第1想 これが野獣姫
ぱしゃん――私のドレスに真っ赤なワインがぶちまけられました。青い生地に赤黒いシミが広がっていくのが目に入りました。
これは一体、何が起きまして……?
「この尻軽女っ! あちこちで殿方を押し倒してるそうじゃないっ! 殿下が何もおっしゃらないのを良いことに――」
足にじわりとした冷たさが広がりました。ああ、分かりましたわ。そこの女が、私のドレスにワインをぶちまけてくださったのでしたわね。
理解した瞬間、体中の血液が沸騰しました――それと同時に、無意識に体が動いてしまいました。
「ちょっ! こんな辱めっ! 痛いっ! ただで済むと思ってるのっ! やめなさいよっ!」
気付けば、私はそのご令嬢を華麗にホールの床へ組み伏せ、完全に寝技をキメておりました――
またやってしまいました。お父様がうるさそうですけれど、今はそんなこと関係ありません。
ドレスの裾が派手に捲れようとも関係ありません。私の自慢の左右に飾られた黒い縦ロールが乱れようとも関係ありません。
私が組み伏しているご令嬢は悲鳴を上げようと、涙目でこちらを睨んでいようと関係ありません。
だって、貴女がいけないのでして? 私を怒らせたのは貴女ですもの。
クラシックな音楽の演奏が響く場内で、駆け寄ってくる足音が2つありました――
「マーガレットッ! お前、バカかっ! 大事な国のパーティーのど真ん中で、何を平然と寝技をキメているっ!」
「ま、マーガレットッ! 落ち着け、落ち着くんだ。それ以上、体勢を固めたらご令嬢の関節が外れてしまうぞ」
2つの声に、私は床に組み伏せたまま振り返り、笑顔でこう答えました。
「あら、殿下にゲオルグではありませんこと。どうかしまして? ふふ」
「み、皆は気にせず、パーティを楽しんでくれっ! これは余興、そう、余興だっ! あっはっはっ!」
空のように美しい青い目をきょろきょろと動かし、長い金髪を揺らしながら必死に場を取り繕おうとする、引き攣った顔のアレックスと――
「マーガレット……やめるんだ……いいか?」
「いい加減、離しなさいよっ! 貴方も早く助けなさいよっ!」
茶色い短髪を掻きながら、草原のように澄んだ緑色の目を困らせている、大好きな幼馴染のゲオルグがいました。
必死に私をなだめようとしているのでしょう。
床に押し付けられるご令嬢が、助けを求めていますが、そう簡単には逃がしません。
「ですけれど、この方……よりにもよって、『勝手に』借りた、お母様の一番お気に入りのドレスに、ワインを浴びせてくださったのですよ?」
私の主張に、ゲオルグの顔が青ざめていました。幼い頃からお母様を知るゲオルグには分かっていました。
このことがお母様に知れてしまったら……
「ただで済むと、本気で思いまして?」
怒りに任せて、さらに締めようとしたその時――
「はい、マーガレットさーん。ギブですよ、ギブ。彼女はギブですよ〜」
どこからともなく現れた、朗らかで可愛らしい声と共に肩を叩かれました。
「でも、ソフィア――」
「明日、それと同じような新しいドレス、急ぎで仕立てに行っちゃいますか〜?」
肩ほどの金色の髪を揺らし、にこりと微笑みました。親友である彼女の赤い瞳が任せてくださいと告げていました。
ようやく私はご令嬢の上から退き、拘束をゆっくり離します。
「いい案ですわね。それなら、誤魔化せそうですわね」
「でしょう? そういえば、あっちでマーガレットさんが好きそうな生クリームてんこ盛りのロールケーキを見ましたよ?」
「っ!? 行きますわよっ!」
足早にケーキへと向かう私の背後で、アレックスの声が聞こえました。
「大丈夫か、サニア? 済まないな。マーガレットには、悪気はその……少ししかないんだ」
「痛たた……アレックス殿下っ! これほど野蛮で品のない女、とても淑女なんて呼べませんわっ! 婚約など破棄してくださった方が国のためですわっ!」
その怒鳴り声に、周囲はどよめいておりました。そういうことは、私が完全に去ってからやってくださればいいものを……
それを聞いたアレックスは、私を見てニヤリとしました。何だかとても、悪い顔をしていますわね。
隣のゲオルグは呆れた顔を見せつつ、関わりたくなさそうに、さっさと去っていきました。
「婚約破棄、か? 面白い、してみるとするか」
「殿下っ! さすがでございますっ! よいご決断ですっ!」
ご令嬢は、嬉しそうに胸の前で手を握り合わせ、これでもかと可愛い子ぶっていました。
「マーガレット・オリジン公爵令嬢! お前との婚約を今、この場で破棄させてもらう!」
「は?」
貴方、この大注目をどうしてくださって? 皆様の視線が当然、私に集まりました。
アレックスは横を向いて、ご令嬢に気付かれないようにクスクスと笑っていました。
「はぁ……最初からしていないのですけれど」
「え……」
ご令嬢は言葉を失い、困惑気味に私とアレックスを交互に見ていました。
「悪戯が過ぎましてよ、殿下」
私の言葉に、熱気を帯びすぎた会場を見て、反省したのか、アレックスは少し俯いて見せました。
「……すまんな、冗談が過ぎた。マーガレットの言う通り、婚約はしていないんだ。噂が一人歩きしているからちょうどいいと思ってな、はは」
「それから、あちこちの殿方を押し倒してなどおりませんでしてよ?」
「ちょっとマーガレットさん! また揉めますって! 行きますよ!」
ソフィアに引っ張られ、私はその場を後にしました。
そして、ソフィアが案内してくれた場所には、私のために作られたのではないかというほどの、生クリームコーナーが設けられておりました。
ここ数年、毎回このコーナーが用意されるようになっている気がするのは気のせいでしょうか。まさか、アレックスの気遣いでしょうか?
「マーガレットさん、あれですよ〜」
「っ!? ななな、何て美しい造形でしょう! あ、あれをくださって!?」
その場に立つパティシエにお願いしました。お皿に載せられた1つの白いロールケーキが目に飛び込んで来ました。
内側も外側もこれでもかというほど生クリームが溢れていました。
「はふ……っ!」
口の中で溶けるロールケーキ。少しだけ味の違う生クリーム同士が生み出すハーモニーが、口の中いっぱいに広がりました――
「マーガレット!」
聞き慣れた声が私を呼んでいました。振り向かなくても誰だか分かりますし、振り向きたくもありません。
「マーガレット! 聞こえないのか!」
「マーガレットさん、おじ様が呼んでますよ〜?」
隣でソフィアがそう耳元で囁きました。やれやれという気分になりました。内容は分かっていますから……
心から嫌々振り返りました。
「自分が何をやったのか、分かっているのか!」
談笑する賓客たちの人混みの中、お父様は、顔を真っ赤にして立っていました。何をやったかなんて、当然分かっています。
「はい、お父様。お母様直伝の『殿方ですらダメになる寝技』です」
不貞腐れて、そう言いました。せめてもの抵抗ですわ。
「おま、嫁入り前なのに何と破廉恥な! セイレーンが教えたのか……」
「ええ、お母様直伝ですわ」
「はぁ……分かった、もういい。相手様に何て謝罪したら良いのか……」
諦めた様子のお父様に、私だって被害者だということを、お伝えしておかなければなりません。
「でも、お父様。私だって、ドレスにワインをかけられましたわ。ほら、ご覧になって?」
私がシミになった部分を見せると、お父様は頭を抱えてしまいました。
「……いくら武闘派オリジン家だからと言って、何でも許される訳ではないぞ。次は、気を付けるように!」
「そんなこと、分かっていますわよ、お父様?」
「はぁ……これは、分かっておらんな」
とぼとぼと立ち去るお父様を見送ると、曲調が大きく変わりました。パーティの終わりが近いようです。急いでケーキを――
「マーガレット!」
「はひ?」
フォークで刺したケーキを頬張りながら返事して振り向くと、そこには爽やかに手を差し出しているアレックスの姿がありました。
「未来の夫婦の姿を、皆に見せつけてやろうではないか?」
ふざけた誘いに思わず寝技をキメそうでしたが、幼馴染とはいえ仮にも第1王子です。どうやって断りましょう――
「マーガレット!」
別の方向から、逞しい声がしました。この声を待っていたのです。微笑みながら、振り向きました。
ゲオルグゥゥゥッ!
そこには、照れて頬を指で掻き、手を差し出すゲオルグの姿がありました。
「僕と……踊ってくれないか」
すぐにでも「はい!」と返事をしたいところですけれど、1つの問題が生じました。
今、ここでゲオルグの誘いに乗ってしまうと、先に声をかけてもらったアレックスのことを露骨に断る形になり、非常に印象が悪くなります。
下手したら、私たち3人の関係にヒビが入ってしまうかもしれません。どうすれば……
「マーガレット」
また別の方向から呼ばれました。今度は誰でしょう?
「女王様……」
毎年開催される、この王家主催のグランヴェール建国パーティでは、私を娘のように可愛がってくださる女王様と踊るのが通例でしたわね。
「踊ってくださるかしら?」
「もちろんです!」
正直、助かりましたわ。女王様のおかげでアレックスとゲオルグを選ばなくて済んだのですから。
女王様の優しい微笑みの中、ダンスを優雅に終えました。
そして、今宵の宴も終わりを迎え、お母様に見つからないよう、着替えを済ませてから帰りました。
自室に戻り、ベッドに横たわると、パーティを思い出していました。
と言いましても、思い浮かぶのは、ゲオルグの困った可愛らしい顔と、ダンスに誘う照れくさそうな顔なのですけれど。
ばふっ。枕に顔を埋めました。叫びたくなりましたので。
「ゲオルグ好きぃぃぃっ! 貴方と踊りたかったですわぁぁぁっ!」




