17 屈折の雨
「…………なんだ、クソッ」
僕らは雨の降り積もる、そんな森の冒険エリアにいた。
額をじっとりとした濡れ髪が這い、冷たい雨が頬を伝っていく。
精霊は『腹立たしいです』と木を殴りつけていた。何で僕らが……そういう思いもあったのだろう。苛立ちを込めて、低く響く打撃音が、森に静かに染みこんでいた。
もう僕らに残ったものはない。
村に入って食事をするはずだった。最初の目的はそうだった。村に入り、冒険で疲れた体を休め、《魔物》を翌日も倒すために鋭気を養う。そうするはずだった。村で王国硬貨を支払い、鳥の丸焼きなどにありつき、連日の冒険の疲れを癒やすために。
……なのに、僕らはこんな森にいる。
追い出されてしまった。
村の施設は、すべてあの獣人ライデルや、別の冒険者たちによって独占されてしまっていた。こんなのは冒険じゃない。僕だって……そう思う。
僕らに残されたのは、冒険の道具。
焚き火を起こすための火種や、《燭台灯》、そして……寝静まるための最低限の寝具。そして、冒険に大事な、《聖剣》だけ――。それだけだった。他には何もない。
「………うう。ひもじいです……」
ぐうう、と空腹の音がする。
ミスズが焚き火を見つめながら、膝を抱えて呟いていた。僕だって同じだ。いや、他の冒険者も――メメアや、アイビーたちだって。本当なら口に入れるはずだった食べ物を思い描きながら、村まで帰還したのだ。それが、今の状況だ。
「……くそっ、腹を立ててたって仕方ないな。もう、夜は遅いし、このまま寝るとしようか」
僕はそう言って、月を見上げる。
この夜は―――昇格試験の〝二日目〟だった。最終日を含めると、全部で四日間あるうちの、もう半分を使ってしまっていることになる。
世界で一番長い月が顔を出す時期――それが、この昇格試験に与えられた、もう一つの名目だった。だから、一日は長く、月が顔を出し、僕らを照らしつけてくる時間も長かった。そんな中で、僕らは雨を逃れるように、森の中で焚き火を囲んでいる。
……ぐうう。
また、誰かの腹が鳴った。
僕は静かに息をつき、それから、気になってメメアの方向を見た。
「…………メメア」
「ううん。いいの」
僕が目を向けた少女は、首を振っていた。
顔をこちらに向けてきた、その瞳が真っ赤に腫れているのは……決して、外が雨だったから、などではないだろう。
その子は。過去の出来事を、掘り返されていた。
それこそ傷を抉るように。
「…………昔から、そうだったんだ」
「?」
「私は弱虫で。何も出来なくて。……でも。お母様の手紙には、『大丈夫だよ』って。それだけ、しっかりと書き綴ったの。故郷に出す便せんの中で」
メメアは、横になってしばらく、月を見上げてから呟いた。
この世界で一番長い月は、淡い光がこぼれるように、雨雲の黒さがようやくとれていく夜空でボンヤリと輝いていた。《剣島都市》の中にいたときには、見えなかった空。レノヴァ村にいても、家屋の中にいても、それは決して見えない景色だった。
メメアは、静かに言葉を紡ぐ。
それは、残された家族の絆だった。
「私の生まれは……故郷の、《リューゲン王国領》という国。そこには、騎士の家の長い歴史があって、私はそんなお父様の家で産まれた。お屋敷は大きかったけど……でも、ちっとも毎日が楽しくなかった。
私のお姉様たちは意地悪だったし、お母様の生まれもね、とっても貧しかったの。だから、私を食べさせていくのが、やっとだったみたい」
そんな生活の中で。
メメアは、使用人のように屋敷で働きながら過ごしていた。……自分からそうしたいと思ったわけではなく、意地悪な、ほかの姉たちに『お茶が切れているわ。メメア』『ああ、なんてグズなのかしら』と、追い使われて、そうなったらしい。
「…………それは、」
「ううん。いいの。もともと、私には《騎士》としての素質がなかったから。剣を振っても下手くそで、乗馬をしようとしても、馬から落ちるくらいだし」
騎士の家系としては、〝不名誉〟とされること。
そんなリューゲン王国領で、メメアは『立派になって、母と暮らしたい』と思い立ったらしい。そのために、無理を承知で、騎士の試験に挑んだ。…………だが、結果は悲惨だった。馬に乗る試験でも落馬し、それから、実力をはかるため、ほかの家の子と『剣士試合』をすることになり、相手となったのが―――
「―――あの、〝獣人ライデル〟か」
「……。うん」
メメアは、月の淡く、優しい光を見上げながら頷いていた。
その大きな瞳にも、悲しい光が宿る。
「………私は何をやってもダメだった。《騎士》になるための道も――もう、そこで挫折してしまったの。もともと、私には厳しすぎる条件だったし……。それで、どうしようって。絶望して、ふさぎ込んでいたら、尋ねてきたお母様のお兄さま――私にとって、『おじ』になる旅の剣士の人が、〝《剣島都市》はどうか?〟って勧めてくれたの」
あまりにも酷い生活の中で、訪れた転機は、それだった。
メメアは、藁にもすがる気分で《剣島都市》への旅を、決意したのだった。もともと、故郷にいても居場所なんかない。それなら―――《レベル》と《ステータス》という、剣士の才能とは、また別の仕組みのある、この島に行けないかと。
「変わりたい。……って、今度こそ私は、思ったわ。『友達』だってほしかったし……それに、私のことを見てくれる、相棒の精霊がほしかったの」
「…………」
……島に来て。
……『友達』を願った、理由。
僕には馬鹿にすることなんか出来なかった。否定することも。だって、その純粋な願いは、あまりにも透き通っていて、壊れてしまいそうなほど透明に感じてしまったからだ。
…………しかし、《島》での生活も楽ではなかった。
変えてくれるはずの《熾火の生命樹》―――神樹から授かったのは、なぜか、魔物を倒せない《聖剣図書》。日々の冒険は、魔物から逃げ回り、相棒の精霊とともに危機をくぐり抜ける―――そんな、苦労の日々だった。
「だからこそ、強い冒険者になろう。って決めてたのに。……〝昇格試験〟で強くなって、今度こそお母様に『立派な冒険者になれる』って、胸を張って言えると思ったのに」
「…………」
「おかしいなぁ。なんで、こうなっちゃったんだろ」
焚き火の音が、嫌に大きく爆ぜていた。
僕は黙る。
沈黙の中で、背を向けて、すすり泣く声が聞こえてきた。…………アイビーは、もう眠ったのだろうか。ミスズは。誰も、この夜の中で何も言えなかった。
――せめて、もう少し力があれば。
僕だって思う。
それは、この世界―――冒険のある《島》の中で暮らし続ける冒険者たちにとって、共通の望みでもあった。いいや、僕らみたいな、底辺冒険者ほど…………喉の渇く砂漠で水を求めるように。もがき、苦しむように。その〝力〟を求めた。
…………決して。
そう、決して、笑いものになったり、馬鹿にされたりするようなことでは……なかったのだ。
僕らは真剣だった。
真剣に、冒険をしていた。
もう少し力があれば―――。僕は思う。
メメアの助けになってやったかもしれない。少しでも強く、その味方になってやれたかも。そうするとメメアがこんなに傷つくこともなかった。いや、他の冒険者たちだって。獣人ライデルなんかに、好き勝ってやらせるような、こともなかった。
僕は弱い――。
すべて、僕の弱さなのだった。自分が憎い。力不足、実力不足で、誰の力になってやれない自分のもろさが……嫌だった。
全員が、この夜ほど痛感したことはなかった。
…………《冒険者》は、まだ弱い。
「…………雨の後が、冷たいな」
僕は、ボンヤリとその月を見上げながら思った。
魔物は近くにいない。そのための篝火だったし、万一のことを考え、村に出来るだけ近い場所に位置を取ることにした。ただし、向こうからは見えないように―――隠れるようにだ。こんな場所まで来て、ネズミみたいに隠れながら、僕らは冒険の辛さを凌いでいた。
月を見上げる。
通過した雨の、そんな残りの一滴が、葉っぱから落ちては地面を濡らした。月のうつる透明な雫を見て、僕はいろいろなことを思った。
…………強くなりたい。
そう、静かに月を睨み、それから拳を静かに握りしめた。
…………もっと、強く。




