朝の決議
夜明け前から、人が集まっていた。
広場に篝火が四つ。春の朝でも崖の上は風が冷たく、人々は肩を寄せ合って立っている。ナギは広場の端に、タマキとカヤに挟まれるように立った。ミノリが少し後ろにいる。振り返ると、ミノリはナギと目が合うと小さく頷いた。それだけだった。言葉は何もない。
集落の全員が来ていた。百二十人あまり。こんなに全員が同じ場所に集まるのは、冬を越えたあとの種まき祭りか、誰かが死んだときくらいだ。
まだ空は暗かった。東の空に、細い薄明かりが滲み始めているだけだ。篝火の光が顔を照らし、人々の表情を赤く染めている。見知った顔が並んでいる——芋を一緒に収穫した女、昨年の冬に外壁の修繕を手伝った男、ミノリの父親。だが誰もナギを見ない。ナギが目を向けると、すっと視線を逸らす。それだけが違う、いつもの集落だった。
シズが中央に立った。七十歳の老人だが、声は大きい。
「皆に問う」
広場が静まった。篝火の音だけが聞こえる。春の風が一瞬吹いて、火が揺れた。
「ナギをこの集落に留め置くか、否か」
ナギは自分の名前が呼ばれるのを聞いて、腹の底が冷えるのを感じた。寒さとは違う冷えだ。石を握る。布越しに、温かさが返ってくる。いつもそうだ。この石だけは、冷たくならない。
「森が迫っている」とシズは続けた。「三月で蔓が崖の半分まで来た。あのような速さは見たことがない。この子が力を使い始めてから、森の動きが変わった。偶然ではないと、わたしは思う」
誰かが「そうだ」と言った。誰かが「わからない」と言った。ナギは足元を見た。霜が降りていない。春の土は少し湿っている。
「追い出したとして、森が止まるか」カヤが声を上げた。「それは誰も確かめていない。ナギのせいだという証拠もない」
「証拠がないから議論している」
「証拠がないのに追い出すのは、ただの厄払いだ」
ざわめきが広がった。賛成と反対の声が交互に出てきた。ナギには、どちらが多いかわからなかった。石を握る力が強くなっているのに気づいた。石は答えない。ただ温かい。
賛成と反対が重なり合って、広場がうるさくなった。シズが「静まれ」と言うと、波が引くように静まった。議論が続いた。五分か十分か——ナギには時間の感覚がなかった。ただ自分の名前が何度も呼ばれるのを聞きながら、立っていた。「あの娘は」「ナギが」「あの子の力が」。自分の話をされているのに、まるで別の誰かのことのようだった。
そのとき、ヨルが立った。
広場の後方、石壁に背を預けていた老人が、杖を突いてゆっくりと立ち上がった。誰もが見た。ヨルが集会で立つのは珍しい。語り部は集落の外側に立つ人間だ。決め事に口を挟まない、というのが長年の慣習だった。
「語り部殿」とシズが言った。「発言か」
「ある」
ヨルは中央に歩いていった。杖の音が広場の石に響いた。老人の足取りは遅いが、止まらない。一歩ごとに、広場が静かになっていった。
中央に来て、ヨルは全員を一度見渡した。ナギもその視線に入った。一瞬、ヨルの目と合った。何かを決めた目だ、とナギは思った。
「口伝を語る」
ざわめきが止まった。
「長い話ではない。大事なところだけ言う」
ヨルは一つ息を吸った。ナギは知っていた。これが口伝に入る前のヨルの癖だ。
「百四十八年前、この世界には虫がいた。目に見えない虫だ。空気の中に、土の中に、人の体の中にも。その虫は人の命令を聞いた。人が望めば雨を降らせ、病を退け、傷を癒した。人はその虫なしには生きられなくなった」
静かだった。誰も動かない。篝火が風に揺れる音だけがある。
「ある日、一人の賢者がその虫を断った。虫と人の繋がりを、切った。それ以来、虫は人の言葉を聞かなくなった。虫は勝手に動き、勝手に増え、今わたしたちが見ているこの青い森になった」
ヨルはナギを見た。視線が来た。ナギは動かなかった。
「この娘の力は、虫との繋がりが戻っている証拠だ。百四十八年ぶりに、虫がまた人の言葉を聞いている」
広場がざわめいた。今度のざわめきは違う質だった。怖れに近い。ナギは人々の顔を見た。驚いている。信じていない。あるいは信じたくない。それでも——「呪い」という言葉より、少しだけ整合性のある説明として、受け取ろうとしている者がいた。
「空の目がある」とヨルは続けた。「虫を管理していた、遠い祖先の仕掛けだ。虫と人が再び繋がれば、その目は動く。口伝はそう伝えている」
ヨルはそこで止まった。
ナギは知っていた。ここから先がある。第五節——「もし人が再び蟲に触れたなら、止めよ」という言葉が。ヨルはそれを言わなかった。
「以上が、語り部の口伝に記されていることだ」
シズが口を開いた。「語り部殿。その話は確かか」
「確かとは言えない。百四十八年の間に、どこかが変わっている可能性はある。だが骨格は本物だ。実物を見た」
「虫と繋がったなら、この娘は危険ではないか」
「それはわからない」とヨルは言った。「だがこの娘を追い出して、問題が解決するとも言えない」
「語り部の昔話で、この集落の将来を決めるのか」と、誰かが声を上げた。男の声だ。「あんたの話が本物かどうか、確かめる手段もない」
「そうだ」とヨルは言った。「だから決めるのはあなたたちだ。わたしにできるのは、知っていることを話すことだけだ」
ヨルは杖を突いて、元の場所に戻っていった。
もう一度議論が起きた。ヨルの話を信じる者と、信じない者と。口伝を昔話として退ける声もあった。しかし今度は、「ただの呪い者」という声が少なくなった。ナギには、空気の変化が微かに感じられた。変化は小さい。それでも、確かにある。
篝火の一つが、少し勢いを失って細くなった。誰かが薪を足した。ぱちぱちと音がして、火が戻る。その明かりの中で、賛成と反対の顔が入り交じって動いている。ナギには自分の感情がよくわからなかった。怖いはずだ。でも怖さより先に、疲れがある。夕べから眠れていない。ヨルに昨夜呼ばれて、口伝の第五節を聞いた。空の目。止める。その言葉が頭の中でまだ回っている。それなのに今、この広場で自分は留まれるかどうかを決められようとしている。おかしな話だ、とナギは思った。空の目は遠くにある。でも目の前に百二十人がいる。どちらが怖いか——わからない。
投票は日が完全に出てからだった。
石を白と黒に染め分けた小石を使う。白が留める、黒が追う。シズが一人ずつから石を受け取って、袋に入れた。ナギは参加しなかった。自分のことを自分で決めるのは、筋が違う。タマキがナギの隣に立っていた。何も言わなかった。ただ、ナギの肩に手を置いていた。それだけで十分だった。
結果は白六十三、黒五十五だった。
八票差だった。
「留置を決める」とシズは言った。「ただし条件がある。力の行使は、事前に長老の承認を得ること。単独での森への立ち入りを禁ずること」
「承知した」とカヤが答えた。ナギ本人より先に。
ナギは頷いた。声が出なかった。
人々が散り始めた。タマキがナギの腕を引いた。家に帰るぞ、という意味だった。
ヨルは広場の端でじっと立っていた。ナギが近づいても、振り返らなかった。
「ヨル」
「ああ」
「第五節を言わなかった」
「余計なことを言って、人を怖れさせる必要はない」
ナギはヨルの横顔を見た。老人の顔が、いつもと少し違う。何かを諦めたような、あるいは決めたような顔だ。目の下に、昨夜眠れていない証拠のような疲れがある。それでも口元は、微かに——ただ立っているだけの顔だ。
ヨルが言った。「わたしは三十年、口伝を守ってきた。今日初めて、守ることより使うことを選んだ」
そこで言葉が止まった。
ナギは何も言えなかった。
ヨルが続けた。「正しかったかどうかは、まだわからない」
静かな声だった。誰かに聞かせるためではなく、自分に言い聞かせているような声だ。
「でも、ありがとう」とナギは言った。
ヨルは答えなかった。ただ一度、小さく頷いた。
広場の向こうで、東の空が明るくなっていた。朝の光の中で、崖の縁を見ると——青い蔓が、石の割れ目から伸びているのが見えた。夜の間に、また少し進んでいる。
決議は終わった。だが森は、決議を待っていない。
ナギは崖の端を見た。蔓が届くまで、あと十歩あるかないか。広場に残る人々の声が遠ざかっていく中、ナギはその十歩を目で数えた。朝の光が蔓の青を染め上げていた。美しいとさえ思った。その美しさが、少しだけ、恐ろしかった。
ミノリが隣に来た。「おつかれ」とだけ言った。
「うん」
「食べてないだろ。帰ったら食べろよ」
それだけだった。ミノリはそのまま広場の方に歩いていった。ナギは崖の縁を見続けた。蔓は今日も動いている。集落は今日も動いている。決議が出ても、蔓は来る。蔓が来ても、集落は動く。それだけのことだ。そしてナギは——今日もここにいる。それだけでいい、と、ナギは初めてそう思った。




