監視
帝釈天は長椅子にうつ伏せになりながら蓮の浮ぶ大きな水瓶を眺めていた。
「……危ういな」
頬杖を付いて帝釈天はそう呟いた。
この水瓶は全ての世界を見通すことが出来る「炯眼の水瓶」と呼ばれている。この水瓶は地獄だけでなく、幽世や現世も全てを余すことなく覗くことが出来るもの。そして帝釈天が今見ているのは、幽世の様子だった。水面に映るマオの様子を見て、嫌な予感を感じさせる。
マオは始めから危険な雰囲気を纏っていた。彼女がどうやって麟の傍仕えに入り込んだのか、その実よく分かっていない。思えば、当時極楽と地獄しかなかった二面世界に中間世界として幽世を創り出し、神獣として帝釈天の傍にいた麟を番人として配属をさせる事が決まった頃には、いつの間にやら麟の傍に彼女はいたのだ。
「どうにも、怪しいんだよなぁ……」
怪しいと分かっていても手出しはしない。なぜなら彼女の処分は麟自身が下さなくてはならないからだ。彼女がいることで幽世は上手く循環し回っているのも事実。麟はそんなマオに信頼を置いている以上、余計な口出しは出来ない。
「俺だったら、仕事ができても出所不明な奴は傍に置かないけどね」
水面をくるくると撫でるように弄っていると、長年帝釈天の世話役の水蓮が部屋を訪ねてくる。水蓮は寝そべったままのだらしない状態の主を見て、呆れたような顔を浮かべため息を吐いた。
「帝釈天様、何してるんですか」
「ん~? 覗き」
「……その言い方、悪趣味ですよ」
「しょうがないだろ。これも仕事なんだから」
ニヤニヤと笑いながら答える帝釈天に、水蓮はお茶の入った器を差し出した。暖かい花の香りが漂うお茶だ。
「仕事、真面目にする気あるんですか?」
「まったく……。水蓮、その言い方どうにかなんないかねぇ。言っとくけど、これは本当に大切なことなんだ。一歩間違えば、幽世だけじゃない。この極楽も地獄も巻き込まれる大問題になるんだからな」
水蓮と呼ばれたお付きの鋭いツッコミに、ムッと顔を顰める帝釈天の言葉には嘘はない。
各世界のありとあらゆる場所をつぶさに観察することは、帝釈天に与えられた唯一の仕事でもある。水蓮もそれを十分理解した上であえて突っ込んでいるのだ。
「奥方様が心配しておられましたよ。とても嫌な予感がしていると」
「紗詩も感づいているんだよ。阿修羅の事を気にしているからね」
「帝釈天様はそれでよろしいんですか?」
「うん? よろしくない」
ニコッと笑いながらどうにも軽い言い方をする帝釈天に対し、水蓮はジト目になったまま深い溜息を吐く。
「よろしくないなら、よろしくなるようにして下さい。奥方様が気の毒です」
「分かってるよ。阿修羅が覚醒して、麒麟を狙えば確実に私の命の危険が増大する。それは何としてでも回避しなければ。その為にさっき八咫烏に指示を出したんだ。守護を徹底するように、とね」
帝釈天は目を細めて、いつになく真面目な顔をしてそう切り返せば水蓮もまた真顔でこちらを見つめて来る。
「分かったらもう下がっていいよ。紗詩にもその旨知らせておいてくれ」
「かしこまりました」
水蓮の方を振り返りもせずに視線は水瓶を覗き込んだまま、しっしっと片手で下がるように振り払う。また蔑ろにしているかのような対応だな、と思いながらも彼はしれっとした顔をしたままその場を後にした。
「俺の、二つに分けた内の“魂の核”を持った麒麟を死なせるわけにはいかないよ。紗詩の為でもあり、ひな。君の為にもね」
彼が立ち去ったのを確認してから、そう呟き帝釈天は再び水瓶に視線を落とす。
「……さて、本業に移るかねぇ」
帝釈天に与えられた唯一の仕事。それはこの水瓶を使い、三世界だけでなく常に監視をしているものがある。
すっと弧を描くように水面を中指の腹で撫でると、それまで幽世を覗いていた水瓶の水面は墨を落としたかのように徐々に黒い影を落としていく。
真っ暗な世界に赤い大地。枯れ果てたその大地には炭のように黒ずんだ枯れ木が無数に生えている。さらに地面から刃のように無数に切り立ち突き出ている岩の数々。うっかり足を踏み入れようものなら、その足が切り刻まれる事は必須だろう。
まるで何かを守るかのように切り立った岩の奥には、暗い洞窟が口を開いている。その入り口を無数の茨の蔓が絡み付き、中に入ることは出来ない。
茨の門の更に最深部にはごつごつとした岩肌と小さな空間が広がる。その空間の真ん中には体中をボロボロの白布で包まれ、無数の御札が貼り付けられた人物がいる。
真っ黒い髪はボサボサで伸び放題。体も浅黒く、骸骨のようにガリガリにやせ細っているその男性は俯いたまま微動だにしない。彼はそのまま息絶える事さえも許されず、地獄へ落ちた魂の怨恨や不浄を体内に吸収し続ける定めにある男。
「……そのまま、ずっと大人しくしてるんだぞ」
帝釈天は目を細めてぽつりと呟くが、すぐにやるせないような表情を浮かべる。
被害が大々的にならないよう、彼はこの男を監視し続けなくてはならない。なぜならこの男は帝釈天と深い因縁関係にあるからだ。
「……なぁ、毘天。俺は……本当はお前自身も救えたらと思っている。お前は今でも……」
その呟きにまるで応えるように、水瓶の中の男性はぴくりと体を小さく震わせる。そしてゆっくりとその頭をもたげると、ギラギラとした空洞のような目が髪の隙間から覗き見えた。そしてその口元には不敵な笑みをたたえている。
「……」
帝釈天はその彼の様子に眉間に皺をよせ、目を見張った。
男はゆっくりと口を開き、何かを呟いている。
……こ
……ろ
……し
……て
……や
……る
そして男はニヤリ……と不敵な笑みを浮かべた。
「阿修羅……」
水瓶を通しては双方の言葉は届かないはずだが、まるでこちらの言葉が聞こえているかのような反応に、帝釈天はゾクッと背筋が寒くなり冷汗が流れた。
帝釈天は掌で水面を撫で、今まで見ていた映像を掻き消した。
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「獅那ちゃん、こんな感じ?」
ひなは部屋の中で獅那と共にある事をしていた。
長い髪を一つに纏め、白に淡く水色がかった着物をまとい、薄化粧を施されたひなはまだ顔に幼さが残るものの大人っぽくなっていた。
「あんまり髪とか上げた事ないから、何か落ち着かないなぁ」
「良く似合ってますよ」
うなじをさらけ出した事がなかったひなは、ソワソワとしてしまう。だが、獅那はそんなひなの姿に大満足と言わんばかりに両手に握りこぶしを作り、興奮しているように大きく何度も頷き返していた。
ひなは部屋に置いてあった姿見を覗き、今までのような幼さが表立つ姿ではなく大人っぽさが前面に押し出された自分の姿に気恥ずかしさが残る。だが、見ていると母親に似ているところがあるかもしれないと思い、そっと鏡の中の自分をなぞるように指で触れるとぽつりと呟いた。
「お母さんも……こんな感じだったりしたのかな」
特に意図はない。夢で見た母親の顔は見えなかったが、彼女の子供である以上自分にもどこか母の面影があるのかもしれないと思ったのだ。
「ひな?」
「!?」
別に麟に見せるつもりはなかったが、思いがけない訪問にひなはビクッと体を大きく揺らしてそちらを振り返る。するとそこには心底驚いたような顔をしている麟の姿があった。
「あ……えっと、これはその、別に特に意味はなくて……。って言うか、お仕事中じゃななかったの?」
カーっと顔が熱くなるのを感じながら、しどろもどろに視線を逸らしながらいいわけを探す。別段悪い事をしているわけではないと言うのに、何となく気まずさを感じての言い繕う言葉を探してしまう。
「……」
麟は思わず目の前にいるひなを見て目を見開き、時が止まったように固まってしまっていた。その姿は、あまりにも雪那によく似ていたから……。
「り、麟さん?」
「……あ、いや。獅那が慌てた様子で連絡を寄こして来たら、何かと思ったら……」
「え?」
獅那が麟を呼びつけたと知って、ひなは驚いたように彼女を振り返ると、彼女は得意げな様子を見せている。そしてもう一度麟を見れば口元に手を当てながら彼は視線を逸らし、僅かに頬を赤らめていた。
「……まったく、君はほんとにどこまで綺麗になるんだ」
「……っ?!」
思いがけない褒められ言葉に、ひなは顔から火が出そうになった。
まさかそんな言葉をかけられるとは思っていなかっただけに、ひな自身も言葉を失ってしまう。
すると、麟の背後からひょいと顔を覗かせたヤタも驚いたように目を見開いた。
「……マジか」
「え? な、なに?」
「いや、馬子にも衣裳だなって……っいてぇ! は? 何すんだよ!?」
ヤタがそう呟いた瞬間、誰よりも得意げにしていた獅那がヤタの足をぎゅうっと踏みつけ、ぷいっとそっぽを向く。
「言葉選びが最悪」
「おま、マジで足潰れるからな!! 手加減しろよっ!」
涙目になるヤタを獅那がジロリと睨みつけた。
そんな二人の様子を見ていた麟がくすくすと笑う。
「八咫烏、これ以上獅那に怒られる前に口を慎め」
「ちょ、どう言う思考回路させてんだよ!? あんたの式神だろ?!」
「違うよ! 獅那ちゃんは私の友達なの!」
「……っ」
うっかり呟いた一言で全員から責められるヤタは、面白くなさそうに憮然とした顔を浮かべた。




