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 元町・中華街の駅からほど近くに、山手迎賓館はある。

 純白の門をくぐり、ロビーへと進むと同じ会社の人間がすでにちらほら見える。今日彩音と結婚式を挙げる坂下と同期で、営業職に就いている松川浩之(まつかわひろゆき)の姿が見えた。松川もスプリングコートを脱いで、ターコイズブルーをあらわにした亜季に気付くと屈託ない笑顔を向けて近づいてきた。

「山科さん、遅いですよ。もう会社の人たちもほとんど揃ってます。うちの荒木課長なんて、三十分前に来て、今も挨拶の練習してますよ」

「準備に手間取ってしまって、遅くなってしまったの。式はまだ始まっていないんでしょ?」

「ええ、新郎、新婦ともにまだ準備しているところですからね」

「じゃその間に煙草に行かない?」

「いいですよ。式が始まったらしばらく煙草を吸うこともできませんもんね」

 時計を見ると、時刻は間もなく十一時半だった。案内状に書かれていた時間にぎりぎり間に合ったというところだ。亜季は松川と連れ立って喫煙所に向かった。


 松川が挨拶の練習をしていたという荒木誠(あらきまこと)は、松川のいる営業部の課長である。二年前までは、亜季のいる総務部の課長を務めていた。従業員が二百人に満たない亜季の会社では、全社員の顔も互いに見知った顔ばかりだった。このような環境では、よほど慎重にならない限り秘密は保ち(にく)かった。

 三年前に付き合っていた卓也と別れたときから、今にして思えば亜季はメランコリーにとり()かれていた。煙草を吸いだしたのもこの頃だ。頻繁に女友達と酒を飲みに出かけて、その友達に勧められるままに、気がつけば煙草を(くわ)えていた。酒の酔いのせいもあろうが、初めて吸った煙草は意外にも抵抗感がなかった。口の中にメンソールの爽快な香りがして、吸い込むと喉から肺へ煙はすっと落ちていった。やや頭が朦朧(もうろう)とする感覚があった。だが一本目の煙草を吸いきる頃にはその感覚も薄れていた。

 ある日、卓也のことを思い返しながら仕事をしていた亜季は、当時課長だった荒木に小さなミスを指摘された。ミスそのものはごく単純な計算誤りであり、よくよく見返せばすぐに気付くはずだった。だから亜季は、そのミスを深く恥じた。

 荒木は「山科さんらしくないな」といいながら、それ以上亜季をなじったりすることもなく、「訂正してくれればそれでいいよ」といってくれた。

「最近、山科さん、疲れているようだね。大丈夫かい」

「ええ、何でもありません。書類はすぐに訂正しますので……」

「頼むよ。それともしよかったら、今晩どう?」

 そういいながら荒木は手で、グラスに入った酒を飲む真似をした。にこやかな荒木の顔を見て、亜季もすぐに「はい」と首を縦に振った。

 その夜、荒木に連れられて入った馬車道のバーで、亜季はグラスを重ねた。いつしか荒木に、亜季は自分のメランコリーの原因である卓也との別れを打ち明けていた。思えば、これが秘密の始まりだった。

 荒木は時々相槌(あいづち)を打つだけで、黙って亜季の話に耳を傾けてくれた。特に説教をいうでもなく、何かアドバイスをしてくれるでもなかったが、黙って自分の話を聞いてくれることが嬉しかった。アルコールを甘さで包み込んだカクテルとその勢いで荒木に語った愚痴は、いっとき亜季のメランコリーを忘れさせてくれた。バーを出る頃には、亜季も解放的な気分になっていた。バーを出たところの薄暗い階段で、荒木は亜季に視線を絡みつかせてきた。酔いの回った亜季の顔に、荒木の顔が近づいた。あっという間に二人の唇が重なっていた。

 階段を下りて石畳(いしだたみ)の道にでると、荒木が亜季の肩に手をかけた。

「少し酔ったみたいだね。どこかで休んでいこうか」

 その言葉の意味が判らないほど酔っていた訳ではなかった。だが久しぶりにメランコリーから開放された亜季は、自虐的な自由に(ひた)ってみたかった。

 亜季はその夜、荒木に抱かれた。その日から、荒木との背徳的な蜜月は始まった。荒木にはすでに愛する妻がいて、その妻との間に子供も一人もうけていた。もちろん亜季も、荒木の家庭状況は知っていた。それゆえ荒木との蜜月は、不倫関係を超えることはないことも……。

 だがカクテルが忘れさせてくれたメランコリーが再び亜季の心を(おお)いだすと、荒木の求めるがままに不倫関係を続けるしかなかった。亜季の心を埋めて、メランコリーを薄める何かが必要だったがゆえ。


「山科さん、そろそろ結婚式場に向かう時間ですよ」

「あっ、そうね。行きましょう」

 慌ててすでに燃えつくしたヴァージニアスリムを灰皿にぽとりと落とし、荒木との回想を振り払うように一度首を振ると、結婚式場へと向かった。並んで歩いていた松川が話しかけてきた。

「ところで山科さんは結婚しないんですか?」

 どきりとして亜季は松川の方を向いたが、松川は前を向いたまま式場に向かって歩みを続けていた。


 結婚式が執り行われるチャペルはまばゆい光に包まれて、すでに坂下と彩音の両家親族や友人らが並んでいた。亜季は松川と並んで、最後方の席に腰掛けた。

 ほどなくパイプオルガンの音が流れ、メタリックな光沢を帯びたチャコールグレーのタキシードを着た坂下が、牧師の格好をして壇上に立っている男の方へと歩いていった。気をつけの格好で指定の場所に坂下が立つと、音楽のヴォリュームがひときわ大きくなり、チャペルの扉が開いた。扉の向こうには、純白のウエディングドレスに身を包み、父親であろう恰幅(かっぷく)のよい紳士と腕を組み、ブーケを手にした彩音が現れた。

 スポットライトが彩音を照らすと、チャペルに並んだ招待客は一斉に起立して拍手を送った。彩音は一身に衆目を集め、この日ばかりはシンデレラガールだった。ゆっくりと牧師の待つ壇に向かって、父親のエスコートで音楽に合せて歩を進めた。

 ヴェール越しにスポットライトに浮かび上がった彩音の横顔を見て、亜季は美しいと思った。少しだけ主役の彩音がうらやましかった。式場への途中で、松川が投げかけた質問を頭の中で反芻(はんすう)してしまう。

 自分が卓也と別れたのと同じ年齢で、今目の前にいる彩音は結婚しようとしている。しかし自分はその年齢のとき、荒木と許されない契りを結んでしまった。永遠に結婚という栄誉を手にすることのない、ただ己のメランコリーを解消するためだけの荒木との大人の契約に、亜季は少しだけ後悔し始めていた。

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