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桜の夢路 〜守れなかった願いが導く異界譚〜  作者: 陰東 紅祢
第三章

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日常

 幽世の賑わう街は、これまでと変わらない。

 街ゆく人々はそれぞれがそれぞれに好きな会話をしながら通り過ぎてゆく。店を経営している店主たちも、意気揚々と客の呼び込みに精を出している。


 ただ、違っていたのは人々の反応だった。


 この日、麟と共に街に買い物に出ていたひなは、ひなを知る人達に出会う度に声をかけられたり、気にかけてくれたりと、空気が暖かい。


 ひなは、それを有り難くもむず痒く思った。

 自分を知ってくれた人達は、「ひな」と言う人間を正しく見てくれていた。それが今までで一番嬉しかったのだ。


「……私は、私のままでいいんだよね」


 買い物途中、少し休憩をするつもりで奈落の傍の広間にやってくる。少しだけ躊躇いがちにも手摺に手を掛け、この日も奈落上空に集まり出した火灯虫の幻想的な風景を見上げながら、ひなは静かにそう呟く。


 その光景は、依然として美しい。


 そんなひなの隣に静かに立った麟は、同じように上空を見上げる。そしてすぐに、ひなに視線を戻すとやんわりとほほ笑んだ。


「……ひな、行こうか」

「うん」


 麟の差し出した手を取り、二人は歩き出す。街に戻り、買い物を楽しむ内にひなの手には大きな風呂敷が一つ、握られた。

 中には職務中に飲むお茶やお菓子、屋敷で働く皆への差し入れや雑貨品が入っている。

 

 それを手に歩いていると、ふいに後ろから来た人物がひょいとそれを取り上げた。


「ヤタさん」


 驚いたひなの声に、ヤタは何も言わず二人の半歩前に立ち歩いている。


「鬼反屋のお婆ちゃん、大丈夫だったの?」

「……逃げてきた」


 振り返る事なく一言そう言うと、遥か後ろから鬼反屋の店主が、周りも驚いて足を止めて振り返るほど、ヤタに向かい熱いラブコールを叫んでいる声が聞こえてくる。いよいよ本格的に花嫁候補として全力で名乗りを上げているようで、目に余る厚化粧が浮いている。 


 よく見れば、ヤタの首筋に鳥肌が立っているのを目の当たりにして、ひなと麟は顔を見合わせ笑い出した。ヤタは若干青ざめた顔で眉間に深い皺を刻み、自分の肩越しに二人を睨むように見る。


 絶対に振り返らない。


 そんな強い意志を感じる背中の気迫に、ひなはおかしくてたまらなかった。


「……行くぞ」

「うん! 帰ったらお仕事しなくちゃね」


 そう言うと、三人は屋敷への道を急いだ。



       *****



「お帰りなさい」


 執務室へ戻ってくると、中では獅那と糾卯が書物の整理をしていた。部屋の中は気を抜けばすぐに書物に埋もれてしまう。


「ちょっと離れると凄い事になっちゃうね」

「そうですね。現世での生死に終わりはありませんから」

「でも、今日は比較的少ない方だと思うよ」


 糾卯は書物の山を抱え上げながら、ケロッとした顔でそう答える。


 確かに少ない方ではあるが、油断すれば手に負えなくなるのが関の山だ。ひなは、麟の職務机の近くに置かれた自分の席に座ると、よし、と気合いを入れる。


「ひな、これなんですが……」


 そう言いながら書類の一つを手にした把蛇が訊ねると、ひなはそれに目を通す。


「うん、これはそのまま麟さんに回して良いと思うよ」

「そうですか」

 

 把蛇はそう言うと、その書類を麟の所へ持っていく。

 ひなは、自分が捌かなければならない仕事に再び向き合うと、ふと、ある事に気付く。


「あれ……ここに置いてあったあの案件……」

「ああ。あの面倒くせぇやつだろ? それ、少し前に八咫烏が終わらせてたぞ」


 狒猿が大量の追加書類を担いで職務室へ顔を出すなり、ひなの言葉に気付いて答えると、ひなは驚いたように目を見開く。


「え、そうなの?」


 そう言いながら、麟の後ろに並んでいる棚の一つで、書類の束を見ているヤタに視線を向ける。その視線に気付いたヤタが顔を上げると、「何だ?」と言わんばかりの表情を見せる。


 そう言われれば、いつの間にか厄介な仕事がいつも処理されていた事を思い出す。


 彼は、そう言う人だ。


 ひなは再確認すると、ニッコリ微笑み返した。


「あ。そうだ。さっき皆に差し入れ買ってきたの。お茶淹れるから、少し休憩しよ」


 ひなはそう言うと、一度職務室を後にする。


 甘い干菓子とお茶を人数分用意すると、再び職務室に戻り、獅那達にふるまう。

 一処に集まり、皆思い思いに休憩をし始める横で、ひなは麟の傍に歩み寄る。


「はい。麟さん」


 そう言いながら、麟の職務机の上にお茶と懐紙に乗せた干菓子を置くと、麟は読んでいた手紙から顔を上げる。


「ああ……」


 目を細めて微笑む麟に、ひなもまた笑顔で応えた。


「手紙?」

「帝釈天と閻魔からだ。彼らは彼らなりに、元気にしているようだよ」

「そっか……。良かった」


 麟は手紙を畳むと、もう一度ひなを見上げる。


「また、二人にも皆で会いに行こう」

「うん!」


 ひなはとても嬉しそうに微笑み、大きく頷き返した。

 麟は手紙を横に置き、書類の束に手を伸ばす。

 ひなはそれを見て席に戻ろうとすると、静かに呼び止められた。


「ひな」


 足を止め振り返ると、麟はおもむろに一枚の未処理案件の書類を差し出してくる。ひなはその紙を手に取った。


「……これ」

「最近になって、この案件が少し増えてきている」

「……」


 ひなは書類を手に、自分の席に戻る。そしてその紙にもう一度視線を落とし、瞳を閉じて静かに息を吐く。


 世界は以前と何一つ、変わらない。

 だからこそ……。


 ひなは目を開くと、筆を手に取った。


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