恋人は私.弐
「久し振りの街~!」
街に降りたひなは小さい子供のようにはしゃぐ。
おそらく麟と一緒だったら恥ずかしさの方が勝ってここまで無邪気にはしゃぎまわることはないのだろう。
「お~い、はぐれるぞ。あと、鬼反屋はそっちじゃなくてこっち」
「あ、は~い!」
反対方向に行ってしまうひなを呼び戻し、鬼反屋までの道を進む。単純な道のりではあるのだが、店自体は道からかなり奥まっていた。
鬼反屋は他の街と同じように奈落に向かって動くことは無く、永久にその場に在る店だった。
店の前に立ったヤタは大きなため息を一つ吐き、なかなかその引き戸に手をかけようとしない。それを不思議に思ったひなが彼を見上げる。
「ヤタさん?」
「あ……悪い。俺、ここの店主ちょっと苦手でさ」
ヤタは困ったように笑いながらそう言うと、もう一度深いため息を吐いた。そして気合を入れるように息を吸い込み引き戸に手をかけた。
「いらっしゃい……あらぁああああぁ! やっと来てくれたのねぇ!」
出始めこそ抑揚のない声で出迎えてくれた店主だが、現れたのがヤタと分かると途端に声音を変えた。
地声から一気に2トーンほど上げたような声だ。
ヤタの背後から少しだけ顔を覗かせたひなの目には、江戸時代の反物屋の玄関先だけしか見えない。と、言うよりも暗がりになっていてよく見えないと言った方が正しいだろうか。
声の主である店主がパタパタと足音を立てて小走り気味に店先に出て来たその姿を見た瞬間、ひなは驚いて言葉を失った。
声の感じから若い人ではないと言う事は分かったが、まさかこれほどとは……。
「仕立てが終わったって連絡を入れてからち~っとも来てくれないから、首を長くして待ってたのに何ですぐに来てくれないのさ」
「あ……あぁ、え~っと仕事が忙しくて……」
視線が泳ぎまくるヤタに、しな垂れかかるような店主。顔を見れば僅かに頬を赤らめている。
(鬼のお婆ちゃんだ……)
ひなは内心そう呟いた。
額からは麟のような丸っこい角とは違う二本の刺々しい角が生え、ぎょろりと飛び出した大きな目に深い皺を刻んだ顔。手にも年齢を感じさせるような皺があり、爪はやはり鬼と言うべきか鋭さを持っていた。
その爪をいじらしい乙女のようにヤタの胸元に押し当ててぐりぐりとしながら、彼の逞しい腕に自分の腕を絡めている姿はさながら恋人のような仕草そのものだった。
(あ、なるほど)
ひなは店主を見ていて、彼女は心底ヤタに惚れ込んでいるんだなと感づく。ただ、それを良しとしないのは当然ヤタの方で先ほどから引き攣った笑みと、見上げて来る店主の視線に絶対合わせない視線が全てを物語っていた。
邪険に扱えないのは、この店がヤタや麟にとって大事な取引先であるからだと言う事も分かる。
「ねぇ? 良かったら奥でお茶でも飲んで行かない? あんたの為に特別なお菓子を用意してあるんだけど」
「い、いや、すぐに戻らないとならないので……」
「この間もそうやってすぐに帰っちゃったじゃないの。あたしといるのが嫌なの?」
「あ、いや~……そ、そう言う意味では……」
随分とグイグイ迫る店主に、ヤタは相当困り果てているようだった。
そう言えばヤタはここに行くとなるとなかなか帰ってこないのはこういう事情があったからなのだろう。
ひなはひょこっとヤタの後ろから出ると、ようやく彼女の存在に気付いた店主がギロリと睨みつけて来る。
「何だいこの小娘は」
ヤタに迫るネコナデ声とは違う、店主の地声でもある老女らしい濁声で噛みついて来た。
「こんにちは。今日は着物を頂きに来ました」
「着物は後でヤタに持たせるから、小娘はさっさとお帰り!」
なかなかの敵対心。店主はそれほどにヤタに入れ込んでいるのだなと肌から感じ取ることが出来る。
ひなはまさに鬼の形相で睨みつけられているが、ちらりと見上げたヤタの困り果てた表情を見ていると放っておけない気持ちのほうが先に出て来る。
「何なんだい? こんな小娘連れて来て。あたしに会いに来るのに酷いじゃないか」
「い、いや、この子は……」
ヤタが麟の想い人で……と説明しようとした瞬間、ひなは空いている方のヤタの腕に自分の腕を絡めてぎゅっと抱きしめた。
「私、ヤタさんの恋人なんです」
「は?」
にっこり笑いながらそう言い放ったひなに、店主もヤタも同時に声を上げた。
「今日はヤタさんが麒麟様のお着物を取りに来るついでに私の為に着物を見繕ってくれるって言うから、一緒に来たんです。だって、ここの着物は一流品ばかりでしょ? 他のお店の着物は着せられないって言ってわざわざ連れて来てくれたんですよ。優しいですよね」
あえて麟のことを「麒麟様」と呼び、チラッとヤタを見上げると「お前何を言ってんだ」と言わんばかりの顔を浮かべている。だが、組んでいる腕の肘で軽く脇腹を小突くと、ようやくひなの意図に気付いたヤタが軽く咳払いをした。
「あ……あぁ、そ、そう! 実は言う事なんですよ」
「……」
店主は突然の事に言葉を失っているようだったが、次第にブルブルと震えながら握り締めているヤタの腕を握り締め始める。
「い、痛い痛い!!」
我を忘れて握り締めるものだから、店主の爪がヤタの腕に食い込む。
ヤタが声を上げると同時に力を緩めたものの、店主は諦めが悪いようでひなに再び噛みついて来た。
「お前のような小娘、すぐに捨てられるさ! あたしはねぇ、この人の事お前が知り合うより前からずっと好きだったんだ! いつかこの人の嫁に貰ってもらうまで、絶対に諦めないからね!!
そう吐き捨てるように声を荒らげた店主は、プリプリ怒りながら店の奥に着物を取りに戻って行く。
「マジかよ……冗談でも止めてくれ」
店主がいなくなってから、ヤタは思わず小さな声でそう漏らした。
しばらくすると綺麗に畳まれた麟の羽織とヤタの着物を持って現れた店主は、ぶっきらぼうに反物を指さした。
「こんな小娘、何着たって同じさ! 適当に選びな!」
あまりにも小娘小娘と邪険に言われたひなも、さすがにムッとしてしまう。
ヤタの腕をぎゅっと握り締めて寄りかかると上目遣いに彼を見上げた。
「ねぇヤタさん、どれが私に似合う?」
「へ?」
「もぉ~、ヤタさんが私の着物選んでくれるって約束でしょ?」
にっこりとほほ笑むひなに、今度は違う意味で戸惑うヤタはぎこちない動きになってしまう。
まさか反物を選ぶのが自分になるとは思ってなかったのだろう。そもそも、ひなの好みもあるだろうからとひなが選ぶつもりで来ていたのだから当然と言えば当然だった。
なんで俺が……。
そう言いたげにしながらも、こうでもしなければ店主から解放される事はないと思うとひなの意向に従うしかない。
「そうだな……あれなんか良いんじゃないか?」
正直女性の反物などどれがいいかなんて分からない。
いくつも並んでいる反物の中から、朱色の反物を指さすとひなはぐいっとヤタの腕を強く引いた。
「とっても綺麗な朱色で素敵! でも私、もっと淡い色が好き」
「え?」
「もう、私たちどれくらい付き合ってると思ってるの? そろそろ私の好み覚えてくれなきゃ嫌だよ?」
「え、ええぇ……」
少し怒ったような顔をして見せ、ヤタに次の反物の指示を出す。
困り果てたヤタは「それじゃあ……」と、店の端に寄せられていた淡い藤色の反物を指さした。
「あれとか」
「うん、素敵! 私それがいい。嬉しい! ありがと!」
ダメ押しで思い切りヤタの腕に嬉しそうにしながら抱きつくと、店主はギリギリと歯を噛み鳴らしていた。
「仕上がり次第また連絡入れるからね!!」
店主の怒鳴り声と共に店の扉を閉め、少し離れるまで二人はいかにもラブラブな様子で腕を組んだまま歩いて行く。
店から離れてからほどなく、ひなは堪え切れずに笑い始めた。
「ぷっ……。あははははは!! 面白かった~っ!!」
お腹を抱えて涙を流しながら笑い転げるひなに対し、慣れない事をしたヤタはぐったりして傍に置いてあったベンチに腰を下ろした。
「勘弁してくれ……」
「え? ダメだった?」
「いや、ダメじゃねぇしむしろ助かったんだけど……こんな事慣れてねぇから疲れた」
「ヤタさん、始終顔が引きつってたもんね」
隣に腰を下ろしたひなは思い出し笑いをしている。
「私がまだ9歳の姿のままだったらこうはいかなかったよね。もし子供のままだったら、ヤタさんはお父さんになってたかも」
「ちょ……、もう、ほんとにやめてくれ」
「あははははは!」
こんなにも大笑いしているひなを見るのは初めてかもしれない。
彼女の機転のおかげで長引くこともなく、比較的早く出てこれたのはヤタにしてみればとても有難い事だ。
ポン、と頭に手を置くと、ひなは涙を拭きながらヤタを見上げた。
「まぁ、助かったよ。ありがとうな」
「うん! 助けになったんなら良かった!」
「よし、じゃあ戻るか」
ヤタが腰を上げると、ひなもそれに続いて歩き出した。
「もう帰って来れたのか。いつもは時間かかってるのに」
屋敷に戻ると、仕事を終えた麟は思ったよりも早い帰宅に驚いたような顔をしていた。
受け取ってきた着物を手渡しながらヤタは「まぁな」と短く答える。
「ひなのおかげで早く帰れた」
「彼女が?」
かくかくしかじか、説明をするとさすがの麟も小さく噴き出してしまう。くすくすとひとしきり肩を震わせて笑うと、口元に笑みを浮かべたまま何度か頷き、ようやく口を開く。
「……そうか。それは大変だったな」
「俺もう疲れた」
「ありがとう。もう仕事がないなら、今日はもう休むと良い」
「そうさせてもらうわ」
ヤタはそう言うと執務室を後にした。
麟は誰もいなくなった部屋で、届けられた着物に視線を落とし思い出したように笑うも、ぽつりと本音が零れた。
「ひながヤタの恋人役か。妬けるな……」




