地獄のような場所
「香蓮。あなたは世界一可愛い。あなたは絶対、世界に通用するモデルになるわ!」
遠くで誰かが嬉々としていう。
数回瞬いている内に、ぼやけた視界が徐々に鮮明さを取り戻してくる。
目の前には見覚えのない女性が一人。肩までの髪を巻いた小綺麗な身なりをした女性は大人びたものから可愛いものまでありとあらゆる衣装を持ってくると、香蓮に着せた。
ぼんやりと鏡の前に立ち女性のなすがままになっている香蓮は、まるで着せ替え人形のようだった。
この女の人は誰だっけ……。
……あぁ、そうだ。この人は母親だ。今鏡に映っている目の前の「香蓮」という名の女の子の母親だ。
俯瞰で感じていたひなは、痺れたような意識の中でそれを見つめる。
幼く、母の言うままになっている香蓮に「可愛い」「似合っている」とオーバーなほど褒め称え、ひたすらにもてはやした。
「可愛い?」
香蓮が恥ずかしそうにもそう訊ねると、母は興奮したように頷き返す。
「もちろんよ。あなたは最高だわ! ママの自慢の娘よ!」
娘に対して一切迷いのない愛情。香蓮はその母の言葉を信じて疑わなかった。
……だが、笑顔を見せるその母の目はいつも笑わない。そして、瞳孔が開いていた。何かに取り憑かれたかのように血走った眼をして、香蓮を見ていた。
繰り返される母の賞賛の言葉。母の異変を察することなく、香蓮は母の言葉を鵜呑みにし続ける。
母の思惑通り、小学生にしてモデルになった香蓮に対し、母の干渉はより強くなった。食べ物や飲み物、友好関係、時間、居場所……。すべてを監視してくるようになる。
「ママ……。明日、友達と遊びにいってもいい?」
これまで自分の意見を伝えなかった香蓮が、中学生になったある日躊躇いがちにそう訊ねれば、母は今まで見たこともないような形相で睨みつけてくる。
「……は? 友達と遊びにいく?」
静かに発せられた言葉のあと、決まってヒステリックになった母はなりふり構わず香蓮を責め立ててくる。
――ママはあなたのために自分の時間を割いてあげているのに。
――あなたに何かあったら、ママがやってあげたこと全部パーになるのよ。
――あなたのためにやってあげているのよ。
目を見開いて血眼で繰り返すこの発言は、子供に罪悪感を持たせるだけでなく反論する余地すらなくさせてしまう。そして父は、そんな香蓮にも母にも無関心を決め込んでいるような人だった。
「香蓮、今日はあなたのオーディションの日よ。大丈夫、何も心配いらないわ。だってあなたは最高に可愛いんだもの! スタイルだって誰にも負けてない。自信もっていいんだから、ね?」
そんなことを考えているわけでもないのに、母は一方的に香蓮を励ましてくる。
子供に対する親心。だが、彼女の行き過ぎた干渉は、子供の性格を確実に歪めてしまっていた。
「あたしは可愛いんだから何をしても許されるの。オーディション? そんなもの、私が総取りするに決まってるじゃない。あたしを誰だと思ってんの?」
香蓮が十四になる頃にはその歪みが顕著に表れた。
我儘で周りの人間のことなどおかまいなし。誰もが自分を敬い、もてはやす存在なのだと疑わない。実際にどのオーディションも彼女が必ず合格したことで、その傲慢な性格にさらに拍車をかけていく。
自分という存在を使い分け、大人や権力者の前では猫をかぶり、その裏では傲慢で人の粗探しをしては愚弄し、揚げ足を取っては追い詰め馬鹿にする。
そんな振る舞いを繰り返す彼女の歪みを、誰もが気付きながら見て見ぬふりをした。
「あたしが貰えない仕事なんかこの世に一つもないのよ。だってあたしは、誰もが認めるトップスターだもの!」
その香蓮が、青山の大通りで車に跳ねられ亡くなった。齢十六の夏だった。
南青山のモデル事務所から、表参道に向かうまでの二四六号線でその悲劇は起きた。
渋谷から宮益坂を無謀な運転をする暴走車。信号を横断していた香蓮と歩行者数人を轢き、車は近くの店先に突っ込んで留まる。
運転手は酒と一緒に薬物を使用した若者で、盗難した車で事故を起こし即死した。
この事故は号外が出るほどの騒ぎになっていた。反面、香蓮が亡くなった情報も新聞やニュースに大きく取り上げられはしたもののすぐに何もなかったかのようにささやかれなくなってしまう。彼女の無念よりも事故を起こした犯人に人々の強い関心が寄せられたためだった。
何もわからない内に死んでしまった無念。
自分の中に抑え込まれた不満、忘れ去られていくことの恐怖と苛立ち。それらが全て香蓮の中で爆発した。
――どうしてよ……どうしてあたしのこと、そんな簡単に忘れちゃうのよ。みんな、あたしのこと認めてくれたじゃない。なのに何で、こんな早く記憶から消せるのよ!
***
雨が降っていた。
顔に絶え間なく当たり続ける雨に目を覚ましたひなは、虚ろな目で瞬きを繰り返す。
視界の先には、小さい頃に遊んだ記憶のあるブランコとジャングルジム、そして運ていの遊具が見えた。
「……」
ゆっくりと体を起こすと、体の半分は泥にまみれ全身雨でぐっしょりと濡れている。泥と雨で汚れた髪がべたりと肌に張り付き、それを払い除けようと持ち上げた手を見て、ひなは自分の体の異変に気付き動きを止める。
「な、に……?」
今見えている手は、本当に自分のものだろうか。
これは、今まで見てきた子供らしい丸さを帯びた手ではない。指を見つめ、ぎこちなくその先に続いている腕に視線を移せば、腕も足もすらりと長く、違和感しかない。
ひなは恐る恐るその手で自分の顔に触れてみるが、いつもよりほっそりしている気がした。
自分の体なのに自分のものではないような、そんな感覚になる。
「……」
辺りをよく見まわしてみると、この公園は確かに小さい時に時々一人で遊びに来たことがある場所間違いがない。
「……ほ、ほんと、に?」
ひなは不安に早くなる鼓動を感じながら、ふらりとその場に立ち上がる。
本当にここは現世なのだろうか。
公園の出口から一歩出ると、ひなは目を見張った。
この場所から車通りを渡った斜向かいにひなが暮らしてきた家がある。しかも、そのままの姿で。
瞬間、ひなの冷え切っている体温が更に低くなった。
「本当に、戻ってきちゃったの……?」
ひなはただ愕然とするしかなかった。
来ていた着物は雨水を吸ってずっしりと重たい。まるで、戻ってきたことをわからせてくるかのような、嫌な重たさだった。
ふらふらとよろめきながら家の前までやってくる。
ひなが家を出てから祖父母は戻ってきてはいないのだろう。まだこの家にいた時には綺麗に刈り揃えられていた庭の草も、今は無造作に生えてすっかり荒れている。門も錆びついて、朝顔の蔦が複雑に絡みついていた。
「……」
ひなは力なくその場に崩れ落ちた。
雨の音も、身を切るような冷たさも、一枚ベールがかかったかのように入ってこない。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
ふいに背後から声を掛けられ、ひなは緩慢な動きで振り返ると若い夫婦が傘をさして立っていた。見たことがない夫婦だが、買い物を終えて自宅に帰ろうとしている途中らしい。
「おい、やめとけよ」
心配して声をかけた女性とは対照的に、男性は気味悪いものを見たような目でこちらを見てくる。
その目を、嫌というほど知っている。
ひなは喉の奥が絞まるような感覚を思い出す。
「でも、こんな雨の中放っとけないじゃない」
「いや、マジやめとけって……そもそも、幽霊かもしれねぇだろ」
「なに馬鹿なこといってるの! そんなわけないじゃない!」
気味悪がる男性とは違い、女性は非人道的な行動はとれないと怒り手にしていた荷物を押し付けてひなの肩に手を置く。
「とにかく、うちに上がって?」
「……」
女性はひなの体を支えるように立ち上がらせると、夫婦の家に向かって歩き出す。
男性の近くを通り過ぎようとすると、彼は怪訝そうに眼を細めて呟く。
「気色悪い……」
その一言に、ひなは顔を顰めて目を閉じた。
「お風呂、入れるから。あとこれ、タオル。着替えは私のを後で持ってくるから使ってくれていいわ。あ、床が汚れてるのは気にしないでいいからね?」
家に案内されたひなは、世話好きな女性にいわれるまま浴室に通される。
手際よくタオルを置いて出ていった。ひなは、そんな女性の後姿を追うようにぼんやり扉をみつめるしかなかった。




