第四章:残酷な裏切り1
第四章:残酷な裏切り
東部第三支部はテアの中央――王都ヴァーダの地下にある。
街の高利貸しや娼館から繋がる地下施設は東部随一の要所だ。規模は小さいが地上の資源が豊かなので、最も利益率が高い――荒稼ぎの上手い支部だと聞いている。
黒い混凝土に囲まれた通路を足早に歩きながら、ルジェは前を行く軍服の青年を眺めた。正確には、彼の肩付近で興味深げに顔を覗き込んでいる精神体のフェルネットを。
彼女は今日も真珠色に輝いていて、とてもルジェの目を引く。ちょこまかと動き回られると無意識に目が追ってしまうので、おとなしくしていろと言い含めてあるのだが。
〔やっぱり『綺麗』かな。でも『可愛い』でもあるし……。あ、『綺麗可愛い』かも!〕
一向に従う様子がない。特に支部へ入ってからは同族が一人現れるたびにきゃあきゃあと容姿を鑑賞している。きっとヴァルツでもこうだったんだろう。人前でも堂々と諫められるラトゥールがいない今、フェルネットは野放しも同じだった。
ラトゥールは支部に着くなりフェルネットの体ごと隔離されてしまった。支部の者は人間慣れしているはずだが、もしものことがあってはと、ほとんど幽閉状態だ。
おかげで色々と見て回りたいフェルネットはルジェについて回り、彼の胃痛をどんどんと悪化させてくれている。一人でうろつかれて厄介な話を聞いてくるよりマシだが。
知らずついた溜息を聞き取り、案内役の青年が足を止めた。癖の強い茶髪と口元の黒子が特徴的な彼はジャック・ユニ少尉だ。人見知りをしない性格でとにかく愛想がいい。
「中尉、お加減が悪そうですね。あまり酷いようなら先に医務室へご案内しますが」
「気遣いはいらない。慣れている」
東に進むにつれてルジェの胃は荒れていき、支部へ着く頃には胃痛が日常化していた。おかげでほぼ絶食状態だ。喰事のほうなど、最後に摂ったのがいつかもうろ覚えだった。それでも昨日まではフェルネットに反応してしまうのを誤魔化して、大げさに振る舞っていのだが、今朝からは痛みが洒落にならなくなってきて、気を抜くと背中を屈めてしまう。
「それよりも、引き渡しの準備は?」
「あと二時間は欲しいですね。何しろいきなりでしたから。情報が直前まで伏せられていたのと……」少尉は言い淀み、軍帽の下で視線を泳がせた。「なかなか人員が、ですね」
言いたいことはわかっている。ルジェの階位が低すぎて、率いられる立場の者がほとんど居ないのだ。人員の減少で士官制へ切り上がった軍には兵士階級がなく、中尉の下は少尉と学生上がりの准尉のみ。けれど武官は卒業と同時に前線へ送られるので、戻ってきて支部へ送られる頃には少尉や中尉になっている。中尉のルジェが使えるのは極少数だ。
そのうえ人間は公式の場に女を出すことを嫌うので、女性は使えないときた。男女平等の軍でも支部勤務は女性が多い。必然的に頭数が足りなくなったらしい。
「外交部の外へも声をかけてるんですが、まだ色よい返事が少なくて」そこで少尉は足を止め、並んだ扉の一つを開けてルジェを促した。「ブランカ嬢はこちらです。どうぞ」
ルジェより早く真珠色の光が部屋へ飛び込んでいった。
〔聞いて聞いて黒ちゃ……あれ?〕フェルネットが室内を旋回する。〔いない?〕
官吏にあてがわれるものよりも少し広い室内には、明るい直接照明とテア産と思われる木製の調度品が置いてあった。毛足の長い絨毯もヴァルツではかなりの高級品だ。
フェルネットがしょんぼりとルジェのほうへ戻ってきた。腰かけるようにして彼の左肩の辺りに浮く。〔せっかくいろんな発見があったのに。早く話さないと忘れちゃうよ〕
「どうも準備が行き違ったみたいですね、少し待ちましょう。ああ、そうだ」扉を閉めて、少尉が手提げ鞄の中から荷物を取り出した。「時間が惜しいので先に確認をお願いします。こちらが中尉用の衣装でよろしいですか?」
にこっと差し出された衣装に、ルジェは顔を引きつらせた。
〔すごい! じゃらじゃらしてるー!〕
少尉が手配した礼装は、肩の房飾りや紐飾りが金色で、襟や袖口にも金糸が入っていた。一見、普段の軍服と同じ型をしているとは思えないほどごてごてしい。
「これは……ずいぶんな盛装だが、不要物が多くないか?」
ルジェは礼装の胸元を飾る山ほどの徽章をつついて、半ば唖然と少尉を見た。そもそもこの装いは間違っているのだ。装飾は本来所属や階級を示すもので、こんなに片っ端から付けるものではない。これではどこで何をした何者なのか、わからないではないか。
少尉は悪びれなく答えた。「一装用に将校章やその他、あらゆる勲章がつけてあります。見た目も煌びやかになりますし、第一、箔がつくので」『箔』の部分を無駄に強調された。
「断る」ルジェは鋭く返した。「階位を偽ったなんて知られたら、命取りになりかねん」
睨みつける彼をきょとんと見返して、少尉は肩をすくめた。
「一見派手にしとけばいいんですよ。ここじゃみんなそうしてます。人間なんて見た目しか見てないんだから、大丈夫ですよ」
〔じゃらじゃらのルジェ、見たいなぁ。きっと綺麗ですよ?〕とフェルネットまで無責任なことを言っている。野次馬は黙ってろ。
ルジェが気にしているのは人間への体面ではない。ただでさえ総統の養子なので、下手に動くと軍内部の反対派に目を付けられるのだ。ヴァルツから遠く離れた支部には、ラトゥールに追い払われた旧政権の有力者が多い。記憶が正しければここの総司令もその一人のはずだ。弱みを握られるような事態は避けなければ。
「絶対に駄目だ。どうしてもと言うなら、いっそ階級章なんて無しでいい」
「そんなことをしたら誰もついてこなくなりますよ。ただでさえ人員不足なのに――」
「なら俺一人で連れて行く」
「向こうは精導士をそろえてるんですよ? 十対一、この割合が古の盟約で決まっているんです。今回の場合、こちらは十名ですね」
ルジェは顔をしかめて舌を打った。「テアには百人も精導士が?」
「まさか。最近じゃ貴族でも精導士はなかなか出ません。威嚇もあるでしょうが、貴人を特定されたくないというのが本音でしょう。血を隠すなら荒野ってやつです」
隠したい人物となると……やはり、王族だろうか。
「その中に国王がいる可能性はあるのか?」
「ほぼないですね。王は伏せって長いですから」
「なら下っ端同士のやりとりに一中隊か……。無駄なことだ」
「無駄、ですか」
「まあいい。俺の仕事は引き渡すだけだ」今はな、と心の中で続ける。彼女が死んだら国王を相手に陳情役を務めなければならないが。「だからそんな仮装は要らない。どうせ人間に軍の階級なんかわからないだろう。階級章はなしだ」と、素早く飾りを取った。
〔ああっ、じゃらじゃらが! ……ルージェ~〕なぜかフェルネットがふてくされた。
少尉は困ったようにこめかみを揉んでから、渋々頷いた。
「……わかりました。でもウチの支部章だけはつけさせてもらいますよ。もちろん中尉も」
「わかった」
そのとき、部屋の扉が開いて金髪の少女が現れた。女性の官僚に付き添われながら、淑やかにルジェへ歩み寄る。
「こんにちは、ルジェさん」さも清純そうに少女が微笑んだ。
ラトゥールはこの支部へ着いた瞬間から、少年らしい口調も気味の悪い淑女然とした言葉遣いも止め、フェルネットそのままの所作を模している。これがまた凄まじく不快だ。
〔黒ちゃん、どうしたの、その服と……〕ルジェの肩からフェルネットが飛んでいった。自分の体の正面に浮かび、まじまじと見つめる。〔お化粧してる?〕
少女の体は華やかに着飾られていた。豊かな金髪の一部を左右で結い上げ、残りを少女らしく背中へ流している。淡い夕日色の絹地には花びらのような薄い襞飾りがふんだんに施されている。胸元から首にかけては密な透かし編みで白く覆われていて、人間の形式通り喉元をさらけ出したようにも、同族の礼儀を遵守しているようにも見えた。革紐で締め上げられた細い腰は、少し力をかければそこを支点に折れそうだった。この女性らしい曲線を演出するために、着付係は相当な苦労をしただろう。衣装の袖と白い長手袋の間から覗く肌は充分な湯で磨かれたらしく、なめらかで、石鹸の香りがした。
ラトゥールは艶やかな薄紅色の唇で無邪気な笑みを作った。
「どうですか、ルジェさん。わたし、きれいになりました?」
「清潔という意味でなら、その通りだ」
「あはは、中尉、そこはせめて馬子にも武装って言ってあげないと」
〔……二人とも、ひどいです〕「二人とも、ひどいです」しょぼくれたフェルネットの声と、微妙に笑いをこらえているラトゥールの声が輪唱した。
「冗談です。とても素敵ですよ、お姫様」少尉が格式ばってラトゥールの手を取り、椅子へと導いた。何気にそつのない男だ。彼は人好きのする笑顔で続ける。「でも、少し着替えが早かったですね。そんなに締め付けていたら辛いでしょう?」
「いいんです」ラトゥールは静か答えた。「最後くらい、綺麗な姿を見せてあげないとね」
その瞬間、ルジェの胃が鋭く痛んだ。
彼はラトゥールの言葉に誰かが反応する前に、事務的な声を出す。
「……準備は良いようだな。少尉、先に行ってくれ。すぐに行く」
よくできた部下である少尉は、邪険に追い払ってもにこりとして従った。
彼が扉を閉めた瞬間、ルジェは大きく息をついた。これで少しは胃が楽になる。
「君は本当に臆病だね」邪魔者がいなくなったと見るや、ラトゥールは冷笑を浮かべて巻き毛を後ろへ払った。「それとも、そんなに嫌われたくないのかな?」
〔誰に?〕フェルネットの声はいつも無防備だ。
「さあね。皆に、かな?」
「黙れ。本物のラトゥールでもないくせに、知ったような口をきくな」
低い威嚇の声にラトゥールが黙った。フェルネットも驚いてルジェを見る。
二人の視線に耐えられず、ルジェは目をそらして黙り込んだ。
〔ルジェ、今更そんなの、ひどいです〕
「いいや。これでいいんだよ」その声に微笑みが含まれていた気がした。
ルジェは収まらない痛みを抑えるべく、服の上から胃を掴んだ。いつの間にか胸焼けまでしている。こんなに酷いのはフェルネットの血を飲んだとき以来だ。
「さあ、そろそろ行こうか。案内係が戻ってきてしまうよ」そう言って、ラトゥールは椅子から立ち上がる。緑の瞳が翳った。「ねぇルジェ、もう十分だよ」
その言葉に促されるように、ルジェは音のない呪文を放った。対象に気づかれないよう改良された緊縛魔法はフェルネットを見えない糸でたやすく捕らえた。〔なに!?〕続けて結界を張る。机の上に小さな円筒状の赤い光が現れ、彼女を閉じ込めた。〔やだ、出れない!〕精霊を呼ばれる前に部屋全体を遮音し、魔力の干渉を抑える術を張り巡らせた。
フェルネットが光の壁を叩いた。〔どういうことですか、ルジェ!〕
荒い息をつくルジェに代わって、少年のような冷たい声が答える。
「ふふっ、愚かなフェルネ。誰がいつ、この体を手放すって?」
フェルネットの動きが止まった。甘藍石のような透明な瞳が限界まで見開かれる。
〔うそ……。うそだよね、黒ちゃんっ〕
「嘘だと思うならそこから出てごらん。無理だと思うけど。ああそれと」ラトゥールは少女と同じ顔を残酷な笑みに歪めた。「人間のお城にはね、魔法で悪いことができないように、特定の精霊以外は入れないようになってるんだって。君みたいな野良精霊には、もう二度と会わなくてすむかもね」
〔黒ちゃ……!〕
「ばいばいフェルネ。……せいぜい、お幸せに」ラトゥールは手を振って立ち去った。
〔待って黒ちゃん! ルジェ!〕
縋るような甘藍石の瞳に見据えられ、ルジェは一瞬、足が動かなかった。吐きそうになるのに耐えながら彼女へ背を向ける。
〔ルジェ!〕叫び声を重い鉄の扉が遮断した。
ルジェは外側からも厳重に精霊よけの結界を張り、細く息をついた。こんなに結界を重ねても、すぐに効力は消えてしまう。その程度の魔力しかない自分が恨めしい。
それでも最低丸二日間は、彼女はここから出られない。その間に彼女の体は死に、精霊は生まれ変わって記憶を失う。彼女へ要らぬ情報を吹き込む者はいなくなる。
それでも自信が持てず、彼は傍らに立つラトゥールへ問いかけた。「本当に、いいのか」
「初めからそのつもりだったくせに」答える声はあっさりとしていた。
精神だけでも生き長らえるのと、肉体と共に滅ぶのと。どちらが人の幸せだろう。
本当は本人に選ばせるべきだったのかもしれない。けれどそれはあまりにも残酷な選択で、どちらを選んでも彼女を嘆かせるだけだろう。ならば自分が背負ってもいいと思った。
ルジェは少女の肉体を横目で見る。その横顔は淡々と扉を見つめ続けていた。
彼は胃の痛みを堪えて、何度も自分へ言い聞かせてきた言葉を繰り返す。
この黒精霊はラトゥール本人ではない。――ただの模倣物だ。




