第XV話 野草の師、現る
野草食堂の週末営業を終えた午後、美咲が片付けをしていると、春乃がふいに言った。
「今日の仕込みは少し早めに済ませましょう。夜、客人が来るの」
「夜にですか? 常連さん?」
春乃は珍しく、少し緊張した表情を浮かべた。
「……師匠よ。私に野草料理を教えてくれた人」
その言葉に、美咲の手が止まった。
春乃が“師匠”という言葉を口にしたのは初めてだった。
あれほど独自の哲学を持ち、堂々と調理をする春乃にも、誰かの背中を追いかけた時期があったのだ。
そして夜。
ドアが音を立てて開き、年配の女性がひとり入ってきた。
背筋はぴんと伸び、グレーの割烹着がよく似合う。
顔に深く刻まれた皺のひとつひとつが、豊かな歳月の証のようだった。
「……春乃。元気そうね」
「はい、先生。お忙しいところ、ありがとうございます」
どこか師弟関係というよりは、長年の友人同士のような空気が漂う。
「この子は美咲。今、私と一緒に店をやってくれてるの」
「まあ、いい顔してる。草を扱う人の目だわ。素直で、まっすぐ」
美咲はどぎまぎしながらも、「はじめまして」と頭を下げた。
「せっかくだから、先生に一皿お出ししても?」
春乃は美咲に目配せし、厨房へ向かう。
美咲も手伝いに入った。
「何を出すんですか?」
「ドクダミの天ぷら。私が最初に教わった料理」
えっ、と美咲は思わず目を見開いた。
「……あのドクダミを、ですか? あの、あの強烈な匂いの……」
「そう。でも、うまく揚げると、匂いは飛ぶ。独特の渋みだけが残って、クセになる味になるのよ。師匠に最初に教わったのも、それだった」
春乃は薄く微笑みながら、ドクダミの葉をていねいに拭き、衣をまとうようにまぶした。
油にそっと落とすと、ぱちぱちと弾ける音が静かな厨房に響く。
十数分後、白い陶器の皿に盛られたドクダミの天ぷらが、湯気を立てて師匠の前に置かれた。
彼女は一口、口に運んだ。
静かに、噛みしめ、目を閉じたまま、しばらく黙っていた。
やがてゆっくりと目を開き、ぽつりと言った。
「……あなた、私より上手になったわね」
春乃は目を伏せ、しかし微かに微笑んだ。
「先生のおかげです。でも、ようやくこの味が、私の中に落ちてきた気がします」
「そう。草の味は、技術より“心の季節”で変わるのよ。春の草には、春の気持ちがいる。あなた、今、きっといい季節にいるのね」
それは、長年をかけて交わされる、師と弟子の対話だった。
師匠は帰り際、美咲に小さな紙包みを手渡した。
開けると、乾燥させた“ネジバナ”――螺旋状に咲く小さな野草が入っていた。
「これは“約束の草”。誰かと再会したいときに、そっと飲むお茶になる。次は、あなたの番ね」
美咲はその言葉の意味を、まだすべては理解できなかった。
けれど胸の奥に、やわらかな芽がひとつ、確かに息づいた気がした。




