8話
何かが溶け落ちた。
まるで鍵盤に指を滑らせるかのように、ごく自然に息を吸う。
気管を通って肺に染みる空気は冷たく澄んでいるように思われた。まるでそうすることがあらかじめ決まっていたかのように。
シンは唇を開いた。
『 あいしていた 』
たった六つの音にして、強烈な旋律。
その場にいたものたちが一斉に目を見開いて、シンを見た。
『 あなたはわたしのせかいだった 』
飛翔する鳥のように声が降り注いだ。
『 あなたは とりのようにまいおりた
そのひとみに こえに
あなたは せかい
わたしのめのまえに まいおりたせかい 』
金属が響き合う。高く澄んだ共鳴音。刺すような冷たさ。
それでいて一度耳を撫ぜれば決して離れることはない。
繰り返し響く高い声が残響となって脳を揺らし聴覚を支配する。
幾何学模様のように旋律は上下し、複雑に絡み合う。やがて振動となり、身体を揺らす。
一度はじまった旋律は、もはや制御を知らない。
声はいままでの渇望をすべて吐き出すかのように空を地を海を覆って渡る。人々の脳を冒し、それまでの生で蓄積された音をすべて塗り替えてゆく。
シン以外の人間は服従するかのように膝をつき、身をよじりのたうった。
『 あいしていた あいしていた
どこへいったの どうしておいていくの
あなただけがわたしのせかいだったのに 』
拙く幼く、けれど激しい恋情。駄々をこねる幼子のように、泣きながらかぶりを振る女のように、誰かを待つ姫君のように、剣戟と一体化する騎士のように。
支配の声に震え、人々の瞳から溢れた。
「な…んなの、これ…っ」
のどの奥から嗚咽がこみあげる。吐き気がする。嘔吐する。頭痛がする。
臓腑という臓腑が、細胞が、歌を求めて身体から飛び出していきそうだった。
戦慄。切り裂くような旋律。
ソインは耳をふさいで膝から崩れた。無駄だと解っていても、震えが止まらなかった。こんな――こんな歌を、知らない。
『 あいたいあいたいあいたい
あいしていたのに 』
手を伸ばすのに届かない。追い求めるのに触れられない。もう見えない。もう聞こえない。
自分の旋律が、砕かれる。消えてしまう。
嘔吐を寸前でおさえながら、ソインは不規則な呼吸をした。この歌を止めなければ、全身がばらばらになってしまう。
人だけではない、世界が、生き物が揺れている。
固有の振動数すべてに、シンの歌がはたらきかけている。
――滅んでしまえ、と。
無邪気に、笑いながら、泣きながら、血を吐きながら、滅亡を祈る歌。
ソインは唇を噛んだ。
鈍い血の味が広がる。涙が止まらない。けれどこれは知っている歌だ。
遠く遠く雑音が混じり視界は深い霧に覆われて、それでもこの旋律は知っている。生まれるずっと前から――。
やがて意識が砂のようにこぼれていった。朦朧としてくる思考を止められない。
霧と化してゆく思考の残滓が、最後の力をふりしぼる。
(これは…女神の…)
シンが突然変異なのではないとしたら。
おかしいのはこちらのほうだとしたら、シンは――。
ソインはふつりと意識を手放した。
すべてにひとしく、夢が訪れた。
ひとりの美しい女が泣いていた。傍らに倒れた男や子供の姿があった。
女は己の罪を悔いていた。そう、とほうもない罪を犯してしまった――。
のろりと見上げれば、空は淀み海は汚れ、地は嘆き生物が悲鳴をあげている。これはすべて、自分がやったものだ。
すべては、自分のせいだ。
女は泣きながら立ち上がり、嘆くように歌い、祈るように旋律を紡いだ。
海の上を歩き、苦しむ大地へと向かった。驚愕と歓喜で迎える人々の顔を見ても、まったく心が晴れることはなく、ただ終わりのない贖罪のために、己のすべてをささげようと覚悟したのだった。
『 あいしていた あいしていたの 』
残滓のように、旋律が微かに尾をひいて消えていった。
やがて夢から覚め、瞼を開ける。
誰ともなく、ゆっくりと身を起こした。ソインもその中にいた。
まだまどろみの中にいるようで頭がまともにはたらかず、現実の認識が遅れた。ここは夢なのか、死後の世界なのか――ゆるくかぶりを振って意識を取り戻す。
「お、おい、見ろあれは…!!」
兵士の一人が声をあげ、動揺があっという間に広がった。ずきずきと痛む頭に手をあてて、ソインも視線を向け――はっと息を飲んだ。
水平線の向こうから、いつの間に落ちたのか、日の光がまたのぼってくる。境界線は炎をともしたように赤く燃えていた。
今まで見た、焦げるような黒ずんだ色ではない。何物も邪魔されることない、烈火のごとき赤。
「汚染が…浄化されている」
無意識にこぼれた自分の言葉に、ソインは驚愕した。
慌てて耳を澄ます。大気に呼吸をあわせ、風の声をきく。風のはこぶ音を聞く。
どよめき、驚愕――歓喜。生命の爆ぜる声。鉛のヴェールをかけていたような重苦しさはなくなり、つきぬけるような歓声が聞こえた。
肺に染みる空気は透き通るように澄んでいてここちよく細胞を刺激する。その冷たさはどこか――シンの、歌を思い起こさせた。
押しつぶされるような痛みに流していた涙とは別のものが、頬を熱く伝っていく。
呪いと破滅、慟哭の歌は、世界を浄化した。
禁じられたシンの歌こそが、交配で薄れた自分たちとは比べ物にならぬほどの力をもった、導き手の基たる“女神”のもので――。
「い、イド様とソイン様が救ってくださったんだ! 我らの英雄! 我らの歌姫が!!」
咆哮を打ち鳴らすような叫びが唱和して、ソインは眼を見開いた。
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
やがて全身がふるえ、激しくかぶりを振っていた。
――わたくしじゃない。わたくしじゃ…!
わななく唇は反論を許さない。
賞賛、崇拝。今まで受けてきたどんなものより尊く、大きいはずのそれが、まるで冷たく全身を縛りつける鎖のように思えた。
すがるようにイドを見ると、エスの亡骸の側に膝を折っていた。
亡骸に折り重なるようにして、細い少女の亡骸があった。ただ一度、命をかけて激しい歌を歌った少女は、すべてを使い果たしたようにすこし青ざめた顔で眠っていた。
もう呼吸することも、瞼を開けることも、喉の痛みに苦しむこともないように。
ソインはイド、と呼んだ。声は焦り、震えていた。
確かに聞こえたはずなのに、イドは振り向かなかった。握りしめた両手が小さく震え、ぽたりと滴が落ちていた。
ソインは、足もとが急に崩れていくのを感じていた。
イドまで巻き込むつもりなんてなかった――。けれど結果として、ソインの歌に一瞬意識をのっとられたゆえに義兄をその手にかけることになった。
ソインはかぶりを振った。
わたくしじゃない、と言おうとして――言えなかった。
どこか遠く、ひどく冷たい思考が、もう二度と彼を手に入れることはできないと知っていた。
*
のちに人は語り、歴史書に刻まれる。
汚染を打ち払った歌姫と英雄の名を。多大な犠牲を払い、奇跡の御技をなしたのだと。
ついに明かされることのなかった歌姫の憂いの顔の意味、のちに姿をくらました英雄の理由など、知ることもなく。