第9話 ほんとのほんと
あたたかくて、おなかいっぱいで。
ニンゲンの青年の姿に変身中の海竜のイルムは、心地よい疲れの中、居眠りをしていた。
「イルム。起きて。炎の前でうたた寝しちゃ、危ないよ」
空びとの少年、リーフの声で、ハッと目覚めた。リーフはイルムの体が倒れないよう、支えてもくれていた。
「すまん。うっかり……」
炎というものは、危ないんだ、とリーフの言葉で気付かされる。これも、海の生活ではなかったものだ。
炎は、近くに置いたものでも変質させる。焼ける、というのだ。私もこれに触れたら丸焼き、ということだ。
「ザカナノニツケ」シリーズを思い出す。あれは焼いたのではなく「煮る」というものだったらしいが、海竜の丸焼きは、うまいのだろうか、などとぼんやり考える。
「イルム、疲れちゃったんだね。じゃあ、テントの準備をするね」
リーフは、リュック――リーフは、小さな背にリュックを背負っていた――を下ろした。そして、その中をごそごそと探す。
「なんだ、それは」
リーフが取り出したのは、バリバリに怒った大きめのフグくらいのサイズの、丸いものだった。リーフの背負っていたリュックというものと同じような材質だな、とイルムは思った。
「これに呪文を唱えると、テントになるんだよ」
テント、というものがなんなのかわからなかったが、百聞は一見に如かずとばかり、とりあえずイルムはリーフの様子を見守ることにした。
「丸く眠れし『マルマルアウトドアグッズ社製四人用ドームテント』、我の名にて目覚め、我にその真の実力見せつけよー」
リーフは、社名及び商品名の入った呪文を唱え、えいっ、と木の生えていない広くなっている場所に向け、丸いものを放り投げた。
「おおっ」
イルムが目を見張る中、空中でそれは形を変え――、草の上に落下するころには、上部に丸みがあり入口のある、ニンゲンが四人くらい中に入れそうな雨露しのげる物体に変化していた。まさに、四人用ドームテントだった。
「これが、テントというものか」
「そう。これが、テントというものだよ」
マルマルアウトドアグッズ社は、空の国の、外で活動するのに便利なものなどを販売している有名な会社なんだよ、とリーフは語り、さらには会社とはなにか、販売とはなにか、ついでに空の国のネット通販事情まで、イルムに軽く説明してあげた。
ニンゲンは、様々な場面に必要なものを工夫して作り出す……! そして、会社……! 働くとは、ニンゲン社会を支える多様で有益な活動……!
リーフの説明はとてもざっくりしていたし、イルムの理解もとてもざっくりしていたが、イルムは「バリバリに怒った大きめのフグくらいのサイズの、丸いもの」から示された、ニンゲンの長年の歴史の中で発展発達していった社会の仕組みというものに、思わず畏敬の念を抱いていた。
イルムが感動している間、リーフはテントの周り、なにやら呪文を唱えながら一周する。
「消せ消せ消せ消せ、こっち見んなー」
変な呪文だった。
「今のは、動物や怪物、あと虫なんかからも護る、護りの呪文だよ。気配をがっつり消してくれるんだ」
「護りの呪文……」
「これで、安心して眠れるよ」
たき火を消し、テントの中に入る。中には、毛布まで準備してあった。
リーフとイルムはそれぞれ毛布に入り、並んで横になった。
「イルム。今日はお疲れ様。おやすみなさい。ゆっくり休んでね」
「リーフ」
横になったものの、目を閉じず、イルムはリーフに声を掛けた。
「様々な体験をした。色々な物を見て、味わった。ニンゲンについて、ちょっと知ることができた。今日は、すごい一日だった。だが……」
イルムは今日の出来事を、頭の中で反芻しながらゆっくりと述べていた。
リーフはイルムの言葉を待つ。
「目覚めたら、すべて私の夢だった、そんなことは、ないだろうか」
イルムは怖かった。今までのこと、笑い合ったこと、驚いたこと、それから今が安全で快適で、外敵を気にせず眠れること――もっとも、海の強者であるイルムには、外敵はほとんどいなかった――、それらが全部イルムの空想で、本当は暗い海の底、いまだ封印されている身なのではないか、もしそうだったとしたら――、そう考えると、心が凍ってしまいそうなほど怖かったのだ。
もしまだ、果てしない孤独が続いているのだとしたら――。
イルムの手に、ぬくもり。イルムの心もとない冷たい手を、手を伸ばしたリーフが、両手のひらで包んでいた。
「僕は、いるよ。ちゃんと、ここに」
夢じゃない、その確かな証拠だった。
「安心して。今日のことは、全部、ほんとのほんとだよ。だから、大丈夫だよ。イルム」
「ほんとのほんと、か」
「うん。ほんとのほんと。おやすみなさい」
二度目の、おやすみなさい。
虫の声が遠く聞こえる。
「おやすみなさい」
イルムも、おやすみなさいを口にした。
まぶたの中、イルムの目が熱い。涙が、にじんでいた。
私は、本当に解放されたのだな。そして、過ごした時間は本物だった。
止まっていた時間に戻るのも怖かったが、進んだ時間が嘘であること、自分が生きた時間が嘘であることも怖かったのだ。
リーフ。ソル。まだ会ったことのない、マルテ。
嬉しい、と思った。自分には、繋がりがある、と思った。ソルはもう会えないかもしれないし、マルテには会ったことがないけれど、それでも、嬉しかった。
私は、ちゃんと世界と、未来と、繋がっている。
生きているんだ、二十年ぶりに思った。
音もなく、寝静まった森の中を移動する。ある気配を、探しながら。
それは、魔法。
「くそ。気配を消してやがるな……?」
黒づくめの、一人の男。目深に黒の帽子を被り、口元も、首に巻いた幅広の黒い布で隠している。男は呟く。男の頭上には、まるで付き従うような一羽の鳥が飛んでいた。
「確かに空から、降りてきた。空びと――。魔法石を持っている様子から、おそらくはあの者とは別の空びと……」
男は探していた。空から降りてきた、空びとを――。




