帰道(23)
*
――ミ!
――ガミ!
モガミ・ケイジ・カルコースの混濁した意識の中に、遠くから自分の呼ぶ声がこだまする。決して忘れぬ主の声が。我が身に変えても護らねばならぬ主の声が。
呆けている場合ではなかった。
「モガミ!?」
意識を取り戻したモガミが両眼をゆっくりと開いた時に、霞む視界にまず最初に目に入ったのは主である所長の涙ぐむ貌であった。
モガミの瞳が弱々しく開く様を認めたと同時に、所長の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。頬にその温かみを感じながら、モガミが口を開き最初に所長に尋ねたのは如何にも忍者の頭領らしきものであった。
「状況は……?」
隠しきれない力無い声。正座した膝の上にモガミの頭を抱いた所長は、短い逡巡の後に正直に答えることに決めた。
「“守衛”の襲撃から既に三時間、状況に変化はありません」
切々と語る所長の貌が、“黒き棺の丘”のある天を仰ぎ見る。
「コルテラーナの“雨”も止んだままです。まだ趨勢は決していないということでしょう」
「……」
モガミは一旦両眼を閉じると深く静かに呼吸を始める。一度に留まらず二度、三度。全身の感覚が急速に戻りつつあることを認識してから、彼は次の疑念を口にした。
「敵は?」
香天花イグラッフの毒が、彼に対して致命傷にならなかったのには無論理由がある。
忍者として毒物への耐性を高める修練を積んでいたのは勿論、モガミの血中には抗毒ナノマシンが予め注入されていた。イグラッフの猛毒は幸いにも、そのナノマシンが抗体化可能な毒であったのだ。
だが毒自体が致命傷にならなかったのはあくまで運が良かったというだけであり言わば偶然の産物である。そもそもナノマシンが毒を無効化するにしても、あくまで敵地での潜伏の際の生存率を高める目的としてである。逃げ延びた潜伏中に身体を治癒することが可能となるように。
決して戦闘の最中に毒を無効化するような類いのものではない。それを理解していたからこそ、モガミはイグラッフに組み付き諸共の自爆を目論んだのだ。
だが実際は爆散どころか五体無事のままである。所長が居るということはイグラッフがこの場から退散したことまでは分かる。だが、失神した自分を放置した、その理由までは分からない。
所長の膝の上に抱かれていた身をノロノロと起こしたモガミは、イグラッフが退散したという自分の認識そのものが間違っていた事を知ることとなった。
自分達の周囲にシノバイド達が散会しており、周辺を警戒している姿が見えた。その頭数は精々が両手の指で足りる程度でしかない。流石に全員がこの場に一斉に集っている訳ではあるまいが、それでも死者の数は――始めから分かっていたこととは云え――甚大なものであった。
そしてシノバイド達による警戒網の中心、モガミ達から少し離れた一角に大きな窪地があり、その縁に立ったバロウルが底にある何かを見下ろしている姿が見えた。
モガミはヨロヨロと立ち上がり、吸い寄せられるように自らの脚でその窪地に向かった。肩を貸そうと申し出ても断られることを承知している所長は、無言のままその後に続いた。
「お前か――」
極小の爆心地――そう表現するのが妥当な窪地であっただろう。何かが激しく衝突した事を現すひび割れ砕けた大地。その中心部には黒い物体が蹲っていた。傍らに転がっている細長い物体が、もげた鋼の手脚であることはすぐに分かった。
「クロウ…!」
忍者として感情を表に出さない訓練を積んだモガミではあったが、その口から思わず愕然とした呟きが漏れる。
戸惑うモガミに対し背後の所長が、自分も目撃したシノバイドから聞いた話だと断ってから経緯の説明を始める。
モガミの自爆は果たされなかった。
起爆指示を受けたにも関わらず、クロウはそれを実行しなかった。その代わりに黒色の護衛機が取った行動も、それに掠りもしないものであった。
意識を喪ったモガミの体が力を失い、それまで抱き付いていたイグラッフの躰から崩れ落ちる。その体を蹴り飛ばし完全に引き剥がしたイグラッフの背後に、突如として今度はクロウが組み付いた
虚を突かれた形となったイグラッフを掴んだまま、クロウがその場で飛び立ち急上昇する。
本来ならばクロウは飛べない。正確には短時間の飛行能力は備えていたが、飛ぶ為に必要な木星ヘリウム自体がとうに尽き果てていた。
にも関わらずに飛べたと云うことは、すなわち“旗手”として得た“力”の顕現であった。
イグラッフを抱き抱えたまま急上昇したクロウは間髪入れずに次の行動に移った。背面ノズルを噴かし加速を掛けて、今度は逆に地に向かって降下したのである。
それはむしろ突撃と言った方が正確であっただろう。イグラッフが何もできぬ内にクロウは諸共に地に追突し、砕き、坑をその場に穿った。
圧殺される形となったイグラッフは塵と化して消え失せ、クロウもまたその自爆めいた機動の代償として四肢がバラバラに砕けた。
所長による説明は以上であった。
「……」
クロウの行ったという一連の挙動についてはモガミにも憶えがあった。彼の修めた葦名流において、科学技術――或いはいまだに原理が未解明な俗に云う“呪法”――のような“外付け”の技を用いた闘法を“忍法”、己自身の肉体を用いた体術を“忍術”と呼称し区分していた。
そしてクロウが使ったと思しき忍術こそが――
『葦名忍術八種雷落トシ』
「!?」
一見、全機能を停止しているように見えたクロウであったが、モガミと所長が傍らに立ったことで不意に言葉を発した。
『見ヨウ見マネデシタガ巧クイキマシタ』
人間であったら苦笑交じりの声であったのだろうが、護衛機の音声にそこまでの愛嬌は持たされてはいない。それを知るモガミも所長もどう反応するのが良いのか、返すべき言葉をすぐには見つけることができなかった。
本来、クロウとシロウに自我は無い。応対可能なAIは無論搭載されているが、それは“自我”とはまた別の話である。
だが、この閉じた世界に観測船『瑞穂』と共に墜ちて以降、クロウとシロウに自我が芽生えたのではないかと所長とモガミが訝しむ機会が幾度かあった。コルテラーナより、この世界に墜ちて来た者は“旗手”候補として身体が変容すると教えられたことで、その疑念は確信へと変わった。
四肢を備えた人の似姿であるクロウとシロウにもまた、何らかの変化が生じたのだと。それが“自我”の萌芽に繋がったのではないかと。
モガミが司書長ガザル=シークエより譲渡された“旗”をクロウに与え“旗手”とする奇策に出たのも、それが前提にあってのことであった。
「今まで良く仕えてくれました」
所長は胸部から上しか元の形を保っていないクロウの脇にしゃがみ込みと、その頭部を愛しげに撫でた。本当は手を握ってやりたがったが、その為の腕部はもげており、所長は自分の従者の名を呼ぶことでその労をねぎらうことしかできなかった。
「礼を言います、九郎判官」
黒い機体色の『九郎判官』と赤い機体色の『諏訪四郎』――両名共に所長自らが歴史上の人物から名付けた識別名である。
『妙子様。護神様。最期ニ一ツダケ御願イガアリマス』
改めて自分達の名を呼ぶクロウの声に、当人である所長とモガミだけでなく傍で黙って見守っていたバロウルまでもがハッと表情を固くした。抑揚の無い合成音声でありながらも、クロウは確かに『最期の願い』と言った。それが“彼”の遺言であることは明らかであった。
『私ノ蓄積シタ情報ハ全テ四郎ニ転送シ共有ヲ終エマシタ。私ノ機能ガ停止シタ後、“旗”ハ四郎ニ与エテクダサイ』
「……分かりました」
もし、もしも“黒き棺の丘”の爆破に成功してサリアが消滅したとしても、サリアの“夢”の産物である“旗”が残存する可能性は低いだろう。だが、それを理解しながらも、それでも所長はクロウにそう即答した。即答してみせた。
『御手ヲ煩ワセ…申シ訳…アリマ……』
クロウの声が途切れがちになり、そして完全に絶える。明滅を重ねていた両眼の輝きが消え失せる。
「……っ!」
バロウルが、哀しげに貌を逸らす。それが人間でいう“死”にあたることは誰の目にも明らかであった。
所長は握ったクロウの指を離そうとはしなかった。
「……この世界に墜ちてから、遺されたのは私と貴方とシロウ、とうとう3人だけになってしまった」
しばしの黙祷の後、所長はモガミに対しそう語り始める。
「そして、私を護る為に貴方の配下にも多くの犠牲を出してしまった」
「……はっ」
それだけを短くモガミは応える。元よりその為に鍛え上げたシノバイドだなどとは、流石の彼も口に出すことを憚った。
「それに加え、始めから死んで貰う為にキャリバーを送り出した。機兵だけではなく、最期までそれに寄り添うだろうと知りながら、ナナムゥとミィアーも送り出してしまった」
「はっ」
握っていたクロウの手をその鋼の胸の上にそっと添えると、所長は立ち上がり改めてモガミに向き直った。
「モガミ、彼等の働きに報いる為にも私達は生きねばなりません」
それが所長が自らに言い聞かせているだということを、モガミは察した。
「良い国を造る、というのがどういうものなのか私にはいまだ分からない。それでもそれを目指さなければ」
「はっ」
コルテラーナの滅びの赤い雨が降り注いでいない以上、作戦が失敗した訳では無いのだろうが、今のこの時点で満身創痍に近いモガミが出来ることは何も無い。
一つのケジメとして、それでも“黒き棺の丘”を目指すという選択肢もありはした。ナナムゥとミィアーがそうしたように。
しかしモガミは所長の傍らに居ることを選んだ。
(後は祈るだけだが、しかし――)
彼が知る限りの祈るべき神仏がこの世界には居ないことをモガミは知っていた。さりとてガルアルスのような“バケモノ”に祈る気にも到底なれなかった。
所長とモガミはどちらからともなく揃って彼方の“黒き棺の丘”の方角を見上げ、終わりの――そして願わくは始まりの――刻が訪れるのを待った。
(キャリバー……)
傍らに立つバロウルにもまた祈るべき神はいない。それでも彼女は知りもしない何者かに祈り、己の無力さに悔い、一筋の涙を流した。
*
キャリバーの石の巨体が勢いに負けノタノタと後方に数歩下がる。胸部を裂かれたことで臓物めいて捲き散らかされた紅い水晶片がその足下で踏み砕かれる。
だが兄妹の意識がそちらに向くことは共に無かった。それ以上の変化が彼等を襲い翻弄していたからである。
まずは天地がひっくり返るような大きな衝撃が兄妹を襲った。それは彼等の屍が収められた忌動器が遂に機兵の胸部から転がり落ちた衝撃であったのだが、それを理解する暇すら兄妹には与えられなかった。
忌動器の半透明の薄い外装が砕ける音すらもその耳に届きはしない。
突然の眩い輝きが彼等兄妹の視界を一時的とはいえ眩ます。それは果てなく広がる白亜の空間がもたらす輝きであった。
「くっ…!」
外気が彼等兄妹の肌を一時的とはいえ凍えさす。それは果てなく広がる白亜の空間がもたらす澱みが故であった。
投げ出された地面の固さが錯乱する兄妹を我に戻す。砕けた忌動器の内からノロノロと身を起こす兄妹。上体を起こす為に腕を伸ばし、その指先が力を込めて床面に爪を立てる。
「――!?」
それまであまりに違和感が無かった為に、兄は両の瞳が視界を取り戻した時に始めて視界に入った己の今の姿に激しい衝撃を受けた。
自分も妹も――バロウルの話では――爆炎に焼かれ互いの半屍体が癒着する程の損傷を受けている筈であった。だが今の自分には傷一つない四肢があった。五感があった。
加えて、全裸でもあった。
ハッと貌を上げた兄の視線が同じ様に驚愕に目を見開いた妹の視線とかち合う。
妹もまた一糸纏わぬ産まれたままの姿であったが、それ自体は兄にとっては二の次であった。
見つめ合った妹の瞳。奇麗な黒い瞳。だが、その瞳孔だけが紅かった。
妹の長い髪。うなじから胸元に流れる艶やかな黒髪。その髪の煌めきに仄かな紅みが混じるのが見えた。
妹の体がそうだということは、同じく自分もそうなのだろうと兄は恐れ慄いた。
眷属――その言葉が兄の脳裏をよぎる。ガルアルスから与えられたのは僅かに寿命を延ばす一時的な“活力”なのだとこれまで兄は認識していた。
だが、今の自分達兄妹の肉体が完全に再生している様を見て兄に新たな疑念が生じる。ガルアルスがそこまでの施しを自分達に与える義理などある筈も無い。結局の所、与えられたのは僅かな延命、仮初めの命でしかないのかもしれないと兄は推測を巡らす。
しかしそうではないことは肉体の内に宿る命の炎の熱さが雄弁に物語っていた。
(自分にそこまでしてもらう価値など……!)
愕然とする兄の頭上から声が響いたのはまさにその時であった。
『ここまで到達できたお前達に褒美を与えよう』
無論、ガルアルスの声ではない。
ハッと貌を上げた兄妹の前に浮かぶ灰色がかった陰から響く淡々とした声。
石の巨人の内部から放り出された生身の兄妹を前にしても特段の反応も無く――或いは元より承知の上か――それまでと変わらぬ鷹揚な宣告が兄妹に与えられる。
『クラムタルに基づきお前達を新たなイスとして据える』
依然として陰の発する単語の幾つかは理解出来ない。その言葉を借りるならば日本語として単語化できない概念であるのだろう。
だが、やろうとしていること自体は漠然とではあるが判った。“彫像”と化したサリアに変わり、自分達兄妹を新たにそこに据えようとしているのだということを。『新たなイス』とやらに。
「嫌よ!」
妹の――兄にとっては久方ぶりの――肉声が響くがそれに対する陰の態度は判決を下す裁判官のそれに等しいものであった。
『お前達に選択権は無い』
陰が両手を広げ天を仰ぐように大きく掲げる。
それが自分達にも理解出来るような敢えての仕草であることに、兄は言い様のない嫌悪感を覚えた。
『“我等”のクラムトを経てイスの適合と成せ』
始めて陰の性質に明確な変化が訪れる。靄のような朧な人の似姿の表層に、虹色の光沢が目まぐるしく飛び交う。白い世界に永劫にこだまするかのように響き渡る声。壁面など無いにも関わらず幾重にも反響するその様は、まさに儀式の始まりを告げる神々しさを覚えるものであった。
サリアに変わる逃れられない捕囚の運命を兄妹に告げる陰の声。
その異様な迫力に気圧され兄妹は身動ぎすることすら忘れ、只々その完遂の訪れを待った。
横にへたり込む妹の肩が、か細く震えているのが兄の視界の端に写る。おそらく自分も似たような醜態を晒しているのだと漠然と思った。
打ちのめされたまま果たしてどれ程の時間が過ぎたことだろう。変化の無い、白一色の単調な世界でそれは悠久の時間にすら感じられた。
だが――
「……?」
兄妹に対し、一切の変化は訪れなかった。
最初は勿体ぶることで自分達を精神的に嬲っているのだとも思った。だが、例えそうだとしても空白の時間はあまりにも永過ぎた。打ちのめされた兄妹が、絶望から我に返る余裕が発生する程までに。
訝しげな兄妹の目の前で陰もまた揺らぎ、表層が伸び、そして縮んだ。虹色の光彩が色褪せ、人の似姿を保つことすらも危ういものとなる。色褪せ露わとなった灰色の濃淡すらも縞模様のように目まぐるしく変わった。
「どうした?」
我ながら間抜けな声だと自覚しながらも兄は問い掛けの言葉を止めることができなかった。それは単に彼の怖れの裏返し、強がりしかなかったのかもしれない。しかし本人の意志はどうあれ、次に口を突いて出た言葉は煽りとしては覿面なものであった。
「“彼等”に見捨てられたか?」
その瞬間、見えない“力”が兄の躰を上から押し潰す。その顔が床を舐め、俗に云う土下座めいた格好となった。
「お兄ちゃんっ!?」
『下層次元の分際で図に乗るな!』
悲鳴じみた声を上げる妹の目の前で陰の表面が激しく波打つ。
怒っているのだと妹は感じ、そしてそれまで超然とした存在であったからこそ感じていた陰への畏怖の念が急激に瓦解していくことを彼女は知った。単純に言えば『理解できた』ということである。“怒り”を表に出したということは、得体の知れなさが失せたということでもあった。
『超高次元の存在である“我等”にとって――』
その先に、陰がどのようなご高説を垂れるつもりだったのか妹には予想だにできない。何を言われたところで自分には理解できなかったであろうことだけは自覚していた。
再び両腕を天に掲げる仕草を取る陰にとっては、低次元の存在である兄妹にも理解出来るような威嚇を継続していたのだろう。
しかし陰の“祈り”に応えたのは“彼等”――或いは“我等”――ではないまったくの別のモノであった。
誰もが予期せぬ轟音が陰に答えた。
その雷鳴にも似た轟音を耳にした妹が最初に連想したのは、電球が次々と破裂するという些か場違いな光景であった。とは云え、まるで外部から激しい一撃を加えられたかのように、それまで白一色であった空間が撓み、あちこちに亀裂が奔った。
そればかりか生じた亀裂のあちこちで白い壁面が崩れ落ち、その“向こう側”に漆黒の空間が顔を覗かせすらした。
「!?」
圧が失せ何とか上体を起こす兄とペタンと座り込んだままの妹の瞳が共に大きく見開かれる。
“向こう側”から、陰目掛けて紅い雷が投げ槍めいて飛び出す。最初の一撃を皮切りに、四方八方から文字通り雷火の如く次々とそれらは投じられた。
その全てが陰に突き刺さった訳ではない。狙いが逸れ白い床面に突き立った“雷”もまた多い。しかしまるで“旗”に貫かれ晒されているサリアの意趣返しが如く、針めいた“雷”が陰の靄めいた躰を激しく撃ち貫いた。
それが何者の導きによるものなのかを、その雷光の紅い輝きにより兄は全てを察した。陰が執り行おうとしていた何らかの儀式に対し、“彼等”から何の反応も返ってこなかったその理由も朧気と。
(結局、全てあの男のおかげということか……)
無論、感謝はあった。しかしそれ以上に己の不甲斐なさを感じた。
だが同じ血を引きながらも妹が咄嗟にとった行動は、力なく項垂れる兄とは対照的なものであった。
「――!」
彼女の目と鼻の先に、陰から逸れた紅雷が斜めに突き立つ。表面に炎を纏うその“雷”を素手で握ってどうなるかなどという些細な疑問は、妹の脳裏にはそもそも浮かびもしなかった。
強い憤りに突き動かされ、妹はその“雷”をむんずと掴むと、決して上品とは言えない叫びを上げて陰に向かって突撃した。
「このぉっ!!」
「ふたはっ!?」
兄の驚愕の声を背に、バットを振り下ろす要領で妹は陰に打ち掛かった。いわば実体の無い靄に対する一撃である。それは虚しく擦り抜けてしまうのではないかと兄は危惧した。
だが苦悶の叫びのようなものこそ皆無であったが陰の躰が大きく仰け反る。先程兄の体を地に押し潰したように見えない“圧”で弾き飛ばそうとしたのか、腕の部分が横殴りに妹を襲う。
「ふたはっ!」
自分への“圧”が消失した事もあり、兄は妹を助けに駆け寄ろうとはしたが到底間に合うものではない。
だが、妹の手から“雷”が弾き飛ばされはしたものの、躰自体はその場に留まった。むしろ彼女の躰に触れようとした陰の腕の方が塵と化す。ほんの一瞬、妹の躰を中心に半透明の円系の“力場”が生じた事を、兄妹は確かに視た気がした。
『無駄、無意味、無力』
明らかに陰にとっても想定外の現象だったのだろう。表面を激しく波打たせながら、それでも尊大な口調で陰は兄妹に告げた。
『我こそは“我等”の“目”であり“カリス”であり“指”であり“舌”である。お前達が理解できるところの無限、無敵、無尽、それこそが“我等”――』
今度こそ、兄は妹の元に駆けた。
自らの肉体がこれまで体感したことが無い程に軽やかであることを兄は実感していた。それは己の肉体が“再生”ではなく“変容”を遂げた事を示す何よりの証であったが、兄は敢えてそれを無視した。
幼い頃から妹を護りたいと願ってきた。
だが己にはその為に必要な力が欠けていた。
今、その“力”がこの身にはある。
例えそれが恥ずべき恵んで貰った力であったとしても。
妹の手から弾き飛ばされ宙で回転する“雷”を器用に掴み取ると、兄は先程の妹のソレに負けず劣らずの雄叫びを放った。普段の彼の口が決して発することのない上品とは程遠い、それ故に正真正銘の魂の叫びであった。
「喧しいっ!」
高校の授業で剣道を齧っていた為か、兄の一撃は妹のそれよりは多少はマシであった。
元々兄のその斬撃を受ける前に、貫通した数多の“雷”により陰は千切れる寸前ではあった。彼の一撃はその最後の一押しでしかなかったのかもしれない。
真相は兎も角、それでも拙い彼の一撃を受けて、陰の躰は千々に弾け飛び、失せた。
恨み言どころか断末魔の叫び一つ上がらない音無き消滅。兄妹の積み上がった憤りに対し、それは随分と呆気ない幕引きだとも言えた。
ただ静寂が訪れたことだけは確かであった。
「……」
陰が消滅すると同時に兄の手の内の“雷”もまた燃え尽きたように消失する。陰の躰を引き裂き地に突き立った他の“雷”も同様である。白面の空間に生じた変容でいまだに残存しているのは、四方に広がる亀裂とその“向こう側”に覗く暗黒の異空間だけであった。
「お兄ちゃん?」
俯き佇んだままの兄に、妹は少し躊躇った後におずおずと声を掛けた。終わったという感覚は彼女にとってもまた稀薄なものであった。
「やっぱり、ガルアルスが助けてくれたの?」
「たぶんな…」
「“彼等”はガルアルスにやられちゃったの?」
「たぶんな…」
「そうなんだ…」
妹はいまだ俯く兄に懸命に話しかけ続けた。兄の意識が途切れがちだったことを、今更ながらに思い出したからである。
「でも、ガルアルスはこの世界のことが見えなくなるって言ってなかった?」
妹の疑問に兄の肩がピクリと震える。
「……例えこの世界のことは見えなくとも、眷属…と言っても分からんか。要は子分のことは感知できたんだろう」
吐き捨てるように答えた兄は、そこで始めて貌を上げ妹の貌を見つめた。互いが全裸のままであるが、兄の真剣な眼差しは彼にとって既にそれすらも意識の外にあることを示していた。
その兄の指が白亜の空間に生じた“向こう側”の一つを指差し、おもむろに妹に告げた。
「ふたは、お前はあそこから脱出しろ」
おかげさまで次回ついに--ようやく--完結となります。
その際は、本編、エピローグ、後書きの3ファイルを同時投稿する予定です。
意図していませんでしたが、全200話+後書きの切りよい話数で終わりそうです。
とは云え、200話の内の一つは「次回予告」という何とも締まらない話ではありますが。




