空の目の話
夜になっても、集落の灯が消えなかった。
獣脂の灯りが各家の窓から漏れていた。人々が話し合っているのだ。明朝の投票に向けて、家の中で意見を固めている。ヨルには人声の断片が届いていた。壁の向こうから、言葉にならない音の塊として。
ヨルは小屋の中で坐っていた。
川の音は遠い。今夜は月が明るかった。
タマキが来たのは夜半を過ぎた頃だった。
戸口を叩いた。入ってくる前に、ヨルにはわかった。タマキの歩き方は独特で、一歩が短く、足音が規則的だ。
「入れ」とヨルは言った。
タマキは入ってきた。
三十八歳の女は、いつもより年老いて見えた。目が疲れていた。ナギが発現してから、タマキは毎晩よく眠れていないのだとヨルは知っていた。
「座れ」
タマキは床に直接座った。椅子には座らなかった。ヨルは何も言わなかった。
しばらく二人は黙っていた。
「頼みに来た」とタマキは言った。
「聞いている」
「あの子を守ってください」
ヨルはすぐに答えなかった。
「守るとはどういうことだ」
「明朝の投票で、あの子の側に立ってほしい。ヨルさんが口を開けば、長老の何人かは変わるかもしれない」
ヨルは天井を見た。骨の梁が三本渡してある。父が建てた小屋で、もう四十年以上ここにいる。
「俺が立てば、変わるか」
「わからない。でも何もしないより」
「そうだな」
沈黙があった。
タマキはそれ以上何も言わなかった。頼んだ。あとはヨルが決めることだ、という態度だった。こういうところがタマキらしいとヨルは思った。押しつけない。
だがその押しつけなさの奥に、ヨルには別の何かが見えていた。タマキの手が、膝の上でわずかに揃えられていた。指先が白くなるほど力が入っていた。あれだけ言葉を尽くして村人を説得してきた女が、ヨルの前では手を握り合わせるだけで黙っている。それ自体が、頼み方だった。
灯りの外に、夜が広がっていた。ヨルは窓を見た。壁の向こうで、誰かの声がする。また誰かの声がする。集落全体が、明日の朝に向けて息を詰めている。そのただ中に、タマキは一人でここへ来た。それだけのことをしてでも、守りたいものがある。ヨルには、それが伝わっていた。
「一つ聞く」ヨルは言った。「お前はナギに全部話してほしいか」
タマキが少し間を置いた。
「全部、とは」
「俺が知っていることのすべてだ」
また間があった。今度は長かった。タマキが何かを考えているのではなく、答えるための言葉を探しているのだとヨルにはわかった。知っていることを、どう形にするか。
「あの子が知りたいなら、知らせてやってください。あの子が何を選ぶかは、あの子が決めることだから」
それから小さく続けた。
「私が守りたいのは、あの子が自分で選べることです」
ヨルはその答えを聞いた。
立ち上がった。
「わかった」
タマキが顔を上げた。
「どこへ行く」
「ナギを呼んでくる」
崖の縁の岩場に出た。
ナギはそこにいた。
今夜ここにいるとわかっていた。この子は何かを考えるとき、必ずここに来る。崖の縁は考えるための場所だとナギは思っているのだろう。ヨルも昔はそうだった。
「座れ」とヨルは言った。
岩の上に腰を下ろした。月が明るかった。崖下の森が青白く光っていた。ナギには今夜、あの光が見えているはずだ。蟲の光が。
ナギが黙って岩に座った。
「話す」とヨルは言った。「五つ目の節だ」
ナギは動かなかった。
「聞く前に言っておく。これは——良い話ではない」
「知ってる」
「知っているとはどういう意味だ」
「お前が今まで言わなかったということは、俺に不利な話だろうと思っていた」
ヨルは小さく笑った。笑うつもりはなかったが、出てしまった。
「そうだ。不利な話だ」
息を吸った。月の光が明るかった。
口伝を覚えたのは十七の頃だ。師に三年かけて教わり、完全に諳んじられるようになったのは二十を越えた後だった。五つの節のうち、第五節だけは、師も声を落として語った。そうやって語り継ぐものだと言っていた。誰かに言う必要があるときにだけ、声に出せと。
ヨルは長く、その言葉を持ち続けてきた。長すぎるほど持った。使わずに済むならそれでよかった。だが今夜、タマキの白くなった指先を見て、ヨルには決まった。この子には、知る権利がある。口伝を持ったまま死ぬのが守ることではない。
「第五節。空の目の命令」
ナギが少し身を固くした。
「賢者は、断絶の前に、空の目に最後の言葉を遺した。言葉はこうだ——もし人が再び蟲に触れたなら、止めよ」
沈黙。
ヨルはナギの横顔を見ていた。動揺を隠そうとしているのがわかった。顎の筋肉がわずかに動いていた。奥歯を噛んでいるのかもしれない。
「止めよ、とはどういう意味だ」
「口伝には書いていない。止める方法も、何を止めるかも、詳しくは書いていない」
「でも——俺がそれに当てはまるか」
「わからない。蟲に触れた、という意味では——当てはまると判断されるかもしれない」
ナギは空を見上げた。
「空の目は今もある」
「ある。おそらく、ずっとある。百四十八年間、ずっと」
「俺を見ているか」
「見ていると思う」
ナギは長く、空を見ていた。
月の白い光の向こう。もっと高い場所に、目がある。ヨルはそれを信じている。ナギには今、信じられる気がした。空の目が自分を見ている。百四十八年間。今も。
崖下から風が来た。
二人とも黙っていた。
声が出たのはナギからだった。
「止められたら、どうなる」
「口伝にはない」
「お前はどう思う」
ヨルは少し考えた。
「止める方法は複数あると思う。力を使えなくするか、別のところへ追いやるか——あるいは、排除するか。どれなのかは、わからない」
「空の目は決めた方法を持っているか」
「知らない。百四十八年、動いていない。あるいは判断を保留しているのかもしれない」
「なぜ」
「お前が——俺には思い当たることがある。お前一人が力を持っているだけで、集落がみなで蟲を使い始めたわけではない。そこに違いがあると、空の目が見ているのかもしれない」
「それは俺を守る理由になるのか」
「なるかもしれない。ならないかもしれない」
正直な答えだった。確信はなかった。確信がないことを言った。
ナギはまた空を見た。
両膝に手を置いて、崖の縁で空を見ていた。
それから静かに言った。
「一つ聞く」
「聞け」
「止められるかもしれないなら、俺は力を使うべきじゃないのか」
ヨルは答えを急がなかった。
「口伝にはそこまで書いていない。俺にはわからない。使うな、とも言えない。お前が選ぶことだ」
ナギは星を見ていた。
星の数が多い夜だった。月明かりに消されながら、それでも細かい星が空にあった。その向こう側に——目がある。
ヨルにはその感覚が今夜、骨の底からわかった。あの子には、見えているかもしれない。
この子は今、何と戦っているのだろう、とヨルは思った。蟲の光が見える。空の目が自分を見ていると知った。止められるかもしれない。それでもここに坐って、空を見ている。怯えていないわけがない。ただ、怯えたまま何かを考えているのだ。
ヨルには若い頃に、そういう夜があった。恐れながら、それでも立とうとしている。その感覚を、ヨルはまだ忘れていなかった。
ナギはまだ何も言わなかった。星を見ている。風が来た。風が過ぎた。
ヨルは待つことができた。急がせる理由がなかった。この問いには、急いで出せる答えがない。ヨルも、ここに来るまで四十年以上かけた。ナギがこの夜に決めなくてもいい。ただ、今夜この言葉を持って帰ること——それだけでいい。
「ヨル」
「なんだ」
「明日、集落を守る」
ヨルは言わなかった。
「目が見ていても、止められても——それでも明日は守る。俺がいなければ、今日みたいなことがまた来たときに誰も対処できない」
「俺を利用するか」とヨルは言った。
「そうじゃない」ナギが振り向いた。「俺が選んで残る。利用じゃない。俺がここにいたい」
ヨルは答えなかった。
答える代わりに、空を見た。
ナギも空を見た。
二人で空を見ていた。月と星と、その向こうにあるもの。百四十八年の沈黙。
何かがそこにある。見ている。
それでも。
明日、この子は広場に立つ。
ヨルはその横に、自分も立つと決めた。
声に出さなかった。出す必要がなかった。
崖の縁の風が、二人の間を通り過ぎた。




