001 名前を食べる竜
父は、世界でいちばん竜が嫌いだった。
「でかい。臭い。偉そう。話が長い」
私が十二歳の頃、酒場でそう言っていた。
「最後はお父さんも同じじゃない?」
頭を小突かれた。
「俺は必要なことしか喋らん」
父は昔、冒険者だった。
勇者でも英雄でもない。
それでも私には、どんな騎士より強かった。
◇
十三歳の冬。
左腕に黒い痣ができた。
神官は言った。
「魔蝕です。半年、長くて一年」
治す方法は一つ。
北の山に住む古竜だけが、魔蝕を消せるという。
父は露骨に嫌な顔をした。
「竜嫌いなのに」
「うるさい」
翌朝、父は荷をまとめた。
「行くぞ」
「でも嫌いなんでしょ」
「もっと嫌いなものができた」
「何?」
「お前が死ぬこと」
◇
北の山まで十二日。
最後の二日は、父が私を背負った。
「重い?」
「軽い」
「嘘」
「十三の小娘なんぞ荷物にもならん」
「帰ったら十四だよ」
「なら帰ってから言え」
背中は、ずっと暖かかった。
◇
古竜は銀色の鱗と黄金の目を持っていた。
『魔蝕か。治せる』
父の肩から力が抜けた。
「頼む」
『代価を貰う』
「何を」
『名だ』
竜は言った。
『お前が最も大切にしている者。その名に結びついた記憶も、感情も、縁も食らう』
私は父の袖を掴んだ。
「やめよう」
「半年しかないんだろ」
「でも」
父は私の頭を乱暴に撫でた。
「十四になるんだろ」
「なれるかわからないじゃん」
「なるんだよ」
そして竜を見た。
「やれ」
◇
白い光が消えた時、腕の痣はなくなっていた。
「お父さん!」
駆け寄ろうとした私を、父は見知らぬ者を見る目で見た。
「……誰だ?」
足が止まった。
『代価は支払われた』
竜が私を見る。
『この男が最も大切にしていた名は、お前だった』
◇
父は母のことを覚えていた。
家も、仕事も、自分の過去も。
忘れたのは私だけだった。
家へ戻ると、父は柱の傷を見つめた。
三歳。
四歳。
五歳。
私の背丈を毎年刻んだ跡。
「これ、俺が?」
「うん」
「覚えてない」
「うん」
「悪い」
「謝らないでよ」
父は困った顔をした。
「お前、昔からそんな感じだったのか」
私は泣きながら笑った。
「誰に似たと思ってるの」
「知らん」
「お父さんだよ」
◇
それから私たちは、もう一度家族になった。
父は十三歳までの私を知らない。
でも十四歳の私を知った。
十五歳。
十六歳。
十七歳。
少しずつ、新しい私を覚えた。
◇
私が三十六歳の時。
町に魔物が出た。
とっくに剣を置いていた父は、逃げ遅れた子供を庇って深手を負った。
神殿の治癒術師にも、魔物の毒までは消せなかった。
最後の夜。
私は寝台の横で父の手を握った。
「昔の私のこと、やっぱり覚えてない?」
「悪いな」
「また謝った」
父は少し笑った。
「でもな。たまに夢を見る」
「夢?」
「小さい女の子を背負ってる。顔は見えない」
胸が詰まった。
「川かな」
「うん」
「そいつ、ずっと笑ってる」
涙が落ちた。
父は目を閉じたまま言った。
「変だな。覚えてないはずなのに」
弱い声だった。
「夢の中じゃ、ちゃんと俺の娘なんだ」
それが最後の言葉だった。
◇
葬儀のあと、私は北の山へ行った。
古竜はまだそこにいた。
「本当に全部食べたの?」
『食った』
「じゃあ、どうして父は夢を見たの?」
古竜は黄金の目を細めた。
『我が食えるのは記憶と縁だ』
「でも?」
『その人間が、なぜその者を愛したのかまでは食えぬ』
風が吹いた。
『記憶を失おうと、同じ者を前にすれば、同じように愛することもある』
私は少し笑った。
「やっぱり偉そうだね」
『殺すぞ』
「父も同じこと言ってた」
『……そうか』
父は十三歳までの私を、最後まで思い出さなかった。
それでいい。
十四歳からの私は、全部覚えていてくれたから。




