第1話:華麗なる肉格と、飢えし文明
18世紀末、フランス。ヴェルサイユ宮殿を包む空気は、濃厚なラードと焦がしバターの香気で満ちていた。宮廷では朝から晩まで食事が続き、食卓に並ぶ皿の数と貴族の腹囲は、身分と財力を語るうえで欠かせないものだった。
「おのれ……我が父、ジャルジェ伯爵は、ついに重度の栄養失調で脳が腐敗してしまったか!」
巨躯を包む豪華絢爛なドレスを肉波でうねらせながら、オーギュスト・エルサイズは深紅の眉をひそめた。
彼女の手にあるのは、父から届いた信書だ。そこには『最近のお前の佇まいは肥大化が過ぎる。少しは食事を減らし、痩せなさい』という言葉が記されていた。
「直ちに宮廷医を! 父上が『痩せろ』などと恐ろしい言葉を私に向けておられるのだ!」
廊下に控えていた貴族たちが一斉に息を飲み、哀悼の眼差しを交わし合う。
駆けつけた宮廷医は信書を一目見ると、悲痛な面持ちで首を振った。
「……これはいけませんな」
「やはりか!」
「ええ。『痩せろ』という言葉を実の娘御に向けるほど、脳への脂質供給が低下しているとは……」
「父上……」
「幸い、まだ手遅れではありません。直ちに一日八食のフルコースへ戻せば、あるいは」
「必ず私が救ってみせる!」
オーギュストは固い決意とともに、クリスタルグラスになみなみと注がれた黄金色の液体――無塩バターとMCTオイルを溶かし込んだ特製バターコーヒーを一気に煽った。
「くっ……! 効く……!」
喉奥を焼き切る濃厚な脂質の衝撃にキリッと眉をひそめ、瞳に鋭い光を宿す。
「良し。脳のウォーミングアップ代わりに、軽く腹拵えをしよう」
彼女の合図とともに、四十人の下僕たちが銀の巨大トレーを担ぎ込んできた。
そこに積まれているのは、一個ごとに200gのバターが練り込まれた特大クロワッサン30個。オーギュストはそれを一本の丸太のようにまとめて掴むと、口を巨大な洞窟と化し、一切噛むことなく一挙に丸呑みした。
ゴクリ、と地鳴りのような嚥下音が響き、一瞬で胃袋へ消える。間髪入れずに運ばれてきた漆黒のザッハトルテのホール3個を手のひらに重ねて乗せると、豪快に顔面ごと突っ込み、手掴みで平らげた。
「ふぅ……喉の渇きを潤す程度のおやつであったわ。出仕するとしよう」
オーギュストが立ち上がると、床の木組みが「メリメリ……!」と悲鳴を上げた。ヴェルサイユ宮殿の扉や回廊はすべて、通常の三倍の規格で建てられている。
廊下を進むオーギュストに、宮廷の役人が恭しく歩み寄る。
「オーギュスト様、本日の公式測定にて前月比プラス12キロを記録いたしました!」
「なに……! では……」
「はい! これで『肉格』が一階級上がり、公爵級の仲間入りでございます!」
「そうか……! 長年の鍛錬が実を結んだか」
そこへ、行軍服に身を包んだフランス軍の将校が息を切らせて駆け込んできた。
「オーギュスト将軍! 兵站部隊が敵軍の襲撃を受けました!」
「弾薬は?」
「十分にございます!」
「では問題ない」
「ただし……軍用バター樽が八割失われました」
「……なんだと?」
オーギュストは即座に踵を返した。
「一大事だ。弾薬の輸送は後回しでいい。予備のラードをすべて前線へ送れ」
「はっ!」
将校が走り去るのと入れ替わりに、回廊の奥から重厚な地響きと共に現れたのは、この国の頂点に立つ王妃マリー・アントワネットであった。
身に纏うドレスは布地が全く足りず、特注の軍事用帆布を無数に縫い合わせて作られている。マリーは扇子代わりに巨大な牛のロースト骨付き肉を持ち、優雅に頬をあおりながら微笑んだ。
「あら、オーギュスト。今日も健やかなお肉の輝きね。あなたのその二の腕の肉だまり、いつ見ても極上ですわ」
「恐縮にございます、王妃様。王妃様のウエストの地平線に比べれば、私などまだまだ未熟にございます」
オーギュストが深々と辞礼すると、マリーは手に持っていた骨付き肉をバリバリと豪快に噛み砕き、骨ごとゴクリと飲み込んだ。そしてハンカチで口元を拭うと、憂いに満ちた表情を浮かべた。
「ところでオーギュスト、気分の悪い噂を聞いたのよ。下々の愚民どもが『飢餓だ』と騒いでいるらしいの。国中の国民が、食後二時間半も経たないうちに空腹を訴えているのよ? 重度の国家的危機の最中だというのに、彼らはなぜあんなにも怠惰なのかしら?」
「左様にございますね。一日七食の配給を受け取りながら、食う努力を怠るとは笑止千万。ただの甘えに過ぎません」
「ええ。だからわたくし、完璧な救済策を議会に通させましたの。配給のパンを取りやめ、『ホールケーキを溶かした牛の脂肪油に丸ごと漬けて揚げたもの』を、一人一日5個配ることにしましたわ」
「なんと……! なんという慈悲深き栄養学的救済……!」
「でしょう? なのに民どもは『こんなもの食えるか!』と投石して反抗するのよ。食べれば生き延びられるのに……なんと愚かで、理解不能な民でしょう」
二人が溜息をついたその時、庭園の物陰から一人の外交官が現れた。
その瞬間、オーギュストとマリー、そして周囲の貴族たちの顔から一斉に血の気が引いた。
「ヒッ……! な、なんだあの者は……! 腕が……腕が枝のように細いぞ……!」
「見るな! 目を合わせるな! 栄養失調が伝染するぞ!」
貴族たちが恐怖で身をすくめる中、オーギュストは外交官を見つめていた。
「かわいそうに……」
その声には、本気の哀れみが滲んでいた。
「誰か! 直ちにあの者にクロワッサンを三十個持っていってやれ!」
給仕たちがバターの桶とパンを抱えて突進すると、外交官は悲鳴を上げて後退りした。
「や、やめてくれ! 私は別に病気ではありません!」
「病気の者ほどそう言うのだ! 頼むから食ってくれ!」
オーギュストが叫ぶ横で、マリー・アントワネットは骨付き肉を握り直し、ふとオーギュストの顔を覗き込んだ。
「ところでオーギュスト。あなた、今日は何キロお召し上がりになりましたの?」
「……朝食としては、クロワッサン三十個とザッハトルテ三個を」
「オーギュスト」
マリーの声が低くなった。
「あなた、病院へ行ったほうがよろしくてよ」
「……え?」
「その食事量、普通ではありませんわ」
「王妃様……」
オーギュストは涙を浮かべ、震える声で呟いた。
「私も……そう思います」




