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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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23/30

朝の決議

 夜明け前から、人が集まっていた。


 広場に篝火かがりびが四つ。春の朝でも崖の上は風が冷たく、人々は肩を寄せ合って立っている。ナギは広場の端に、タマキとカヤに挟まれるように立った。ミノリが少し後ろにいる。振り返ると、ミノリはナギと目が合うと小さく頷いた。それだけだった。言葉は何もない。


 集落の全員が来ていた。百二十人あまり。こんなに全員が同じ場所に集まるのは、冬を越えたあとの種まき祭りか、誰かが死んだときくらいだ。


 まだ空は暗かった。東の空に、細い薄明かりが滲み始めているだけだ。篝火の光が顔を照らし、人々の表情を赤く染めている。見知った顔が並んでいる——芋を一緒に収穫した女、昨年の冬に外壁の修繕を手伝った男、ミノリの父親。だが誰もナギを見ない。ナギが目を向けると、すっと視線を逸らす。それだけが違う、いつもの集落だった。


 シズが中央に立った。七十歳の老人だが、声は大きい。


「皆に問う」


 広場が静まった。篝火の音だけが聞こえる。春の風が一瞬吹いて、火が揺れた。


「ナギをこの集落に留め置くか、否か」


 ナギは自分の名前が呼ばれるのを聞いて、腹の底が冷えるのを感じた。寒さとは違う冷えだ。石を握る。布越しに、温かさが返ってくる。いつもそうだ。この石だけは、冷たくならない。


「森が迫っている」とシズは続けた。「三月で蔓が崖の半分まで来た。あのような速さは見たことがない。この子が力を使い始めてから、森の動きが変わった。偶然ではないと、わたしは思う」


 誰かが「そうだ」と言った。誰かが「わからない」と言った。ナギは足元を見た。霜が降りていない。春の土は少し湿っている。


「追い出したとして、森が止まるか」カヤが声を上げた。「それは誰も確かめていない。ナギのせいだという証拠もない」


「証拠がないから議論している」


「証拠がないのに追い出すのは、ただの厄払いだ」


 ざわめきが広がった。賛成と反対の声が交互に出てきた。ナギには、どちらが多いかわからなかった。石を握る力が強くなっているのに気づいた。石は答えない。ただ温かい。


 賛成と反対が重なり合って、広場がうるさくなった。シズが「静まれ」と言うと、波が引くように静まった。議論が続いた。五分か十分か——ナギには時間の感覚がなかった。ただ自分の名前が何度も呼ばれるのを聞きながら、立っていた。「あの娘は」「ナギが」「あの子の力が」。自分の話をされているのに、まるで別の誰かのことのようだった。


 そのとき、ヨルが立った。


 広場の後方、石壁に背を預けていた老人が、杖を突いてゆっくりと立ち上がった。誰もが見た。ヨルが集会で立つのは珍しい。語り部は集落の外側に立つ人間だ。決め事に口を挟まない、というのが長年の慣習だった。


「語り部殿」とシズが言った。「発言か」


「ある」


 ヨルは中央に歩いていった。杖の音が広場の石に響いた。老人の足取りは遅いが、止まらない。一歩ごとに、広場が静かになっていった。


 中央に来て、ヨルは全員を一度見渡した。ナギもその視線に入った。一瞬、ヨルの目と合った。何かを決めた目だ、とナギは思った。


「口伝を語る」


 ざわめきが止まった。


「長い話ではない。大事なところだけ言う」


 ヨルは一つ息を吸った。ナギは知っていた。これが口伝に入る前のヨルの癖だ。


「百四十八年前、この世界には虫がいた。目に見えない虫だ。空気の中に、土の中に、人の体の中にも。その虫は人の命令を聞いた。人が望めば雨を降らせ、病を退け、傷を癒した。人はその虫なしには生きられなくなった」


 静かだった。誰も動かない。篝火が風に揺れる音だけがある。


「ある日、一人の賢者がその虫を断った。虫と人の繋がりを、切った。それ以来、虫は人の言葉を聞かなくなった。虫は勝手に動き、勝手に増え、今わたしたちが見ているこの青い森になった」


 ヨルはナギを見た。視線が来た。ナギは動かなかった。


「この娘の力は、虫との繋がりが戻っている証拠だ。百四十八年ぶりに、虫がまた人の言葉を聞いている」


 広場がざわめいた。今度のざわめきは違うたちだった。怖れに近い。ナギは人々の顔を見た。驚いている。信じていない。あるいは信じたくない。それでも——「呪い」という言葉より、少しだけ整合性のある説明として、受け取ろうとしている者がいた。


「空の目がある」とヨルは続けた。「虫を管理していた、遠い祖先の仕掛けだ。虫と人が再び繋がれば、その目は動く。口伝はそう伝えている」


 ヨルはそこで止まった。


 ナギは知っていた。ここから先がある。第五節——「もし人が再び蟲に触れたなら、止めよ」という言葉が。ヨルはそれを言わなかった。


「以上が、語り部の口伝に記されていることだ」


 シズが口を開いた。「語り部殿。その話は確かか」


「確かとは言えない。百四十八年の間に、どこかが変わっている可能性はある。だが骨格は本物だ。実物を見た」


「虫と繋がったなら、この娘は危険ではないか」


「それはわからない」とヨルは言った。「だがこの娘を追い出して、問題が解決するとも言えない」


「語り部の昔話で、この集落の将来を決めるのか」と、誰かが声を上げた。男の声だ。「あんたの話が本物かどうか、確かめる手段もない」


「そうだ」とヨルは言った。「だから決めるのはあなたたちだ。わたしにできるのは、知っていることを話すことだけだ」


 ヨルは杖を突いて、元の場所に戻っていった。


 もう一度議論が起きた。ヨルの話を信じる者と、信じない者と。口伝を昔話として退ける声もあった。しかし今度は、「ただの呪い者」という声が少なくなった。ナギには、空気の変化が微かに感じられた。変化は小さい。それでも、確かにある。


 篝火かがりびの一つが、少し勢いを失って細くなった。誰かが薪を足した。ぱちぱちと音がして、火が戻る。その明かりの中で、賛成と反対の顔が入り交じって動いている。ナギには自分の感情がよくわからなかった。怖いはずだ。でも怖さより先に、疲れがある。夕べから眠れていない。ヨルに昨夜呼ばれて、口伝の第五節を聞いた。空の目。止める。その言葉が頭の中でまだ回っている。それなのに今、この広場で自分は留まれるかどうかを決められようとしている。おかしな話だ、とナギは思った。空の目は遠くにある。でも目の前に百二十人がいる。どちらが怖いか——わからない。


 投票は日が完全に出てからだった。


 石を白と黒に染め分けた小石を使う。白が留める、黒が追う。シズが一人ずつから石を受け取って、袋に入れた。ナギは参加しなかった。自分のことを自分で決めるのは、筋が違う。タマキがナギの隣に立っていた。何も言わなかった。ただ、ナギの肩に手を置いていた。それだけで十分だった。


 結果は白六十三、黒五十五だった。


 八票差だった。


留置りゅうちを決める」とシズは言った。「ただし条件がある。力の行使は、事前に長老の承認を得ること。単独での森への立ち入りを禁ずること」


「承知した」とカヤが答えた。ナギ本人より先に。


 ナギは頷いた。声が出なかった。


 人々が散り始めた。タマキがナギの腕を引いた。家に帰るぞ、という意味だった。


 ヨルは広場の端でじっと立っていた。ナギが近づいても、振り返らなかった。


「ヨル」


「ああ」


「第五節を言わなかった」


「余計なことを言って、人を怖れさせる必要はない」


 ナギはヨルの横顔を見た。老人の顔が、いつもと少し違う。何かを諦めたような、あるいは決めたような顔だ。目の下に、昨夜眠れていない証拠のような疲れがある。それでも口元は、微かに——ただ立っているだけの顔だ。


 ヨルが言った。「わたしは三十年、口伝を守ってきた。今日初めて、守ることより使うことを選んだ」


 そこで言葉が止まった。


 ナギは何も言えなかった。


 ヨルが続けた。「正しかったかどうかは、まだわからない」


 静かな声だった。誰かに聞かせるためではなく、自分に言い聞かせているような声だ。


「でも、ありがとう」とナギは言った。


 ヨルは答えなかった。ただ一度、小さく頷いた。


 広場の向こうで、東の空が明るくなっていた。朝の光の中で、崖のふちを見ると——青い蔓が、石の割れ目から伸びているのが見えた。夜の間に、また少し進んでいる。


 決議は終わった。だが森は、決議を待っていない。


 ナギは崖の端を見た。蔓が届くまで、あと十歩あるかないか。広場に残る人々の声が遠ざかっていく中、ナギはその十歩を目で数えた。朝の光が蔓の青を染め上げていた。美しいとさえ思った。その美しさが、少しだけ、恐ろしかった。


 ミノリが隣に来た。「おつかれ」とだけ言った。


「うん」


「食べてないだろ。帰ったら食べろよ」


 それだけだった。ミノリはそのまま広場の方に歩いていった。ナギは崖の縁を見続けた。蔓は今日も動いている。集落は今日も動いている。決議が出ても、蔓は来る。蔓が来ても、集落は動く。それだけのことだ。そしてナギは——今日もここにいる。それだけでいい、と、ナギは初めてそう思った。



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