第29話 持たざる者
「汐音」
真っ直ぐ外に出ようとすると、階段から可憐が降りてきて、わたしはびくりとした。
可憐はもう衣装に着替えている。SAYURIの透けるような桜色。
「どこ行くの? もうすぐ六級のエレメンツ始まるよ。洵くん見るでしょ」
「……可憐」
下からうかがうように、わたしは可憐の目を覗き込んだ。
「体調……どう?」
「……大丈夫。痛み止め飲んだし、平気」
確かに、昨日と比べるとずいぶん顔色は良かった。いつも通りの可憐に見える。
でも。
「結局、どうしたの。……その、あれ、入れたの」
途切れ途切れに訊くと、可憐は少し気まずそうに眉を下げて微笑んだ。
「うん。まあね。今も入ってるよ」
ずきりと胸が痛んだ。
下腹部に慎ましく置かれた可憐の手のひらの下。フォーカスする前に、思考がブラックアウトする。
どうやって、なんて考えたくもなかった。
どう言い繕ったって、おぞましい侵入でしかない。
無力感に押し潰されそうだった。
閉じ込められている、と思った。肉体という容れ物に。
「……汐音。ありがとね」
え、と声が抜ける。可憐は苦笑する。
「汐音がいないと、私無理だったよ。汐音が先生に真っ直ぐ気持ちをぶつけてくれたから、私覚悟ができたんだと思う。……私、ちゃんとするから。意気地無しはもうやめにする」
だから、汐音。スケートやめるなんて言わないでよね。
わたしは、それ以上可憐の目が見れなかった。
覚悟。意気地。
……また、わたしの持ち物ではないものの名前。
でも、背負って初めて氷の上に出て行けると言わんばかりに、可憐は凛としていた。
可憐にとって、氷上はそんな場所なんだろうか。
だからスケートをやるのか。
理由。答え。
……何一つ、わたしは持ち合わせていなかった。
そのまま、力なく自動ドアへと足を向けた。
「どこ行くの」
「うん、すぐ戻る」
嘘じゃないつもりだ。
振り返らず外に出た。行き先は決めてない。
どこでもよかった。
洵を持って、洵から逃げる。
足場を支える刃。
その正体が本当に分身なら、わたしはわたしを持たないから彷徨うだけ。




