新しい世界
ひなは小さく唸って眠りから覚める。
虚ろな眼差しで天井と、夢の中で麟の手を取ろうとして伸ばした手が見えた。が、脱力感に任せてぱたりと布団の上に落ちる。
やっぱり、夢だったんだ。
ひなは先ほど自分の身に起きた不思議な体験か、すべて夢だと思った。そんな都合の意話なんかあるわけがない、と。
「……」
まだ覚めきらない頭で、じっと天井を見つめるが徐々に違和感を感じ始める。
この天井は知らない。いつも見えている天井は白くて、丸い電気カバーがあったはず。
あったはずの物がどこにも見えず、ひなの頭は錯乱した。
夢……? まだ夢を見ているのだろうか?
「起きたか?」
すぐそばで声をかけられ、ひながそちらを振り返ると麟の優しい笑みがあった。
「……あ、れ?」
まだ思考が正しく働かない。だが、先ほど手を差し伸べてくれた麟は目の前にいる。
「……?」
「どうした? 大丈夫か?」
困惑したまま固まってしまっているひなに、麟は心配そうに声をかけてくる。その声に答えようと口を開きかけ、ひなは麟の隣でこちらを観察している八咫烏の威圧的な眼差しに怯え、視線を下げた。
「……ここ、どこ、ですか?」
視線をそらしたまま、たどたどしく訊ねる。
麟はひなが怯えていることに気付き、八咫烏に座るように促すと、彼は浅く息を吐きその場に胡坐をかいて腰を下ろした。
「ここは幽世。ひなが住んでいた世界とは違う世界だ」
「かくりよ……? それって、神様の国?」
神様の国だと言うひなの言葉に小さく笑ったのは八咫烏だった。
突然笑われてしまったひなは瞬間表情を曇らせ、視線を下げる。その様子に、八咫烏もまた気まずさを覚えて視線をそらす。
「正確には、天国と地獄の間にある世界のことだよ」
麟が答えると、ひなは首をかしげる。彼女の知識としてあるのは天国と地獄の二つのみ。まさかその間にもう一つ世界があるなどと考えたこともなかった。
ひなは上体をゆっくりと起こすと、部屋の中を見る。
部屋の中にあるのは、どれも学校で習うような平安時代の調度品が並んでいる。そして御簾だけで仕切られた窓のない部屋。その部屋の中から見える見事な日本庭園に季節外れの桜が満開になっている様子を見ていると、なぜか胸に「懐かしい」という感情が湧いてくる。それがあまりにも不思議で思わず首を傾げた。
「……不思議な、世界」
ひなは今、誰も知らない世界に来ている。そしてなぜか出迎えてくれているような妙な温かさを感じ、同時に居心地の良さを感じた。
「あの……神様。ひなのお願いを聞いてくれて、ありがとうございました」
礼をいって頭を下げると、八咫烏は感心したような顔を浮かべ、麟は困ったように笑う。
「私は神様ではないよ」
「え? でも……」
「私は麒麟。この幽世の番人を任されている」
ひなには、番人と神様の区別がいまいちつかなかったが、それでも彼が神様の次に偉い人なのだと認識する。
「彼は八咫烏。私の神使だ」
「しんし? しんしって何?」
「神使というのは……そうだな。私の代わりに色々と手伝いをしてくれる者のことを指すんだ」
麟の言葉にひなは目を丸くし、八咫烏を見た。
「……な、何だよ?」
そのあまりに純粋な目で見つめられた八咫烏は、戸惑いの表情を浮かべ、やや引いた状態で彼女を見る。
「……ヤタさんも、凄いんだね」
「ヤ、ヤタさん?」
突然「ヤタさん」と呼ばれた八咫烏は面食らったような顔をする。
無意識にも眉根が寄ったのを見たひなは、彼を怒らせたと勘違いし眉尻を下げ視線を落とした。
「……ご、ごめ」
「べ、別に! 駄目なんていってない」
あからさまに落ち込んだひなが謝罪しようとする言葉を遮るように、八咫烏はぶっきらぼうにそう返した。するとひなは僅かに視線を上げる。
「……ほんと?」
「お、俺は、嘘はいわねぇ」
顔をそらしながら答えると、ひなはようやく肩から少し力を抜いた。
否定されなかったことが嬉しい。
ひなは胸と指先が少しくすぐったいような感覚を覚え、視線を下げつつも口元に小さな弧を描く。
「……あっちじゃ、誰もひなの話をちゃんと聞いてくれる人いなかった。でも、ヤタさんも麟さんも、こんなひなのこと怖がらずに話を聞いてくれて、嬉しい」
「……」
「ありがとうございます」
ひなが顔を上げて嬉しそうに笑うと、瞬間、ヤタは動きが固まった。
どこか焦った様子で麟を振り返り、小声で訴えかける。
『麟! これ、どうしたらいいんだ?』
普段見たことがないヤタの様子に、麟はおかしそうに笑う。
『礼をいわれたのだから、応えてあげればいいじゃないか』
『……っ!』
子供の対応に不慣れなヤタは、どう対応すればいいのか分からず狼狽えた。だが、腹を決めたようにごくりと喉を鳴らし、慣れない手つきでひなの頭に手を置いた。
不器用すぎるその手の感触に反応したひなは「受け入れてもらえた」と受け取り、心の奥がじわりと温かくなった。
「……ありがとう」
静かにもう一度礼をいうひなの姿に、固くなっていたヤタの体からも力が抜け、そんな二人の様子を見ていた麟も、柔らかい笑みを浮かべた。




