新しい世界
ひなは小さく呻き眠りから目が覚め、泣き腫らして腫れぼったくなった瞼をゆっくり押し上げ、虚ろな眼差しで数回瞬いた。夢の中で麟の手を取ろうと伸ばした手が、現実でも虚空に向かって伸ばされていた事に気付いてパタリ、と下ろす。
「……」
まだぼんやりする頭で、見えている景色に疑問を抱く。ここは一体どこだろうか? 見たことが無い場所、嗅いだことが無いニオイ。そして目の前には夢に出て来た男性と見たことが無い大きな男性の二人の人影……? そう思った瞬間ひなは完全に覚醒し、のそりと布団から上体を起こした。
「起きたか?」
声を掛けられてひながそちらを振り返ると、麟が優しい笑みを浮かべている。その横に立っている八咫烏は腕を組んで真顔でじっと見下ろしていた。
麒麟よりも体格が大きくて三白眼の鋭い視線に、ひなはなぜか睨まれていると勘違いを起こして、八咫烏から怯えたように僅かに視線をそらす。
「……ここ、どこ?」
視線を逸らしたままそう呟くと、麟はひなが怯えているのに気付いて八咫烏に座るよう促した。八咫烏は促されるままにどっかりとその場に胡坐をかいて腰を下ろすのを見届けてから、麟はもう一度ひなを見つめた。
「ここは幽世。ひなの住んでいた世界とは違う世界だ」
「かくりよ……? それって、神様の国?」
神様の国だと言うひなの言葉に思わず笑ったのは八咫烏だった。突然笑われてしまったひなは少し怪訝そうな顔をしながらも彼を見上げると、八咫烏は目の端に滲んだ涙を軽く拭きながら手をひらひらとさせた。
「まぁ、あながち間違いじゃないけどな」
「正確には狭間の世界だね。天国と地獄の間にある世界の事だよ」
「天国と、地獄の間の世界……?」
ひなは首を傾げる。彼女の知識としてあるのは天国と地獄の二つのみだ。まさかその間にもう一つ世界があるなどと考えた事もなかった。
「それにしてもあんたが神様とは……笑える」
「八咫烏……」
ゲラゲラと笑う八咫烏を麒麟が嗜めている姿を見ていたひなは、目の前に黒い羽根が舞っていた。どこから舞ってきたのか分からず辺りを見回すが、鳥はどこにもいない。もう一度その視線を八咫烏に向けた時、ひなには人型の八咫烏が大きな一匹の烏の姿をしている事に目を見張る。
(あれ……? この人……)
八咫烏の姿を見たひなはマジマジと見つめ不思議そうに目を瞬く。その様子に、麟も八咫烏本人も不思議そうな表情を浮かべてひなを見つめ返した。
「……お兄さんて、烏?」
「……は?」
完璧とも言えるほどの人型を取っていると言うのに、正体を見破られた八咫烏はぎょっと驚いたように目を剝き、咄嗟に麟を振り返った。言葉が出てこずパクパクと口を動かして心底驚いている顔だ。そんな八咫烏に麟は真顔で小さく頷き返すと彼女はもう一度ひなを振り返る。
「な、何だこの子……俺の正体を見破れるのか?」
愕然とした顔を浮かべる八咫烏の顔に、ひなの顔にサッと影が差し強張った表情に変わった。
やってしまった。
そう思ったひなはきつく布団を握り締めて体を震わせる。
「ご、ごめんなさい……」
「……ひな?」
ポロポロと涙を零して固く瞳を閉じ、震え始めるひなに麟も八咫烏も不思議そうに見つめて来る。
「変なもの視ちゃってごめんなさい……!! 気持ち悪くてごめんなさい!!」
震える声で呟くその言葉に、二人もまた表情を硬くする。さすがの八咫烏も気まずさを感じて視線をそらしながら後ろ頭を掻き、麟はひなを優しく包み込むように抱きしめた。
「大丈夫だ、君は何も悪くない」
「……っ」
「何も怯えることは無いよ。八咫烏は少し驚いただけだ」
優しく落ち着いた声で宥めて来る麟に、ひなは込み上げて来る涙を堪える事も無く彼にしがみついて声を上げて泣き出した。憔悴しきってもはや泣く事ももうないのではと思っていたひなを、落ち着くまで麟は抱きしめる。
どれほどの時間そうしていただろうか。泣き疲れてウトウトしていたひなが再び眠り始めると、麟はひなを布団に横たわらせた。その様子を静かに見守っていた八咫烏は、腕を組んだまま複雑な顔を浮かべている。
「……子供が咄嗟に謝り倒すとか尋常じゃねぇな。一体今までどんな環境にいたんだ? この子の両親はどうしたんだよ」
「両親はいないらしい。この子を預かっていた祖父母がいたようだが捨てられたと言っていた」
「は? 何だそれ、無責任な奴らだな」
憮然とした顔を浮かべる八咫烏に、麟はくすくすと笑う。
「珍しいじゃないか。子供が苦手なお前がムキになるなんて」
「なっ……べ、別にそう言う訳じゃねぇよ。ただ、無責任な大人の方に腹が立ってだな……」
焦りと僅かに頬を染めながらたどたどしくそう切り返す八咫烏に、麟はおかしそうに笑っていたが、改めて眠るひなに視線を戻して麟は目を細める。
通常、現世の人間達が願う願い事が直接幽世にいる麟の元に届くことはない。そもそも願いを聞き届けるための神は他にいるのだ。だが未知数ほどある願いの一つだったひなの言葉だけが、何故かハッキリと麟の元に届いたのは初めてだった。幾度も幾度も、胸を刺すような辛さを込めた同じ願い。どうやってもこのまま無視をすることが出来なかった。そして何より、あの時見えた雪那とひなに深い関りがあったのだとしたら……。
「麟?」
ぼんやりとひなの顔を見つめていた麟の横顔に、八咫烏は不思議そうに声をかける。
「……この子の願いは、他の神の元へ向かわず真っすぐに私の元に届いたんだ。毎度届くこの子の願いは、いつも悲痛なもので胸が痛んだよ」
麒麟は八咫烏を振り返る事も無く、呟くように話す。
あの時の、懐かしいと思わせる瞳の奥の光。まっすぐに届けられた願いと雪那の姿を思い返しながらそっとひなの頭を撫でる。
「この子は、雪那と何か繋がりがあるみたいだ」
その言葉にギョッとしたような顔を浮かべたのは八咫烏だった。
「雪那……って、少し前にお前の前から姿を消したあの女性の事か?」
「助けを求めていたよ。ひなと魂が共鳴しているようだった。何か、どうしようもない状態に陥っていたのかもしれない」
「あいつ、何処かにいるんじゃ……」
「いや……彼女はもう無に還っている」
「……っ!」
寂しそうに表情を曇らせている麟の姿を見て、八咫烏は言葉を詰まらせた。やや前のめりになりかけた八咫烏だったが、ゆるゆるとその場に座り直し残念そうに視線を逸らした。
「……そう、か」
「この子に、託しているものがあるのかもしれないな」
その時、眠りから覚醒したひなはゆっくりと瞼を持ち上げる。麟がそのひなの顔を覗き込むと、彼女はぼんやりとしたままではあるが彼の姿を見た途端、心底安堵したような顔を浮かべていた。
「すまない。うるさかったかい?」
そう言うと、ひなはゆるゆると首を横に振りゆっくり起き上がった。
「……夢なんだと思った。でも、夢じゃないって思ったら凄く安心した」
力なくへらっと笑いながらそう言う彼女の言葉に、麟はホッとしたような表情を浮かべる。
「もう少しゆっくり眠っていなくていいのかい?」
「うん。大丈夫……。あの……神様。ひなのお願いを聞いてくれてありがとうございました」
ひなは少しモジモジとしながら、礼儀正しく頭を下げてお礼を伝えると八咫烏は感心したように目を瞬く。神様と呼ばれた麟は困ったように笑いながら「私は神様ではないよ」と訂正をした。
「私は麒麟。この幽世の番人を任されている。そして彼は八咫烏。私の神使だ」
「しんし? しんしって何?」
「神使と言うのは……そうだな。私の代わりに色々と手伝ってくれる者の事を言うんだよ」
ひなは麟の言葉に目を輝かせると、八咫烏を振り返った。その瞳はどこかキラキラと輝いていて、先ほどのような暗く沈んだ表情とはまるで違うものになっている。
「ヤタさんて、凄いんだね」
「ヤ、ヤタさん?」
突然「ヤタさん」と呼ばれた八咫烏は面食らったような顔をする。
あまりに驚いた表情を浮かべる彼の姿に、慣れないひなはビクッとしながら一瞬表情を曇らせた。
「……だってヤタガラスって名前なんでしょ? 長くって言い難いからヤタさんでいいかなって思って……だめ?」
捨てられた小犬のようにややしょんぼりしたように、上目遣いで聞き返してくるひなに八咫烏はぐっと頬を僅かに染めながらも言葉を飲み込んでしまう。
「……べ、別に、ダメなんて言ってない」
「ほんと!?」
ひなは心底嬉しそうに表情を明るくすると、怖がっていた様子が嘘のように躊躇う事もなくヤタの胸に飛び込んだ。否定されなかった事が、ひなにはたまらなく嬉しかった。
「ひなのいた世界は凄く寂しかった……。おうちにいても一人だったし、誰もひなのことちゃんと見てくれなかったから。でも、ここならヤタさんも麟さんも、ひなのこと怖がらずにいてくれるから嬉しい」
「……」
ヤタの胸に抱きついたまま呟いたひなの言葉にヤタは戸惑った様子のまま麟を振り返った。
『麟! ちょ、どうすんだこれ!?』
どう対応していいか分からない八咫烏は小声で麟に訴えかけるが、麟はクスクスと笑うだけ。
『いいじゃないか』
『じょ、冗談だろ!? 一体どうしろってんだよ?!』
胸元にしがみついて離れないひなに、八咫烏の両手は宙を動き回る。
抱きしめると言う行動はおろか、体に触れると言う選択肢すら彼の中にはないのか、困惑に困り果てていた。
「ここには君を嫌う者はいない。ひな、君を歓迎するよ」
「麟さん、ひなを連れて来てくれてありがとう!」
嬉しそうに微笑むひなの姿に、麟も柔らかい笑みを返した。そしてポンと膝を叩きゆっくりと立ち上がる。
「よし、ではひな。この屋敷内と幽世の世界について少し案内しようか」
「うん!」
「麟、それなら俺が……」
「いや、お前には別の事を頼みたい。鬼反屋に行ってひなの着る着物を幾つか見繕ってきて欲しい。あと、化け猫屋で菓子を買って来てくれないか」
ヤタは少しばかり残念そうな顔を浮かべつつどこか嫌そうな顔をしながらも「御意……」と言い、早速縁側から飛び立った。その姿を見送ったひなは、縁側にしがみついて目を輝かせる。
「わぁ、ヤタさんカッコイイ~」
「ひな……おいで」
呼ばれて振り返ったひなの目の前には、麟の大きな手が差し伸べられていた。
ひなは麟のその手をじっと見つめチラリと見上げると、麟は不思議そうに彼女を見下ろした。この、大きな手は自分に向かって差し伸べられている。それは分かっているのに、何故かすぐにその手を取るのに躊躇ってしまった。
「どうした? ひな」
「……手、こうやって差し出してくれた人、今までいなかったなって思って」
大人と手を繋いで一緒に歩いたのはどれぐらい前だっただろう。そもそも、誰かと手を繋いで歩いたことがあったかどうかさえもよく覚えていない。気付けば誰からも触る事さえ嫌がられてしまっていたから、こうして差し出された温かい手には正直不慣れだった。
ひなが遠慮と自己肯定感の低さから、事あるごとに自分の行動を控えようとする事がどうにもやるせない。
麟は差し出した手とは逆の手も差し出し、彼女の体をひょいと抱き上げた。
「ひゃあっ!」
突然抱き上げられたひなは頓狂な声を上げ、慌てて麟の着物の肩口を掴む。
小さな子供にそうするように麟の片腕の上に腰を据え、先ほどまで見上げていた麟を見下ろすような体制になった。
「遠慮をするな。ここでは君の生きたいように生きればいい」
「……っ」
「ひなは軽いな」
くすくすと笑う麟に、ひなは涙が零れ出そうだった。
本当にここは違う世界。優しさに溢れたこの空気がひなには少し苦手だが、それでもあの家や世界にいるよりはずっと安らげる。
「あり……がと……」
「……」
しがみつくように麟の首に抱きついたひなが、彼の肩口に顔を押し付けて小さく礼を呟くと、彼は何も言わずにぽんぽんと優しく彼女の背中を叩いた。