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氷上のシヴァ  作者: 天上杏
Bonus Track 第六章 Butterfly 霧崎汐音
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第29話 持たざる者

「汐音」


 真っ直ぐ外に出ようとすると、階段から可憐が降りてきて、わたしはびくりとした。

 可憐はもう衣装に着替えている。SAYURIの透けるような桜色。


「どこ行くの? もうすぐ六級のエレメンツ始まるよ。洵くん見るでしょ」

「……可憐」

 下からうかがうように、わたしは可憐の目を覗き込んだ。

「体調……どう?」

「……大丈夫。痛み止め飲んだし、平気」


 確かに、昨日と比べるとずいぶん顔色は良かった。いつも通りの可憐に見える。

 でも。


「結局、どうしたの。……その、あれ、入れたの」

 途切れ途切れに訊くと、可憐は少し気まずそうに眉を下げて微笑んだ。


「うん。まあね。今も入ってるよ」


 ずきりと胸が痛んだ。

 下腹部に慎ましく置かれた可憐の手のひらの下。フォーカスする前に、思考がブラックアウトする。

 どうやって、なんて考えたくもなかった。

 どう言いつくろったって、おぞましい侵入でしかない。

 無力感に押し潰されそうだった。

 閉じ込められている、と思った。肉体というれ物に。


「……汐音。ありがとね」


 え、と声が抜ける。可憐は苦笑する。


「汐音がいないと、私無理だったよ。汐音が先生に真っ直ぐ気持ちをぶつけてくれたから、私覚悟ができたんだと思う。……私、ちゃんとするから。意気地無しはもうやめにする」


 だから、汐音。スケートやめるなんて言わないでよね。


 わたしは、それ以上可憐の目が見れなかった。

 覚悟。意気地。

 ……また、わたしの持ち物ではないものの名前。

 でも、背負って初めて氷の上に出て行けると言わんばかりに、可憐は凛としていた。

 可憐にとって、氷上はそんな場所なんだろうか。

 だからスケートをやるのか。

 理由。答え。

 ……何一つ、わたしは持ち合わせていなかった。

 そのまま、力なく自動ドアへと足を向けた。


「どこ行くの」

「うん、すぐ戻る」


 嘘じゃないつもりだ。

 振り返らず外に出た。行き先は決めてない。

 どこでもよかった。


 洵を持って、洵から逃げる。

 足場を支える刃。

 その正体が本当に分身なら、わたしはわたしを持たないから彷徨さまようだけ。

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