蜘蛛の網
蜘蛛の糸というのは存外に強い。
異世界の小説に、地獄から罪人を釣り上げるという話があるが、あながち空想の世界というわけでもないのだ。その強度は鋼と比べても強く、伸縮性も持ち合わせ、更には300度の熱にも耐えうる。
それが等身大サイズの蜘蛛に吐き出された、寄り集まった糸、罠というのは、人力では、とても抜け出せそうにない。
下手に魔力で強化された身体能力を持って抜け出そうとすると、鋼線に向かってバイクで突っ込んだように、輪切りされてしまう可能性もあった。
強い力を細い線で受けるのは危険。
そして熱で焼き切るのも難しい。
といってこのままじっとしていても事態が好転するとも思えなかった。
「脱出するしかないんだが……」
粘性のある糸は動けば動くほど接地面が増えていき、動きの自由を奪ってくる。そんな愚を犯すわけにはいかず、じっと気配を殺しながら策を練るしかない。
が、そんな悠長な事をしている時間はなかった。身動きの取れない獲物を見つけて、空からやってくるモノがいた。
「トンボかよ!?」
俺の目の前で器用にホバリングしながら小首を傾げる。大きな複眼と発達した顎、トンボという昆虫はかなり凶悪な肉食で、バリバリと獲物を噛み砕いて捕食する。
まずはしっかりと獲物を確保しようと、トゲの付いた足が伸びてきた。俺は身動きが取れないまま、1つの魔法を唱える。
「石化」
シャリルの首輪から脱するために編み出した元々は他人を石化させる魔法を自らに掛ける術。その制御はかなり細かくできるようにしてある。今は視界と魔法を唱える為の口元を除き、全身を硬化させた。
獲物が見せた唐突な動きに、トンボの動きはやや強引になる。足を掛けて引っ張るようにしながら噛み付いてきた。顎が開いて顔に迫ってくるのは、かなり肝の冷える映像だったが、さしもの顎も石を噛み砕くことはできなかったようだ。
そして俺に近づくということは、蜘蛛の網にも近づく事になる。その体を浮かせるための羽は、間断なく動いていて、その一端が網へと接触した。
ジジジッ!
失態に気づいたトンボは、脱しようと羽を震わせるが、蜘蛛の巣は簡単に壊れるほどやわなものではない。
そして空中でバランスを崩したトンボは、全身で蜘蛛の巣へとダイブしてしまう。蜘蛛はその振動で獲物が掛かったのを判断し、その強さで弱り具合を確かめる。
必死に藻掻くトンボはより複雑に網に絡まっていき、徐々に自由を奪われていく。凶悪な顎も自由に動けなければ脅威とはなりえない。
完全に縛られたトンボの様子を観察していたのか、蜘蛛がその姿を表す。細い足を持つ蜘蛛で、器用に足を動かして素早く近づいてきた。
トンボが最後の抵抗とばかりに、顎を打ち鳴らして威嚇するが、蜘蛛はお構いなしに糸を掛けて、さらに動きを封じていく。
最後に毒針をトンボへと打ち込み、トドメを刺す。蜘蛛の捕食はトンボと違って、毒を流し込み、体を溶かして啜るという方法。どっちがいいとかはないな、どっちもイヤだ。
トンボの処理を終えた蜘蛛は、器用に足を動かしてトンボを巣から剥がし、糸を使って本当の巣へと送り届ける。
あれだけの粘性の糸をどうやって剥がしているのか……そうか、蜘蛛は毒でタンパク質を溶かして捕食する。蜘蛛の糸もタンパク質でできているから、毒液で糸を切ることができるのか。
そしてその目がこちらを向いた。
毒針も石には通らないはずだが、万が一口や目に刺されたらマズい。とはいえ、ここから動こうにも巣の脱出方法はまだわかっていない。蜘蛛の毒のようなタンパク質を溶かす酸など持ち合わせてはいない。
素早く駆け寄ってきた蜘蛛は、その細い足を器用に動かし、俺の周囲をいじり始めた。するとゴトンと巣から剥がされ、地面へと転がされた。さらにぞんざいに蹴飛ばされ、巣から離れた位置へと戻される。
「??」
俺を放置した蜘蛛は、トンボや俺が掛かっていた場所を吐き出した糸と足とで修繕していく。
そして何事もなかったかのように去っていった。途中で巣に掛かっていた葉っぱも足でどけて。
「……もしかして、ゴミとして処理されたのか?」
蜘蛛というのは綺麗好きで、巣の透明度を上げる為に巣に掛かったゴミをこまめに掃除してまわるらしい。
石化で石と化した俺は、巣に掛かったゴミと思われたようだ。掛かってからあまり動かなかったのも功を奏したのかもしれない。
とりあえず周囲に気配がないのを確認して、俺は石化を解いた。
「……擬態もそうだが、待ち伏せや罠は厄介だな」
少なくとも蜘蛛の巣には掛からないように、微弱な風をまとって歩くことにした。空気の壁が、粘性のある糸を体に触れるのを防いでくれるだろう。
より慎重になりながら、俺は探索を続けた。




