第二十一話 鴉の内側
何故あのマスクがここにあるの⁉︎
あれはエルンストお兄様が、私に薬を飲ませてくれた時被っていたマスクのはず。
もう何が何だか分からなくて、頭の中はめちゃくちゃだ。
足の裏が床に縫い付けられてしまったように動けず、驚愕のままそのマスクを見つめる。
すると、不意に廊下の突き当たりのドアが、きいと音を立てて開いた。
「レベッカさん⁉︎ どうしてここに⁉︎ 寝ていなければ駄目じゃないですか!」
「先生……あのマスク、どういうことですか……?」
心配そうに駆け寄る先生の言葉を無視して、私はその質問だけを、どうにか喉から絞り出した。
あの特徴的な形のマスクは、後にも先にも、エルンストお兄様が薬をくださった時にしか見たことがない。
そのお兄様はもう亡くなってしまった。なのに、どうしてヴァールハイト先生がこれを持っているのか。
頭の中でいくら考えても、その答えは導き出せそうになかった。
「あのマスクは……。話せば長くなります。レベッカさんの体調も心配ですから、座って話しましょう」
そう言って先生は、今出て来たばかりの突き当たりの部屋のドアを押し開けて、中へと私を導いた。
そこはまるで何かの研究室のようだった。部屋の上部に明かり取りの窓が取り付けられており、思ったほど真っ暗というわけではない。
燭台の灯りも相まってぼんやりとした薄明かりの中に沈むその部屋は、王宮のラウラの部屋ほどの大きさだった。壁一面に作り付けられた本棚から溢れ出るように、床にも本が積まれている。
中央に一脚の一人掛け用ソファーが置かれていて、部屋の奥には大きなテーブルの上に、雑然と本や書きかけのノートなどが広げられている。
いつもきっちりとして礼儀正しい先生の印象とは、あまりにかけ離れた部屋だった。
「散らかっていて申し訳ありません。どうも集中すると周りが見えなくなってしまうたちでして……。どうぞ、お掛けください」
先生は慌てたようにテーブルの上の本やノートを片付けながら、部屋の中央のソファーを私に勧める。かく言う自分は、テーブルの前の木の椅子をソファーの側に運び、腰を下ろした。
「レベッカさんも、あのマスクが何だかご存知だったのですね」
「えっと……」
どう答えていいか分からず、口を噤む。
私自身が王女でなければ、あのマスクを知っている理由がない。また夢を見たというべきか。
そう思いを巡らせたところで、ふと違和感を覚える。
先生の様子が、どうも「知っていてもおかしくない」と思っているように感じられるのだ。
「王宮で勤めていたら、確かに知る機会はあるでしょうね。シュトルツェリア王国の国旗は、あのマスクを模したものですから」
「えっ⁉︎」
シュトルツェリア王国の国旗には、青地に横を向いた鴉が描かれている。
その意味を特に考えたことはなく、ただオスカー自身の色合いを図案に落とし込んだのだろうと、ぼんやり思っていたのだが……。
言われてみれば、あの鴉は、このマスクのような形をしていなかったか。
「それって、どういう……」
「ノイアンファングは成り立ちが特殊ですからね。その象徴であるこのマスクを、国旗にしているんですよ」
「ま、待ってください。訳がわかりません。ノイアンファング? それは何ですか?」
混乱のあまり、先生の言葉を遮って質問した私に、先生は不思議そうに首を傾げた。
「おや、初耳でしたか? ノイアンファングは、旧王家に対する反政府組織の名ですよ」
「それは……ゲーグナーみたいなものですか?」
ゲーグナーについては、かつて王女だった時代に何度も耳にした名前だ。
王家に反対し数々な暴挙に出て、王家も民衆も危険に晒した恐ろしい組織。それがゲーグナーだ。
そのゲーグナー以外に、王家に反対している勢力があるとは初耳だった。けれど、確かに現在の王権がクーデターによって立ち上がったのであれば、そうした組織があって然るべきだろう。
何もオスカーやニクラスが個人で戦った訳でもあるまい。
一つ一つ、自分自身の無知を恥じながら、思考を巡らせて考えを組み立てていく。
しかしそんな私の一言に、先生はとても渋い表情を見せた。
「ゲーグナーとは……。久々にその名前を聞きました。ゲーグナーは、ノイアンファングのことを旧王家派が侮蔑の意味を込めて付けた呼び方ですよ。ゲーグナーとは古代語で『無法者』という意味ですからね」
私は再び、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
つまり今の政権は、ゲーグナーが作り上げたものだということか……!
あの、忌み嫌われた、荒くれ者の集団が……!
オスカーも、ゲーグナーの一員だったというのか……!
これまで、クーデターを起こしたのはゲーグナーとは全く異なるものだと思っていた。何せゲーグナーは、野蛮で、愚かで、王家に決して敵わない者たちだと言われてきたから。
……いや、私だって、その可能性を考えなかった訳じゃない。状況を整理すれば、自ずと答えは見えてくる。
けれど、ゲーグナーたちはオスカーが王宮に居る頃から活動していた。だから、きっと別物なのだろうと、そう思っていた。……思おうとしていた。
そうでなければ、オスカーが私の目の前で見せていたあの表情までも、偽物だった可能性が出てくるから。
「一体どこでゲーグナーの呼び名を? ……もしや、あの『夢』で……」
先生の問いに、私は曖昧に頷く。
先生はそれを私の返答だと認識したようだった。
「先生。しかし何故、あのマスクがノイアンファングの象徴になっているんですか?」
「元々ノイアンファングは、流行病から人々を救うために立ち上がった医師たちの集まりだったからです。あのマスクの嘴の先には薬草が詰められていて、自らが感染することを避けながら、医師たちは患者の治療に当たっていました。しかし印象的なその姿から、ノイアンファングという組織の一員であることを示すものとなったのです」
聞けば聞くほど分からなくなる。
ゲーグナー……ノイアンファングとあのマスクの繋がりは分かった。
けれど、それを何故、エルンストお兄様は身に付けていたの?
単に流行病に罹らない世にするため? いや、だとしても、どうやってあのマスクをお兄様は手に入れたのだろう。
あの時王家とノイアンファングは、完全に対立していたはず。何度考えても、理由が分からない。
お兄様があのマスクを被っていたのは何故?
そもそも――あれは、本当にエルンストお兄様だったの?
「レベッカさん、大丈夫ですか? また顔色が悪くなって来ましたね。早く上の階に上がって、横になってください」
「……あのマスクがここにあるということは、つまり先生も、ノイアンファングの一員だったということですか?」
心配そうな表情で立ち上がり、私の背中に手を添える先生を無視して、重ねて質問をぶつける。
そう、まだここにマスクがある理由を、私は先生の口から聞いていない。
「それは……」
言い淀んだ先生の言葉を待たずして、コンコンとドアがノックされ、慌てた様子のメイドが顔を覗かせた。
「ご主人様! 何とか一人お医者様をお呼びできましたのに、お客様がどこにもいらっしゃらないんです!」
そう言うや否や、彼女は部屋の中にいる私を目に留めて、ハッとした顔をした。
あちこち探し回ったのか、彼女の額には汗が浮いている。
どうやら使用人たちが誰も居なかったのは、医師を連れて来るのに時間がかかっていたからのようだ。
「レベッカさん、医師が着いたようです。上に行って、診察を受けてください」
先生は有無を言わさぬ態度でそう言って、出口へと向かっていく。
「先生! でも話の続きが……!」
先生の背中に声を掛けるも、まるで聞こえなかったかのように彼は部屋を出て行った。
いっそ逃げ出したと言ってもいいほどの素早さで、あっという間に扉の影に姿を消してしまった。
その後、なんとか続きの話を聞けないかと機会を伺ったものの、先生は頑なに口を閉ざし、医師の診察を受けた後すぐに馬車に乗せられてしまった。
私が信じていた世界が大幅に揺らぎ、何かが大きく変わっていくのを感じる。
先生は、どうして最後まで教えてくれなかったのだろう。
そもそも、考えてみれば先生の話をそのまま全て信じてもいいのかすら分からない。
全部、私に知識がないから。私があまりに無知だから、何も判断することができないのだ。
手の甲が白くなるほど手を握り締め、ぎりっと歯を鳴らす。
アルノー様が言っていた、『無知の揺籠』という言葉を思い出した。
そうだ。私は何も知らない、まるで赤子のようではないか。
自己嫌悪と猜疑心が、胸の中の重しになって深く沈んでいく。
結局肝心なことは何もわからないまま、私は暗い気持ちで馬車に揺られるしかなかった。




