第X話 スギナの記憶
日曜の朝。
春乃が厨房に入ると、美咲は黙々とスギナの下処理をしていた。
まるで髪をすくように丁寧に、細く青い茎を水で揃えていく。
「今日のまかない、スギナの胡麻和えにしようと思って」
春乃は少し驚いたように眉を上げた。
スギナは、どこにでも生える厄介な雑草として扱われることが多い。けれど、それだけに扱いは難しく、香りも独特だった。
「ずいぶん懐かしい草を選んだね」
「……小さい頃、母と一緒に摘んだ記憶があるんです。土手に寝そべるように生えてて、“ツクシのあとはスギナだよ”って教えてもらって」
春乃は無言で湯を沸かし始めた。
やがて、台所の静けさの中に、ふつふつと泡が弾ける音が重なる。
「母は、よくわからない人でした。たまに料理に野草を使うくせに、草の名前をちゃんとは教えてくれなかった。
“ほら、これ苦いけど体にいいから”って、根拠もなく言って」
「でも、その味は、覚えてるんだね」
美咲はスギナを塩茹でし、氷水に落とす。
指で水気を絞りながら、小さく笑った。
「ええ。不思議ですよね。ほかのことは曖昧なのに、スギナの匂いだけは、はっきり覚えてる。……母が亡くなってからも、ずっとその香りがどこかに残ってる気がして」
春乃はそっと湯呑みを差し出す。
中には、うすく緑色を帯びたスギナ茶。
わずかに草の青みと、土のような香ばしさが鼻をくすぐる。
「草の記憶は、身体に残る。理屈じゃなく、根っこに染み込むのよ」
美咲は黙って頷いた。
その横顔に、厨房の灯りが柔らかく差し込む。
やがて、常連客たちが一人、また一人と店にやってきた。
この日の小鉢は「スギナの胡麻和え」と「ツクシの甘辛煮」。
季節の移り変わりをそのまま映したような皿に、客たちは思い思いの顔を見せる。
「これ、なんだか懐かしい味がするなあ」
「うちの田舎にもあったな、こういう草……なんだっけ」
それぞれの舌が、それぞれの記憶をたぐり寄せる。
すると、窓際の席に座っていた中年の女性が、ぽつりと漏らした。
「昔、母がこれ、よく作ってくれたの。都会に出てきてからは、ずっと忘れてたのに……」
美咲は驚いて顔を上げた。
まるで、自分の気持ちが誰かと重なったような気がした。
「草って、誰かを思い出すための鍵なんですね」
春乃がそっと頷く。
「そう。誰かと食べた草は、誰かとの記憶を運んでくる。――だから、この店は“草を出す”んじゃなくて、“記憶を出してる”のかもしれないね」
営業が終わったあと、美咲はノートに新しいページを加えた。
《スギナ:春のあとにひそやかに伸びる、見落とされがちな草。誰かを懐かしく思い出すための、静かな記憶の糸。》
その夜、美咲は母のことを久しぶりに夢に見た。
遠い土手の風。すくっと立ったスギナの細い茎。
そして、何かを指さして笑っている、あたたかな声。
目が覚めると、涙がひとすじ頬を流れていた。
でも、それは悲しみではなく――春の雨のように、静かで、やさしい涙だった。




