第39話 影に集う者
一方、スラム街の奥に逃げ込んだローブの男は、クルゴスが伝令のスクロールを読んでいる時、薄暗い地下道を通っていた。
低い天井の地下道は、壁には辺りに漂う湿気のため水滴が張りつき、床には深さ一センチほどの水の流れがあった。
ひちゃぴちゃと地下道を通る音がする。ローブの男は例の青年を抱え、その前を、ローブの男を家に招き入れた女性が松明を持って歩いていた。
「なぁあんた。一体どこから来たんだい?」
松明を持った女性は、大きな声で言った。その声は地下道の中に陰々《いんいん》と響いた。
ローブの男は、相変わらず黙ったままである。
「あたしゃ、バラコア。みんなバラコアのかぁさんって呼んでるよ」
バラコアと名乗った女性は、大きな声で笑いながら言った。
彼女の体は大きく、いかにも「おかみさん」といった風体である。元気な威勢のよい声は、周りの者達を和ませる不思議な力があった。
ローブの男は、黙ったままバラコアの後ろをずっと付いてきていた。
彼らのかわす会話のほとんどが、このようなバラコアの一方的な話しかけであった。
彼らは、地下道を進むうちに、右手の壁が大きく窪んでおり、その先に階段があるところに出た。バラコアは、
「さぁ、ここだ。もうすぐだよ。しっかりするんだよ、ビトラ」
ローブの男が抱えている青年に向かって、そう言った。
そして、壁の奥の階段を登り始めた。
ローブの男は、素早く後ろを確認すると、バラコアの後に続いて階段を登った。
階段はそう長くはなかった。途中から地下道のような湿気がなくなり、壁には、ぽつんぽつんと松明も掛けられていた。
バラコアは、空いている松明台の上に、手にしていた松明を掛けると、後ろを振り返った。
「もうすぐ休める。さぁ、早くおし」
そう言うと、さっさと階段を登っていった。
ローブの男は、バラコアに促されると、少し足を速めて階段を登った。
しばらく登ったところに終点はあった。階段が途切れ、左側に木製の扉があるところに出た。
その奥には、まだ階段が続いているようであったが、バラコアは、扉の前で立ち止まり、何か合言葉のようなものを扉の小窓に向かって言っていた。
ローブの男は、バラコアの後ろに立って、扉の小窓から見える目に注目した。
小窓から見える目は、ローブの男を目にすると、胡散臭そうな様子を見せた。
「何をやってるんだい。この人はビトラの恩人だよ。さっさと開けとくれ!」
バラコアは、扉を蹴飛ばした。そうすると中から男の声がした。
「分かったよ。開けるから扉を壊さんでくれよ、バラコアのかぁさん」
声の主と思われる人物は、小窓をぴしゃりと閉めると、鍵をじゃらじゃら言わせながら、扉を開けた。
開けられた扉の中は広い部屋になっており、何人かの男女がいた。
「さぁ、早く入りな。やつらに見つかるとやばいぜ」
そう言ったのは、扉を開けた男である。
彼は、小柄な体を扉から覗かせると、辺りをうかがい、手招きをしていた。
バラコアは、ローブの男の手を引くと、すぐに部屋の中に入った。
扉の前にいた小男は、誰も見ていないことを確認すると、さっと身を部屋の中に隠し、再び扉を固く閉ざした。
部屋の中には、先ほど扉を開けた小男、机のそばに座っている老人がいた。
ベッドの前には、白い服を着た小さな眼鏡をかけた男と、同じく白い服を着た若い女性がおり、暖炉のそばには、筋肉質な体を持ち、頭を完全につるつるに剃っている巨漢がいた。
「さぁ、早くビトラをそのベッドに寝かせておやり。
グレーベ先生、手当を頼むよ」
バラコアは、ベッドのそばにいた白衣の男に向かってそう言った。
「あいよぉ。でも一体どうしたんじゃ、随分傷だらけになっておるがのぉ」
グレーベと呼ばれた男は、小さな眼鏡を軽く持ち上げながら、ベッドに寝かされたビトラ青年を見た。
「こりゃいかん。早く手当をせねば傷口から悪い悪魔が入りよる。
ファルコーネ、そこにある薬瓶をとっておくれ」
「はい、先生」
そう答えたのは、白衣の男の横にいた女性である。
「この眼鏡をかけたのが、グレーベ先生。ラムセス市のスラム街で唯一の医者だよ。
そして、その隣にいるのがファルコーネ。グレーベ先生の助手をやっている女の子だよ。
若いのにしっかりしていてねぇ」
バラコアは、そう彼らを紹介した。
グレーベは、ビトラの手当を優先し、ローブの男にはあまり気を掛けていなかった。
ファルコーネは、薬瓶をグレーベに渡すと、ちらりとローブの男を見て、小さくうなずくように挨拶をした。
グレーベは、五十代の半ばほどの年である。薄くなった頭を、髪の毛を必死に広げて隠しているのが、背の高いローブの男には丸見えであった。
隣のファルコーネは、まだ十八か十九ほどの年のようであった。張りのある奇麗な肌や唇が、まだ女性ではなく、少女といった様子をあらわしていた。
「これでよしと。でぇ……」
グレーベは、ビトラの手当を一通り済ませると、そばにある椅子に座り、ローブの男を見上げた。そして、言った。
「あんたは何者かのぉ」
口調は穏やかである。だが、眼鏡の奥にある瞳は警戒の色を帯びていた。
「そうだ、てめぇは何者なんだ」
そう言ったのは、暖炉のそばに座っていた巨漢である。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、威圧するようにローブの男の胸ぐらをつかんだ。
巨漢はローブの男と同じぐらいの背の高さである。だが、横幅はローブの男の倍はあるように思えた。
すさまじく発達した胸筋は厚い胸板を形成し、太い腕は丸太のようである。彼は、ローブの男を持ち上げるように腕を上に上げた。
「やめなよ、あんた」
バラコアは、巨漢に向かってそう言った。だが、巨漢はそんなバラコアの言葉を耳には入れていないようであった。
巨漢は、ぐいと腕を上に上げ、ローブの男を宙吊りにしようとした──が、上がってはいなかった。
ローブの男は、自分の左手で胸ぐらを掴んでいる巨漢の手を握り、そのまま巨漢を押さえつけているのである。
巨漢の顔つきは次第に本気になっていった。
「ぐおおぉぉぉぉぉ!!」
部屋の中に巨漢の力む声が響く。だが、一向にローブの男は、持ち上がらなかった。
しばらくそんな状態が続いていたが、巨漢は次第に息を切らしてきた。それを見計らって今度はローブの男が動いた。
彼は、右手を巨漢の手の下側から握った。ちょうど、左手と右手とで、巨漢の手を挟むようにである。そして、自分の右肩を巨漢の顔に向けて振った。すると、今まで不動であった巨漢の体が傾いた。
巨漢は、ぐあぁぁぁぁっという声とともに、前のめりに倒れ込み、完全にローブの男によって固められてしまっていた。
「ほら言わんこちゃないよ。あんたみたいな、ただの筋肉ダルマではこの人には勝てっこないんだよ」
バラコアは、軽く笑いながらそう言った。巨漢は、ぐぅぅぅぅっとただ唸りながら、しゃがみこんでいるだけだった。
「もう離してやったらどうかね」
そう言ったのは、テーブルのそばに座っていた老人である。
ローブの男は、その言葉を聞くとすぐに巨漢の手を離した。
巨漢は、どさっと尻もちをつくと、胸ぐらをつかんでいた方の手の手首をさすりながら、冷や汗を拭った。
「私の名前は、タホス。このような無力な老人だ……」
タホスは、軽く両手を上げ、降参の意思表示をした。
「このでかぶつは、あたしの夫で、ガスク。こんな筋肉ダルマだけど、人よりはずっと力があるよ」
バラコアはそう言いながら、ガスクの頭をげんこつで小突いた。
「わかったよ、かかあ。よろしくな、あんた」
ガスクは、やや苦笑ぎみに、ローブの男に手を差し出した。
ローブの男はその手を握り、軽く握手をかわした。
「ガスクが失礼なことしたのをお詫びします」
タホスは立ち上がり、ローブの男に向かって頭を下げた。そして言葉を続けた。
「あなたは、一体何者なのですか?」
ここにいる誰もが知りたがっていることを、彼は尋ねた。彼らは、じっとローブの男を見つめた。
その問いへの答えが、止まっていた彼らの運命の歯車を大きく回し始める。




