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五歳の息子に「お母さまはいつ笑うの」と聞かれたので、笑える場所を探しに離縁届を出しました  作者: 秋月 もみじ


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第10話 笑ってる


春の陽が、事務室の机を斜めに照らしていた。


窓を少しだけ開けると、土と若草の匂いが入ってくる。冬が終わった。商会の裏庭の梅擬きが、小さな蕾をつけ始めている。


帳簿を開いた。


ブレンナー商会の月次収支。来月の仕入れ計画。東の交易路の拡張に関する試算——。


ふと、手が止まった。


帳簿の隣に、エルヴィンの見積書が置いてある。昨日の商談で受け取ったものだ。私の帳簿の革表紙と、エルヴィンの見積書の羊皮紙が、机の上で並んでいる。


いつからだろう。


この机の上に、二人分の書類が当たり前のように共存するようになったのは。


少し不思議な気持ちで見積書に触れた。エルヴィンの筆跡。数字は相変わらず正確で、品目の並びに無駄がない。余白には——取引先の港の荷受け時間のメモが、小さな字で書き込まれている。


(……数字の向こうに、人を見ている)


誰かが言った言葉が、胸の中で小さく響いた。



朝の仕事を始めようとした時、フランツが封書を持ってきた。


「お嬢様。辺境伯領からです」


封蝋を見た。


銀狼の紋章。ヴァイセンベルク家のもの。


マルタの手紙ではない。マルタの封蝋はもっと小さく、蝋の色も違う。


これは——ディートリヒからだ。


「ありがとう、フランツ」


フランツが出ていくのを待って、封蝋を丁寧に割った。


羊皮紙を広げる。見覚えのある筆跡。力強いが、以前より少し乱れている。


『クラーラ。


こうして手紙を書くことを、お前が望んでいないことは分かっている。


だが書かずにはいられなかった。


あの九年間、お前がしてくれたことの意味を、今になって理解した。帳簿の一行一行に、どれだけの時間と判断が込められていたか。商人たちがお前の名前を口にする時の敬意を、俺は見ようとしなかった。


監査官に一つ一つ説明を求められて初めて、お前が毎月一人でやっていたことの全容を知った。


戻ってきてくれないか。


虫のいい話だと分かっている。だが、レオのためにも——』


手紙を読み終えた。


窓の外を見た。春の空は青く、薄い雲が東に流れている。


しばらくそうしていた。


怒りは湧かなかった。恨みも。哀れみすら——もう薄い。


あの人はようやく理解した。九年遅かった。九年前に、あるいは五年前に、三年前に——あの委任状に署名した時にでも、帳簿を一頁めくっていれば。


でも、めくらなかった。


それがディートリヒという人だった。


手紙を畳んだ。燃やすでもなく、破るでもなく。引き出しを開けて、マルタの手紙の束の隣に、そっとしまった。


(怒りも恨みもありません。ただ、もう戻る理由がないだけです)


声には出さなかった。出す必要がなかった。


引き出しを閉じて、帳簿に手を伸ばした。今日の仕事がある。



午後。


事務室の扉が開いて、レオが飛び込んできた。


「お母さまっ!」


木彫りの馬を片手に、頬を紅潮させている。その後ろから、エルヴィンが商会の裏口から入ってきた。片手に布で包んだ大きな皿を持っている。


「今日は休みにしましょう」


エルヴィンが言った。ぶっきらぼうに。でも——少しだけ、いつもと違う。声の端が、かすかに柔らかい。


「休み、ですか」


「春ですから」


理由になっていない。けれどレオが「お外で食べるの!」と腕を引っ張るので、帳簿を閉じた。


裏庭に出ると、小さなテーブルと椅子が三つ並んでいた。フランツが用意してくれたのだろう。テーブルの上に白い布が敷いてある。


エルヴィンが布を開いた。


苺のタルト。


今度は生地が均一で、苺の並びも整っている。焼き色がきれいだった。甘い香りが春の風に乗って広がる。


「前のより上手に焼けてる!」


レオが椅子によじ登って、目を輝かせた。


「……練習した」


エルヴィンが短く言った。耳が赤い。あの時と同じだ。


レオに一切れ、私に一切れ。エルヴィンは自分の分を後回しにして、二人の皿にタルトを載せた。


一口、食べた。


苺の酸味と、生地のバターの香りと、蜂蜜の甘さ。舌の上で溶けて広がる。温室の苺はやはり少し季節外れで、露地物の初夏の苺にはかなわない。でも——。


おいしかった。


レオが頬いっぱいにタルトを詰め込んで、苺の汁を口の端から垂らしている。エルヴィンが無言で布巾を差し出す。レオが「ありがと」と受け取って、自分で拭く。


春の風が裏庭の木々を揺らした。梅擬きの蕾が陽光にきらめいている。


レオが二切れ目を食べ終えて、ふとこちらを見た。


「お母さま」


「なあに」


「笑ってる」


──息が止まった。


レオの目が真っ直ぐにこちらを向いている。あの朝と同じ青灰色の瞳。けれどあの時とは違う。驚きではなく、嬉しそうな顔をしていた。


笑っている。


私は——笑っている。


口角が上がっている。頬の筋肉が自然に動いている。いつからだろう。タルトを食べた時か。レオが苺の汁を垂らした時か。エルヴィンが布巾を差し出した時か。


分からない。分からないけれど、笑っていた。


「……ええ」


声が少し震えた。


「笑ってるわ」


レオが「やったあ」と小さく両手を上げた。木彫りの馬が春の陽にかざされて、影が白い布の上に揺れた。


エルヴィンが——黙っていた。


黙って、こちらを見ていた。いつもの実直な目。でも今日は、その奥に——言葉にしていない何かがあった。


「ずっと」


低い声だった。


「あなたの笑った顔が、見たかった」


春の風が止んだ。梅擬きの蕾が静かに揺れている。レオが三切れ目のタルトに手を伸ばしている。世界はそのまま動いている。


けれど、私の中で何かが——静かに、決定的に、動いた。


帳簿を見た日から。許せなかったと言った。仕事への敬意だと言った。


——笑った顔が、見たかった。


それは仕事への敬意ではなかった。敬意だけでは、人は苺のタルトを三回も四回も焼き直さない。


(ああ——そうだったのか)


知っていた。本当は、とうに気づいていた。温かい飲み物の蜂蜜の香り。木彫りの馬を貸す時に折った膝。使者を追い返した声。白紙の紙束を鞄に入れて来た日。


全部——。


テーブルの上に、エルヴィンの右手があった。タルトの皿の横に、無造作に置かれている。日に焼けた、大きな手。商人の手。帳簿の数字を正確に読み取る、信頼できる手。


私は——手を伸ばした。


帳簿に伸ばすのと同じように。数字を追う時と同じように。自然に。でも今度は、紙の上ではなく。


指先がエルヴィンの手に触れた。


エルヴィンが息を呑むのが聞こえた。手が少しだけ震えた。けれど引かなかった。


指先から掌へ。エルヴィンの手が、そっと私の手を包んだ。温かかった。蜂蜜茶の温かさではなく、春の陽の温かさでもなく——人の体温だった。


「お母さま、もう一個食べていい?」


レオの声がした。こちらを見ていない。タルトに夢中だ。


「ええ。どうぞ」


声は震えなかった。


手は、つないだままだった。



夕方。


レオがエルヴィンの馬車が見えなくなるまで手を振って、ようやく家の中に入った。木彫りの馬を片手に、苺のタルトの最後の一切れをもう片方の手に持って。


事務室に戻った。


机の上に、帳簿がある。その隣に、エルヴィンの見積書がある。


朝と同じ光景だった。何も変わっていない。


──いや、一つだけ変わった。


帳簿を開いた。ペンを取った。来月の仕入れ計画の続きを書き始める。


窓から春の風が入ってくる。梅擬きの香りがかすかに混じっている。右手にペン。左手の指先に、まだ人の温もりが残っている。


笑える場所は——ここにあった。

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