其は地獄なりて
其は探求者なり。されば、迷宮を究める者となりて、其に命を賭けよ。
其は迷走者なり。されば、迷宮にて出口を、その先を追い求める者となりて、其に命を賭けよ。
其は冒険者なり。されば、迷宮にて危険を冒す者となりて――其で命を失せよ。
◇
“ドンッ”と鈍い音が空に響く。吹き飛ばされたその男は、上手く身を回転させて着地する。
男は思い切り地を蹴り、一気に肉薄する。既に構えられていた手は――敵の腹を捉えた。
手に伝わるのは分厚い毛皮と脂肪の感触。やはり、腹では上手く攻撃が通らない。
『チッ』と軽く舌打ちをした男は、後ろへ跳び、寸前の所で鈍く光る鋭い爪を躱す。
再び踏み込んだ男は、地を滑るように進み、壁を使って跳ねる。先程の余韻が残っていた敵は反応が少し遅れていた。
そしてそれは、大きな隙へと変化する。振り抜いた脚は――止まらない。回転するように脚を振り、その大熊の頭蓋に思い切りぶつける。
その反動は凄まじく、男の目からは思わず涙が零れ落ちる。しかしてその分、威力もかなりのもので、蹴りを受けた大熊は脳震盪を起こしたかのようにふらふらと左右に揺れ歩き、そして――ついに倒れた。
一応、とキチンと大熊の死を確認した男は「ふう」と息をついて、座り込む。
他の敵がいつ現れるか分からないから、このような行為は危険なのだが、如何せん敵が強力だったために男がこうするのもやむを得ないだろう。
しばらく休んだ男は、少し離れたところに置いてあった背嚢から剥ぎ取り用のナイフを取り出すと、大熊の体に慎重に刃をいれる。少しの傷でかなりの損失を生むので、ゆっくりと慎重に事を進める。
時間がかかり過ぎたせいで、何回か敵が湧くことはあったが、幸いなことにそれらは弱かったので難なく処理できた。
無事に剥ぎ取りを終えた男は、丁寧にそれを背嚢にしまう。これでよし、と周囲を確認して忘れ物がないかを一応見た男は背嚢を背負って、入り口に戻るのだった。
暖かく、そして眩しい日光が身体を包み込む。二日ぶりに地上へと戻った男はその心地良さに思わず伸びをする。はぁ、と疲れた身体から息が漏れ出るが報告のために協会に行かねばならない。すぐにでもベッドに飛び込みたい気分だが、致し方ない。男は諦めて、協会に向かうことにした。
協会は昼時にもかかわらず、賑わいを見せていた。男にとっては見慣れた光景ではあるが、さすが資本主義のなせる技といったところか、大理石の床は足音良くを響かせ、協会が大企業であると知らしめるようなフロントはひどく広い。
そんな協会の受付に沢山の探索者が長い列を作っていた。この様な事態を避けるために、受付は複数あるのだが今日は運がないらしい。はぁ、と再び息が漏れるが、男は潔く列に並ぶことにした。
しばらく並んで、やっと男の番になった。受付にいるのは茶髪に軽くまとめたポニーテールが似合っている若い女性だ。女性は男の方に目を向けると、にっこりと笑って話しかけてくる。
「おかえり、矢野くん。今回はどうだった?」
男――矢野は背嚢を前に回して、中から毛皮を取り出す。
「ちゃんと、十層踏破してきましたよ。これ、証明です」
優しく、その毛皮を机に置くと女性は驚いたように目を見開いた。
「すごい! ほんとに一回で踏破しちゃうなんて!! やっぱり、矢野くんはすごい子ね!」
矢野はその言葉に少し照れたが、すぐに自分の目的を思い出して、顔を引き締める。それを見て、女性は少し、少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。
「あはは、ありがとうございます。じゃあ、これをお願いします」
矢野は毛皮を女性の方へ動かす。
「わかりました! じゃ、これは預かるね」
すると、先ほどの表情がすっかりと消えた女性は、慣れた手つきでそれを抱えて、後ろの職員に手渡す。
すぐに矢野の方に向き直った彼女は今度は真剣な顔で矢野を見る。
「ところで矢野くん」
先程までとは違う、真剣な眼差しに矢野は少しだけ怯んだ。
「は、はい。何ですか? 原さん」
女性――原はピンと人差し指を立てて、矢野に話しかける。
「いい? 明日は、絶対に休むのよ? 変に鍛錬とかしちゃダメだからね?」
なんだ、そんなことか、と矢野は内心ホッとする。
「はい、わかってますよ。いつも、キチンと休んでますとも」
その言葉に原は疑いの目を向ける。
「ほんとうに? いつも見るたびに、元気がなくなってる気がするけど……」
「そうですか? そんなつもりはないですけど」
休みが足りておらず、疲れが取り切れていないのか、と思った矢野は今回は長めに休みを取ろうと思った。
「そう? それならいいんだけど……」
「まぁ、自覚がないだけかも知れないですし、次は日を空けて潜りますよ」
その言葉を聞いた原は、申し訳なさそうに手を合わせる。
「ごめんね? 無理やり休ませるようなこと言って」
「大丈夫ですよ。まだ、時間はありますから……」
そう言う矢野はどこか、遠い目をしていた。
原に別れを告げた矢野は、預けていた荷物を返してもらってから、帰路につく。
家は、電車で二駅行った先の住宅街にある。夕暮れを背に、一人寂しく歩く彼は哀愁の漂う姿をしていた。
“ガチャリ”と家の扉を開けても、人の声も気配もない。靴を脱ぎ、自室へ向かう。床に荷物を降ろし、やっと迷宮から解放された。
解放感も程々に風呂場へ行き、サッと洗って栓をする。疲れた時には風呂が一番良い、そんな個人的な見解がある矢野は迷宮から帰ってくれば必ず風呂に入ることにしている。
十五分ほどして、湯が沸いたことを伝える音が鳴ると、矢野はウキウキとした様子で風呂場に足を運ぶ。
計二十分ほどして、風呂から上がった矢野はリビングで携帯をイジりながら、湯が沸くのを待っていた。無論、風呂の湯ではなく、カップ麺のための湯だ。
矢野は別に料理ができないことはないのだが、如何せん迷宮帰りは疲れているので、いつもカップ麺で済ませている。
「ごちそうさまでした」と言う声が、部屋に響く。夜は既に深く、治安も比較的良いために、今彼以外に音を立てる者はない。ゴミを片付けた彼は、寂しいような、寂しくないような、気持ちのままに床に就いた。
毎夜のように彼を苛む、あの昏い記憶が待つ夢の世界へ。抗う術を持たない彼は、今夜もただ、逃げるように意識を手放すのだった。
季節は夏。それ故に暑く、そして眩しい。窓から差し込む朝日は矢野の顔を照らし、その睡眠を妨げる。嫌々、といった感じで起き上がった矢野は時間を見ると、慌てて準備を始める。
歯を磨き、寝癖をなおし、服を着替える。一張羅でも何でもない、ただの簡素な服だが、彼は意外とこれを気に入っている。
「行ってきます」と一言添えて、家から出る。行き先は、迷宮とは反対方面に三駅進んだところのショッピングモール。
食料、衣服、雑貨、何でもあるその建物で、矢野は衣服を見繕っていた。長く替えていなかった故か、最近色んな服が傷み始めている。ここらで大きく買い替えるかのもありだな、と色々見ているのだ。
これもありだな、あれも捨てがたいななどと唸っていると――不意に肩を叩かれた。
反射的に振り返ると、そこには――懐かしい顔がいた。薄い茶色の瞳は透き通るように綺麗で、空気を含んだかのように、ふわりと波打つミディアムボブの茶髪は周囲の目を惹きつける。
彼女の名は、水瀬紬。この男――矢野翔吾の唯一の幼馴染である。




