ここにいる
「よし、ひな。この屋敷内と幽世の世界について少し案内しようか」
麟はそう言いながら立ち上がる。
そんな彼の動作につられるようにひなは一瞬驚いたように視線をあげた。
誰かが自分の為に時間を割いてくれる。
それが分かると嬉しくて、ひなは自然と満面の笑みを浮かべ頷き返した。
「うん!」
「麟、それなら俺が……」
「いや、お前には別の事を頼みたい。鬼反屋に行ってひなの着る着物を幾つか見繕ってきて欲しい。あと、化け猫屋で菓子を買って来てくれないか」
その瞬間、ヤタは肩を落とし少しばかり嫌そうな顔を浮かべると「鬼反屋か……」と小さくごちたのを、ひなは聞き逃さなかった。
その店に何があるのだろうと思いヤタを見ていると、彼はしばらくして深いため息を吐きながらゆっくりと重い腰を上げる。
「行ってくる」
渋々そう言うと、黒い翼をはためかせ縁側から飛び立った。その姿を見送ったひなは目を輝かせる。
「わぁ、凄い」
「ひな……おいで」
呼ばれて振り返ったひなの目の前には、麟の大きな手が差し伸べられていた。
この大きな手は自分に向かって差し伸べられている。それは分かっているのに、何故かすぐにその手を取るのに躊躇ってしまった。
「どうした?」
「……手、こうやって差し出してくれた人、今までいなかったなって思って」
大人と手を繋いで一緒に歩いたのはどれぐらい前だっただろう。そもそも、誰かと手を繋いで歩いたことがあったかも不確かだった。だからこうして差し出された手には正直不慣れだった。
ひなの極端な遠慮と自己肯定感の低さが垣間見え、その様子がどうにもやるせない。ならば……と、麟は差し出した手とは逆の手も差し出し、彼女の体をひょいと抱き上げた。
「!」
突然抱き上げられたひなは咄嗟に麟の着物の肩口を掴む。
「遠慮をするな」
そう言って笑う麟に、ひなは小さく頷き返した。
「あり、がと」
ひなが礼を言うと、彼は何も言わずに優しく抱きしめた。
麟に抱きかかえられたまま、広い屋敷の中をぐるりと見て回る。広い庭園には桜の花びらが散る大きな池があり、鯉が泳いでいるのが見える。
「麟さん、ここはずっと春なの?」
どこを見て回っても桜の木のみ。現世では秋になろうとしていた頃だと言うのに、秋らしさはどこにもない。
広い庭を眺められる廊下で、季節が一つしかないように感じたひながそう訊ねれば、麟は柔らかく笑みを浮かべて答える。
「四季はある。ただ、ここはひなのいた世界とは違って時間の流れがとてもゆっくりなんだ」
「そんなに違うの?」
「そうだね。例えば現世で1年が過ぎる時、この世界ではまだ1日しか経っていない事になる」
「そうなんだ。じゃあひなは、お婆ちゃんになかなかならないんだね」
子供らしい素直な言葉に、麟は柔らかな笑みを浮かべながらひなを見つめる。だがふと、表情を固くして抱き上げていた彼女をその場に下ろし、おもむろに口を開く。
「……怖くはないかい?」
「怖い?」
「そう。ここはいわゆる、死後の世界だ」
その時、真っ白い紙の面を付けた女性がこちらに歩いてくるのが見える。彼女が手にしていた器に乗ったいるのは桃だった。その器を麟は受け取りひなを振り返る。
「ひな。私は君を望み通りここへ連れてきた。つまり、君は生きたままで死者の国に来たと言うことになる。そのままこの屋敷を出れば身体は滅び、魂も消えてしまう事になるだろう」
「え……」
「それを防ぐ方法は一つ。この世界の食べ物を食べればいい」
ひなはそれを聞き、目の前にある桃に手を伸ばしかけたが麟がそれをやんわりと制した。
「これは君の為に切らせた桃だが、食べる前にもう一度聞いてもいいかい? 本当に現世には戻らなくていいんだね?」
その問いかけに、ひなは目の前にいる麟を静かに見上げて頷いた。
「ひなはあっちの世界には帰りたくない。だって……あっちの世界にはひなの事を嫌う人はいても、好きになってくれる人はいないもん」
「本当に?」
麟の問いかけに、まるで現世に帰るように促されているような気持ちになったひなは、服の裾をぎゅうっと掴んだ。
「……ひなは、ここにいちゃ駄目なの?」
麟の顔色を伺うように上目遣いで見つめて来るひなに、麟は笑みを浮かべたままゆるゆると首を横に振った。
「ひなが本当に望むならここにいるといい」
いてもいいと言って貰えたひなは笑みを浮かべる。
麟は手にしていた桃をひなに手渡すと、彼女は廊下の縁に腰を下ろし躊躇うことなくその桃を口に含む。
たっぷりとした桃の甘い果汁が優しくひなの喉を潤し、忘れていた空腹感を満たしていく。
その時、背後でパタパタと少々慌ただしく行き交う足音が聞こえて来た。
ひながそちらに気付いて振り返ると、屋敷と屋敷を繋ぐ渡殿の向こうで人とは違う成りをした人物が慌てた様子で何人も小走りに走っている姿が見える。
「あの妖怪さん、お仕事してるの?」
ひなの目に映る、忙しく廊下を行き来する者たちがあやかしだと言う事に驚きもせずそう答える。
「彼らは私の仕事を助けてくれているんだ」
「麟さんて、どんなお仕事してるの?」
「そうだな……。外から来た客人をもてなす仕事、と言えばいいだろうか」
「お店屋さんなの?」
「店か……まぁ、あながち間違いではないな」
麟は笑いながらひなの頭を撫でる。
「君はあの渡殿から先には入っちゃいけないよ」
「うん。分かった」
素直に頷くひなに、麟はにっこりと微笑んだ。
「君はこの屋敷の居住区に私と共に暮らすことになる。何処の部屋でも好きに出入りしてもらって構わない」
このあまりに広い屋敷の中のどこに行ってもいいと言われて、嬉しいと思う反面、ひなはう~んと悩んでしまった。
「凄く広いから迷子になっちゃうかも……」
「そうか? なら、君には一人傍仕えを付けよう」
「傍仕え?」
「君の身の回りの世話をする女性の事だよ」
麟が着物の合わせから一枚の人の形をした紙を取り出してふっとその紙に息を吹きかけると、紙は自分の意志を持ったかのように小さく揺れて手元から離れ、ひなの傍に舞い降りた。
紙が地面に付くか否か、突然むくむくっと大きくなり、ひなの目の前で紺色の着物をまとう優しそうな雰囲気の綺麗な女性になった。
閉じていた瞳がゆっくりと開かれ、女性はその視線の先に麟の姿を捉えると、たおやかに頭を下げる。
「この方がひなさんですね?」
「あぁ。彼女の身の回りの世話をして欲しい」
「承知いたしました」
ひなは二人の様子を見て、呆然としたまま目を瞬いた。
まるで魔法だ。
人型をしただの紙が、麟によって普通の人に化けた。これを魔法と言わずに何と言えばいいのだろう。
そんなひなに、女性は微笑みかけた。
「ひなさん。私は獅那と申します。これから宜しくお願いします」
「あ、はい。えっと、宜しくお願いします」
状況が良く掴めないまま、ひなは微笑みかけて優しく頭を撫でて来る獅那にたどたどしく頭を下げた。
「では、ひな。次は屋敷を出て外の世界の話をしようか」
「うん!」
ひなは今度こそ躊躇うことなく、差し出された麟の手をしっかりと握り返す。
獅那は、出掛ける二人を見送り頭を下げていた。




