第IX話 オオバコと遠い夢
野草食堂に通う常連のひとり、黒縁眼鏡の青年・藤崎は、毎週土曜の夕方になると欠かさずやって来た。
注文するのはたいてい、控えめな小鉢料理と野草茶だけ。静かに食べて、静かに帰る。会話も少ない。
だがその日、美咲が厨房からカウンターに顔を出すと、珍しく藤崎がひと皿の料理にじっと視線を落としていた。
目の前の小鉢には、オオバコの葉を素揚げにし、塩を振っただけのシンプルな一品が置かれている。
「これ……オオバコ、ですよね?」
「はい。道端でもよく見る草ですが、こうやって揚げると、香ばしくて美味しいんですよ」
「……子どもの頃、よくこれで“草相撲”してました。引っぱり合って、負けたら悔しくて、また摘みに行って。土手の草の匂い、いまでも覚えてます」
そう呟いたあと、藤崎は自分でも驚いたように小さく笑った。
「……こんな話、するつもりなかったんですけど」
春乃が手を止めて、静かに聞き耳を立てる。
美咲は、何も言わずに藤崎の前におかわりの野草茶をそっと置いた。
「僕、小さい頃から体が弱くて、外で遊ぶことも少なかったんです。だから、草相撲なんかできる日は特別で――オオバコを見つけたら、それだけで嬉しくて。
いつの間にか、“元気な証拠”みたいに思ってたんでしょうね」
オオバコは、道端にたくましく根を張る草。
人が踏んでも、車が通っても、へこたれずに葉を広げる。
その生命力に、子どもの藤崎は憧れを重ねたのかもしれない。
「でも、大人になると、そういう“嬉しさ”をうまく思い出せなくなって。……それで、たまたまこの店の看板に“野草”って書いてあって、引き寄せられるように入ったんです」
藤崎はオオバコの素揚げをゆっくり口に運ぶ。
パリッという音がして、続けて小さく頷いた。
「こんなに素直な味だったんですね。変に飾ってなくて、まっすぐで。……なんだか、昔の自分と話してるみたいです」
春乃がやさしく答える。
「野草って、人に忘れられても、毎年同じ場所に咲くんです。思い出さえも、迎えに来てくれるんですよ」
その言葉に、藤崎の目がわずかに潤んだ。
けれど、涙はこぼれず、彼はまっすぐ前を見た。
「僕、今はデザイナーの仕事をしていて。……でも本当は、昔“植物図鑑を作る人”になりたかったんです。だけど、いつの間にか、その夢を“体に合わない”って片付けてしまった」
美咲はそっと、図鑑のノートを差し出す。
「よければ、この図鑑に“藤崎さんのオオバコ”を描いてもらえませんか? 名前だけじゃなくて、思い出ごと、記録したいんです」
藤崎は驚いたようにノートを見つめ、しばらく黙っていた。
やがて、ポケットから黒のボールペンを取り出すと、ページの端に小さなイラストを描き始めた。
太くて低い葉、中央から伸びた細い茎。その上に、ぽつぽつとした穂。
見慣れたはずの雑草が、彼の手の中で静かに息を吹き返す。
描き終えると、彼は照れくさそうに笑った。
「……ずいぶん、久しぶりに草を描きました」
「また、描きに来てください。草も、あなたの夢も、ちゃんとここにありますから」
野草食堂の図鑑に、“オオバコ”のページが加わる。
《踏まれても、また立ち上がる草。忘れた夢の記憶を、そっと取り戻してくれる。》
その夜、美咲は厨房で次の草――スギナを見つめていた。
またひとつ、物語の種が芽吹こうとしていた。