不安の音
街は、相変わらずの賑わいだった。だが、子供の時にきた時とは顔ぶれが少し変わっている。
「あれ? 前に見た人たちがいない……」
「この街は、奈落に向かって少しずつ移動しているんだ」
麟の言葉に、ひなは不思議そうな顔を浮かべる。
「いつまでも同じ場所に居続けることで、精進する気持ちに緩みを持たせるわけにはいかないからね。……時間は、有限。そうだろう?」
彼の言葉に、どきりとした。
時間という概念の大切さを身に染みて分かっているひなは、小さく頷き返した。
「少し、歩こうか」
麟はひなの手を改めて握り直し、ゆっくりと街中を歩きだす。
ひなは足元に気をつけながら、履き慣れない草履と着物に気を取られながらも、前をいく麟の背中を静かに見つめた。
賑わう街並みを歩き、麟から手渡された飲み物を受け取ると、奈落の傍にある広場の長椅子に腰を下ろす。
「深い……」
ひなは椅子に座ったまま、手すりで囲われた奈落を覗き込んだ。
街は巻貝のような形をしている。大きな円状になった中心にぽっかりと大きな口を開けた奈落。よく見れば、街はその奈落の底を目指しているように見えた。
「この穴の先に、最終審判の門がある」
麟もまた、ひなと同じように奈落を見つめた。
「最終審判って、どんなことするの?」
「十三王の裁きを順に受けることになる。最終的に、閻魔が采配を振るんだ」
ひなは穴の先を見つめたまま、思わず息を呑む。
こうして見つめていると、まるで呼ばれているような感覚に陥り、吸い込まれてしまいそうだった。
「……そういえば、こうやって麟さんとお出かけするの、ずいぶん久し振りな気がする」
奈落から慌てて視線をそらしながら、ひなは話の矛先を変えた。
「ひなには、だいぶ時間が経っているように感じるだろう」
「うん……。でも、麟さんはそうじゃないよね?」
「そうだね……。ほんのわずかな時間で、軽々と抱き上げられたはずの子が大きくなったことには、少し戸惑いはあるよ」
困ったように笑う麟に、ひなもまた笑って返した。そして、手にした飲み物の水面を見つめ、容器の縁を親指でなぞる。
「……私、ずっと麟さんと同じになりたかったんだ」
「?」
ぽつりと呟いた言葉に、麟は不思議そうな顔を浮かべる。ひなは、水面に映る自分を見つめている。その横顔は、どこか憂いが籠っている。
「ここは、魂だけが来る世界で、私は実態を持ったままここにいる……」
その言葉を聞いた瞬間、麟は肌が泡立つような感覚を覚えた。
「麟さんと同じになるには、一回死んでこなきゃいけないのかも……って」
ひなの話が途切れるよりも先に、麟の体が動いていた。
伸びた手はひなの体を掻き抱くように抱きしめる。
突然のことに目を見開いたひなは、手にしていた飲み物をその場に取り落とし、目を瞬く。
「り、麟さん?」
「……そんなことは、間違っても言わないでくれ」
感情を抑えたような声で囁く麟の声に、ひなの知らない麟の心の傷に触れた気がした。
「ご、ごめんなさい……」
戸惑いながら謝り、麟の着物の袖を小さく掴む。
「そんなに、取り乱すって思わなかった」
「……」
「ただ、違うなって思って……」
麟はひなを抱きしめる手に力を込める。
「違わない」
「え?」
「何も違わない。君の居場所はここに……ある」
抱きしめていた腕を解き、麟はひなの手を掴んで自分の胸元に引き寄せる。ひながそれを追うように視線を上げると、僅かに目を見開いた。
いつも穏やかな笑みを湛える麟が、今にも泣きだしそうな表情をしている。
そんな顔を見るのは、初めてだった。
「麟さん……」
「君は納得したから、あの時、この世界の食べ物を口にしたのだろう?」
麟のあまりに必死な表情に、ひなは言葉を呑んだ。
「うん……。初めて桃を貰った時、だよね」
ひなが納得したように頷き返すと、麟はようやく肩から力を抜いた。
麟は掴んでいたひなの手をゆっくりと解き、まだどこか不安げに彼女を見た。その視線から逃れるように、僅かに俯いたひなの髪の一部がはらりと顔にかかった。
麟はそっとその髪をひなの耳にかけると、僅かに視線が上がる。
「……今日は、どうしてその恰好をしようと思ったんだ?」
「え?」
思いがけない質問に、ひなは麟を見た。
「いつもの君とは違う。そうしようと思ったのには、何かわけがあるんだろう?」
「……」
ひなはそう訊ねられ、視線を泳がせながら顔を下げた。
「……お母さんに、逢いたくなったの」




