4.エピローグ
帝都の夜は静かに更けていた。
月明かりが大理石の床に落ち、白銀のように広間を照らしている。
クリスティーヌは皇帝の隣に座し、盃に口をつける兄を見つめていた。
「よくやった、クリスティーヌ」
皇帝は静かに告げる。その声音には満足が滲んでいた。
「お兄様とこうして盃を交わすのは……三年ぶりにございますね」
「長い三年であった。だが、その間に其方は見事に役目を果たした」
皇帝の目は優しさを帯びながらも、冷たく光を宿していた。
温かな兄妹の語らいの裏に潜むのは、国をひとつ潰したという暗い影である。
王が「好色王」と呼ばれるまでに堕ちたのは、偶然ではなかった。
侍らせる女を選んだのはクリスティーヌであり、子が生まれぬよう密かに手を回したのも彼女であった。
噂は巧みに広められ、浪費や放蕩は誇張されて民の耳に届いた。
けれど彼女自身は、民衆の信を失うことはなかった。
病や飢えに苦しむ孤児に施しを与え、祭礼の場では民と同じ食を口にした。
身分や立場を問わず、誰に対しても分け隔てなく接し、労りの言葉を欠かさなかった。
人々は「王が堕ちても、王妃は民の光」と口にした。
もっとも、帝国に従うことを拒む貴族もいた。
だが彼らはある日突然に病を得て斃れ、あるいは夜のうちに姿を消した。
痕跡は残らず、声を上げる者もいない。
やがて宮廷には「信を失った国王に従うのは愚か」と囁かれるようになり、
結果として帝国に膝を屈する者ばかりが残った。
だからこそ、国が滅んだその日、流れた血は国王ただ一人のものだった。
民は彼女を慕い、帝国を迎え入れることをためらわなかったのである。
* * *
処刑の刻。
鎖につながれた国王は、雲ひとつない青空の下、刑場の壇上に引き出された。
燦々と降り注ぐ日差しは残酷なまでに鮮烈で、逃れる影はどこにもなかった。
民衆と貴族が見守る中、彼は最後の望みをかけるように声を震わせる。
「クリスティーヌ……其方だけは、私の味方であろう?」
彼女は人々の前に進み出て、穏やかに微笑んだ。
「ええ、陛下。……御心のままに」
その瞬間、高座にある皇帝が愉快げに笑った。
国王は目を見開き、凍りついたようにその光景を見つめる。
青空の下、跪くクリスティーヌと、その姿を満足げに見下ろす皇帝。
――その一瞬で悟ってしまった。
あの言葉は、決して自分に向けられたものではなかったのだと。
「……そうか……今ようやく、わかった……」
かすれ声が唇を震わせた。
クリスティーヌは瞼を伏せ、静かに言葉を紡ぐ。
「陛下が“好色王”と呼ばれるようになったのも、民の信を失ったのも……すべて、わたくしが内から仕組んだことにございます」
「……馬鹿な……」
国王の声は震えていた。だが、女たちの選別も、子の絶えた後宮も、民衆の嘲笑も――すべてが繋がっていく。
顔から血の気が引き、膝が砕けるように崩れ落ちた。
王の瞳から光が失われ、絶望だけがその顔に刻まれた。
その最期を、民衆の歓声が覆い隠した。
* * *
王が斃れ、王朝は終焉を迎えた。
側室やその娘たちは帝国の庇護のもとに置かれ、高位貴族には恩寵が与えられた。
恨みを買うこともなく、国は帝国へと吸収された。
人々は「帝国の華」を慕い、彼女が嫁いでいたことを理由に、新たな支配を抵抗なく受け入れた。
ただ一つ、胸の奥に残る影があった。
マルグリットが命を賭して託した赤子――あの男児の行方である。
兄の命によって城から姿を消したが、その後を知る者はいない。
皇帝の妹としては割り切るしかない。
だが、ひとりの女としては、命をかけた最期の願いを叶えてやれなかったことが悔やまれる。
せめて、どこかで無事に生きていてほしいと祈るばかりだった。
「帝国の華よ」
兄の声に思索を断たれ、クリスティーヌは顔を上げた。
月明かりに照らされた兄の瞳は冷たくも美しく、どこまでも彼女を捕らえて離さない。
「其方だけが頼りだ」
その言葉に、クリスティーヌは静かに微笑み、両手を胸に重ねて跪いた。
そう――彼女は「帝国の華」であり、ただひとり敬愛する兄に仕える道具なのだから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
まだ説明しきれなかった部分や至らぬ点もありますが、最後までお付き合いいただけたことに心から感謝いたします。




