第56話 この緊張感に耐えて伝えられる人って本当に凄いとひしひし思う
「見て見て、司くん。チンアナゴだよ~」
少し屈んで視線の高さが合う直方体の水槽に敷き詰められた白い砂から、にょきにょきと紐状で縞模様の魚が生えていた。
砂から顔を出してはゆらゆらと揺れながら、一体何を眺めているのだろうか。もしかしなくても、こうして俺達がチンアナゴを見つめているように、チンアナゴも俺達を興味深く観察しているのかもしれない。
何だこの生き物は、と。
いや、チンアナゴ達はもう人間なんて見飽きてしまっているかもしれないが。
「ふふっ、可愛いね~」
「コイツら愛されるために生まれてきたようなビジュしてるもんなぁ」
可愛らしいが、ひょろくてボーっとしていて弱そう。過酷な自然界で生きていけるのか心配にもなる。
陽葵が間違ってフラッシュをたかないように設定したスマホのカメラで、二枚、三枚とチンアナゴの姿を写真に収めていく。
うぅむ。
チンアナゴも可愛いが、俺的にはこのヒジリヒヨリの方が可愛いと思います。
と、そんな個人的な感想を抱きながら陽葵の姿を横目に見つつ、俺は一人のオタクとしてチンアナゴを前にしてやらなければいけないことがあった。
右を見て、左を見て。
他のお客さんの邪魔にならないよう配慮しつつ、スッと両腕を頭上に持ち上げる。
「チンアナゴぉ~」
「……ん?」
陽葵がこちらを向いて、キョトン。
瞬きを繰り返し――――
――パシャッ。
「え、ちょ……陽葵さん?」
「ふふっ、つい撮っちゃった」
どうやら俺の間抜けな姿――わかる人にはわかる――が陽葵のスマホに一桁メガバイト程度お邪魔することになったようだ。
「これ、チンアナゴの真似?」
「そ、そうだけど……こうして見るとかなり恥ずいな……」
妃菜がスマホを傾けて俺のチンアナゴポーズ写真を見せてくる。ちょっと想像以上に無様な格好だった。やはりこれはてぇてぇ美少女にのみ許されたポージングなのだろう。
「陽葵のフォルダにシミが出来るので削除っと」
俺が陽葵のスマホ画面へおもむろに人差し指を動かしていくと、陽葵は俺の手から逃れるようにスマホを自分の胸に抱いた。
「だーめ」
陽葵が琥珀色の瞳を悪戯っぽく細めて微笑んでくる。
「これは本日のベストショットです」
「どうせ撮るならもうちょっとカッコよくだなぁ……」
気恥ずかしさから後ろ首を撫でて言うと、陽葵は「ううん」と首を横に振った。表情はどこか満足そうに、こてっと小首を傾げて口を開く。
「この可愛い司くんのチンアナゴが良いの」
「ちょ、ひよっ……言い方……!」
「え、言い方……?」
これは俺が思春期脳だからなのか!?
陽葵の発言がナニかの隠語にしか聞こえなかった。
大丈夫だよな?
周りの人に聞かれて変な誤解されてないよな!?
俺が慌てて周囲を確認する傍で、陽葵は数秒経ってから俺が言わんとしていたことを察したらしく、カァッと顔を赤く染め上げる。
「~~っ、ち、違うの司くんっ! 私、別にそっ、そういうつもりで言ったんじゃないんだよ……!?」
「い、いやわかってるって」
「うぅっ……恥ずかしい……!」
陽葵が紅潮した顔を隠すようにスマホを持ち上げる姿を、俺は曖昧に笑って見つめながら、念のため誰へともなく心の中で釘を刺しておく。
別に俺のは可愛くねぇし。立派だし!?
と、男の沽券に懸けて、そこだけは誤解のなきよう言っておこう。
◇◆◇
そこまで規模の大きな水族館というワケではないのに、陽葵が傍にいると時間の流れはあっという間で、気付けば小一時間も見て回っていた。
恐らく、その半分近くの時間は陽葵の横顔や後ろ姿を見てしまっていたが、大丈夫。俺だってきちんとお魚さん達を鑑賞していたとも。
カクレクマノミでしょ?
タツノオトシゴでしょ?
コブダイもいたし、あとは……うん、やっぱりあんまり集中して見られていなかったようだ。
しかし、無理もないだろう。
俺は今、大一番の勝負の直前。
集中すべきは、間違いなくそちらだ。
「ふぅ……」
放射状に設置されたベンチの一つに腰を下ろして、海の一片を切り取って持ってきたかのような巨大水槽を見やる。
水槽の底から立ち上る気泡が、差し込む照明を反射して星屑のように輝いている。今の季節に照らし合わせて表現するならば、さしずめ海のイルミネーションと言ったところだろうか。
「足震えるっ……ヤバいなこれ……」
「ふふっ、何がヤバいの?」
「うおっ、陽葵……!?」
お待たせ、とお手洗いから戻ってきた陽葵が俺の隣に並んで座った。この拳一つ分もない距離感に、俺の心臓は狂ったように騒いでいる。
止まらない身体の微かな震え。熱くなっているのか寒くなっているのかわからない体温。耳がおかしくなったのか、あらゆるノイズが掻き消えた静かな世界。
それらすべてが初めての感覚で、戸惑わずにはいられない。動揺を隠す余裕もない。
そんな俺の様子に気付いているのかいないのか、陽葵は楽しげに口元を緩めて言ってくる。
「水族館ってこんなに面白いんだね。一瞬で時間が過ぎちゃったよ~」
その言葉に俺は取り敢えずホッとした。
少なくとも、わざわざ誘っておいてつまらないクリスマスイブの時間を過ごさせることにはならずに済んだらしい。
「そっか。それなら誘って良かったよ」
「うん。ふふっ、また来ようね?」
「あぁ、また来たい」
そんな願いが叶うかどうかも、このあとに決まるわけだ。
俺と陽葵の視線が巨大水槽を見つめたまま、しばらく沈黙が流れる。気まずくもなく、居たたまれなくもなく、恥ずかしくもない、ただ覚悟を決めるための最後の静寂。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……!
俺の心臓が秒針を置き去りにして拍動する。
「……ねぇ」
ふと、陽葵がこちらを向いた。
どこか熱の蓄えられたような琥珀色の瞳が、俺の顔を遠慮がちに覗き込んでくる。
木漏れ日が差し込んで小さな日溜まりを作るような優しい声色で、陽葵がそっと尋ねる。
「どうして今日、私を誘ってくれたの……?」
「…………」
俺は陽葵と視線を絡め合わせることに耐えられなくなって、特に行き場もなく目を泳がせた。
「えっと、その……言いたいことというか……伝えたいことが、あって……」
そうなんだ、と陽葵は静かに反応する。
横目に表情を窺えば、慈愛に満ちた穏やかな微笑みを浮かべているのが見えた。
「聞かせて?」
そんな問い掛けに長く間を開けてしまっても、陽葵は催促することなくただ静かに俺を見つめて、俺の口から紡がれようとする言葉に耳を傾けてくれている。
身体の震えは収まらないし、吐きそうなほど動悸が激しいし、やたらと息苦しい。
俺のせいで新しく形作られようとしていた家族の輪が壊れるかもしれない。父さんや、茉莉さんにとんでもない迷惑を掛けてしまうことになるかもしれない。
そう考えると、怖い。怖い、怖い、怖い怖い怖い――――
でも……それでも、背中を押してくれた人がいたから。
「俺、さ……」
彷徨わせていた視線を、隣の陽葵へピタリと止める。
そして――――
「好き、だ……陽葵のことが、好き。好きになってしまった……」




