期に破棄というのも大変な話なのに。やっぱり親馬鹿すぎるわ……。それにいつそんな話を?
「剣術大会の前辺りだな。呼び出されて」
「……お父様がごめんなさい」
「いや、俺もなるべくなら避けたかったんだ。ミアの気持ちが無いのに流れに任せて結婚してしまうのは」
そういえばテオが距離を詰め始めてきたのもその辺りの気がするわ。
そういうことだったのね。テオはテオで、焦っていたのだ。そしてこの前の剣術大会の日に繋がるわけだ。
「本当に、よかった」
以前幸せを一緒に探そうと言ってくれたテオ。それはきっと、彼の願望も含まれていて、今、現実になった。
私の幸せは、一生を生きること。大好きな、テオの隣で、私だけに向けられる愛を受けながら。
「ミアの言うとおりだったな」
「え?」
「俺に言っただろう。幼かったあの日、我慢強くなればいいことがあると」
思い出すのはテオドールに我慢することを教えた幼き日のことだった。我慢とは、と首を傾げるミリアリアに、テオドールは極上の笑みを浮かべた。
「ミアの言うことを信じて、我慢強く待っていた甲斐があった」
彼女が恋に、落ちるまで。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。